カツオ漁の町・本部町、その2
本部町では、大正3年(1914)ごろから再びカツオ漁業が盛んになり、大正6年には最高潮に達した。カツオ漁船数が明治44年に17隻まで減少していたが、大正5年34隻に漸増して、同6年にはこれまで最高の36隻に増加した。
もっとも、一般庶民には、カツオの頭や、身をおろしたあとの中骨がせいぜいの馳走で、腹肉(ハラゴウ)は高級品、カツオ節など手が届くものではなかった。成型の際にでる削りがら(ヒジガラー)もなかなか買えなかったようだ。
明治44年ごろの本部・渡久地(トグチ)あたりの漁村の風情がしのばれる記録がある。「鰹の本場なる当地昨今の忙しさは、実に目が廻る程なり。農作物の不作や砂糖の不景気に反し鰹の収穫の驚くべき程なり」(明治・大正新聞集成―本部町史資料編1)
水産技師だった木村八十八氏が県内の漁村を回った報告によると、本部町は国頭村で最も漁業が盛んなところで、専業者も多かったけれど、その中には漁業が発達していた糸満から移住した者が多かったそうである。
カツオ漁船(『本部町史』から)
カツオはいま、マグロなどに比べると値段が安く、買い求めやすい大衆魚として食べられている。カツオ節は、沖縄では出汁用に、とてもたくさん使われる。市場に行けば、いまもカツオ節専門店があり、繁盛している。でも、明治後期ころには、庶民にとって腹肉やカツオ節は手が届かなかったとは、隔世の感がある。
沖縄は昭和初期の恐慌で「そてつ地獄」といわれるように、県経済はどん底に陥れられた。そんななかで、本部のカツオ漁業は大正13年をピークに昭和戦前期に激減した。鰹節の単価も大正12年kg当たり2・80円をピークに昭和13年には同0・85円と3分の1以下の激安となっていった。
県経済の不況及び県内カツオ漁業の不振から、シンガポール、フィリピン、特に当時は我が国の委任統治領であった内南洋諸島への出稼ぎカツオ漁業へ、県民の多くが進出していった。本部からも多くの人が南洋漁業へ進出した。
沖縄戦の前触れともなった昭和19年10月10日の空襲の前後、本部では鰹節製造が盛んだった。日本軍の各部隊が連日、鰹節を受け取りきて供出に応じたので、民間に売り出す余裕はほとんどなかったという。
当時、本部に何隻の鰹船があったか不明であるが、そのほとんど全部が、時折偵察に襲来したコンソリデッドB24や潜水艦、または10・10空襲に現れたグラマンやカーチスに銃撃され、破壊され、沈没した。
10・10空襲のさい、魚を船に積んで渡久地港に帰る途中、グラマンの猛爆撃に見舞われ、乗組員2人死亡し、重傷を負った人もいる。別の鰹船で命を失った人もいる。多くの漁師が傷を負い、命を落としたという。10・10空襲では、渡久地港の港湾施設など空襲を受けた。
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