琉球に渡来した宝島人とは、その1
琉球に渡来した宝島人とは
交易集団としてその名を馳せていた
琉球と中国の交流の歴史を学んでいたとき、琉球に「宝島」と呼ばれる地方から、商人が物産の買い付けに来ていたことを知った。この「宝島」とは、どこなのか。「宝島とは架空の島のこと」と説明する人もいた。でも、そうではない。奄美大島と屋久島の間に浮かぶトカラ列島、昔の七島を総称して宝島と呼んでいた。
トカラ列島といっても、あまりなじみがない。鹿児島の南、種子島から与那国島にかけて弧を描く南西諸島のなかで、屋久島と奄美大島の間の海域に連なる島々である。口之島、中之島。諏訪之瀬島、悪石島、平島、臥蛇(ガジャ)島、宝島(小宝島を含む)の七島がある。
口之島や平島など平家の落人が流れてきた伝説がある。宝島は、スティーブンスンの小説「宝島」のモデルになったとか。悪石島は、沖縄戦のさい沖縄から本土への疎開船「対馬丸」が、島の北西10キロで米軍の魚雷によって撃沈され、1400人以上の学童らが犠牲になった悲劇の歴史がある。島には慰霊碑が建っているという。
トカラ列島は、行政的には十島村である。テレビの九州地方の天気予報を見ると、必ず「十島地方」が出てくる。沖縄に住んだ当初は、「十島」もなじみがなくて「それってどこなの」という感じだった。
トカラ列島の七島と屋久島より北にある硫黄島など三島を合わせて、かつて十島村をつくっていた。でも太平洋戦争後、三島は日本へ、七島は米軍統治へと分断された。その後三島は三島村となり、七島は日本復帰とともに十島村となった。ここにも、戦争が影を落としている。
このトカラ列島が、琉球と重要なかかわりをもっていた。
「十島村史略年表」を見ると、今から600年近くも前に、1429年から1440年ころ、トカラ列島から琉球に初めて船で買い付けに来たという。
「宝島の平田権二郎定宗が琉球へ渡り、布や酒を購入して鹿児島の藩主へ献上し、以後、琉球の案内約(役)を務める」
トカラ列島はいずれも小さな島々なので、古くから船を操り航海するのは得意だったのだろう。宝島は七島のなかでも、もっとも南に位置する。奄美大島、さらに琉球には近かった。七島人は、七島から琉球を結ぶ道之島の海路を熟知していた。
それだけでなく、当時の七島は、半ば琉球に属し、半ば薩摩に属していた。七島には、七島海域を支配する領主は存在しなかった。
1450年には、臥蛇島に漂着した朝鮮人4人は、同島が薩摩と琉球の中間にあるという理由で、4人のうち2人は薩摩へ、2人は琉球へ送られた。
半ば琉球と半ば薩摩に属していた当時の事情がうかがえる逸話だ。
七島衆は交易集団としてその名を馳せていた。「七島船が琉球と薩摩のあいだを人・物・情報を運んだ」といわれる(紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』)。
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