琉球に渡来した宝島人とは、その6
「上り口説」で歌われる七島灘
薩摩に支配された琉球は、ことあるごとに日本・薩摩に行かなければならない。幕府の将軍誕生など祝う慶賀使、琉球での国王就任に感謝する謝恩使、薩摩への年頭使など派遣された。大和への「上国使者」は、約1000回を数えるという(深瀬公一郎「近世日琉関係における鹿児島琉球館」、紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』から)。「大和旅」と呼ばれた。
「大和旅」の情景を歌った沖縄民謡に「上り口説」(ヌブイクドゥチ)がある。
首里城出発して、首里観音堂を拝み、弓矢八幡、崇元寺の前を通り、親子兄弟と別れて船に乗り出発する。船は三重城、残波岬(ザンパミサキ)を後にして、伊平屋島灘の荒波をこえ、東シナ海を北上し、奄美諸島を見ながら、海の難所、七島灘をこえる。そして、佐田岬、煙を噴き上げる桜島に迎えられ薩摩に到着する。
7番目の歌詞に、七島が登場する。
「伊平屋渡立つ波 押し添いてぃ 道ぬ島々 見渡しば 七島渡中ん なだやしく」
(伊平屋灘の荒波も風のごとくに 奄美諸島の島々を見渡してみれば 七島の荒波も楽々と)
奄美大島と屋久島の間、トカラ列島付近の海域は、古くから「魔の海域」として恐れられてきた。東シナ海を北上した黒潮が、海のなかの大河のように激しい勢いで太平洋に流れ込むからだ。古くから海難事故が多発した。
七島灘の難所を通過して薩摩に至る船旅は、とても危険がともなう。だから、航海安全はなによりの願いだった。この曲では、そんな海の難所も「なだやしく」といって、荒波をらくらくと越えられるようにという願いが込められているようだ。
トカラ列島と七島灘の海の難所のことを知れば、この歌詞の意味がよくわかる。次からは、そんな意味や歴史をかみしめながら歌いたい。
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