カツオ節が年貢だったトカラの島々
カツオ節が年貢だったトカラの島々
薩摩藩のカツオ漁撈の中心地は、トカラ列島だった。屋久島と奄美大島の間の海域に連なる口之島、中之島。諏訪之瀬島、悪石島、平島、臥蛇(ガジャ)島、宝島(小宝島を含む)の七島である。
鹿児島では、枕崎、山川の二つの港がカツオ漁として有名だ。でも昔は七島が名産地だった。
カツオは黒潮にのって回遊する魚である。黒潮は東シナ海を北上し、トカラ列島付近でその向きを東に変えて太平洋に流れ込む。だからトカラの海域はカツオの絶好の群れ場所であり、漁場である。
下野敏見著『南日本の民俗誌3 トカラ列島』を読んでいると、「カツオ漁史」を簡潔にまとめられていて興味深かった。同書からかいつまんでの紹介である。
トカラのカツオ漁撈の始まりは縄文時代にさかのぼるらしい。ただ、地域の歴史にあらわれるのは、16世紀になってからだ。1513年、臥蛇島からカツオ節と煎脂(センジ、カツオの煮汁に骨を加えて煎じる)を種子島氏(種子島の領主)に貢納したことが『種子島家譜』に記されている。1770年には「秀吉の朝鮮の役(16世紀末)の時、七島からカツオ節を献上した。カツオ節は勝男武士であり、至極冥加(シゴクミョウガ)であると殿様が喜んだ。以来、七島から毎年、鰹節30連(1連は10本)、塩辛2壷(1壷は3斤入り)を献上するようになった。これらの品物はトカラ(漢字)各島の郡司が持参し、各島いっしょにまとめて献上するようになった」という趣旨の記事が島津氏記録にあるという。
トカラの人々が島津氏に納める年貢はカツオ節であった。中之島では2616本を41戸で納めたから1戸当たり63本ほどになる。宝島では、カツオ節9048本納めた。これらは年1回、年貢船で上納した。
カツオ節
藩政時代の平島の一戸当たり上納額はカツオ節40本であったという。それは太くても小さくても駄目で、八寸長さに規格化されたものでなければならなかった。丸に十の字の旗を立てた薩摩の御用船(9反帆)が来て積んで行った。その船を年貢船といった。
納められたカツオ節は江戸、大坂へも送られて、薩摩節、七島節といって名産の一つに数えられるにいたった。
七島民の税負担はほかにもあった。宝島の例をあげると、煎脂18斤(6樽)、真綿1貫30匁など。竃税(各戸1匁ずつ)、牛税(1頭に銀2分)もあった。
ほかにも、例えば島司が麑府(ゲイフ、鹿児島)参上の時は、藩主、隠居、若殿などへ、それぞれ節300本ずつを献上し、船手、船手奉行、上書役、奉行などへも、節を50本ずつとか銭500文とか、酒いくらとかを献上するならわしだった。これらを七島全戸で割ると、一戸当たり年間25本~70本のカツオ節負担になる。
「このような税負担に苦しみながらも、トカラ(漢字)漁民たちは、川辺郷士の誇りも高く、砕け散る波頭のしぶきを浴びて、七島灘にカツオを追ったのである」(同書)
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