琉球に渡来した宝島人とは、その4
薩摩支配を隠ぺいするために使われた「宝島」
琉球は、中国に朝貢し、中国皇帝から国王として認証を受ける冊封(サッポウ)体制にあった。1609年に薩摩により侵略され、その支配下にありながら、日本・薩摩との関係を出来る限り隠ぺいする政策をとった。冊封使が渡来した際は、薩摩の役人らは那覇を離れ城間(グスクマ)村=今の浦添市=に隠れた。唐人には決して薩摩の支配を受けていることは話さないことを徹底していた。
『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』によると、1683年に尚貞王が冊封された年に、琉球は薩摩藩の役人と船頭を宝島人(これは今のトカラ列島、昔の七島を総称して宝島と呼んでいた)と偽って、那覇で冊封使と対面させていた。1719年に尚敬王が冊封された年に、薩摩藩は宝島人と冊封使との対面を中止させた。
琉球王府は、薩摩侵入後、日本・薩摩との関係を隠ぺいするために、日本と通交しているのではなく、日本の属島トカラの商船が来航して交易を行っているという、「トカラとの通交」という立場をとった。
「タカラとの通交」という論理は、薩摩支配を隠ぺいする方策としてしばしば使われた。
中国へ使いに行った琉球人、あるいは漂着という形で中国へ着いた琉球人が、琉球と日本との関係を問われたとき、宝島人(七島)と商売している、琉球にやってきているのは宝島の商船である、と答え、日本(薩摩)との関係を隠ぺいする政策をとっていた(1753年、59年の「旅行心得之条々」「同追加」、紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』から)。
道之島と呼ばれた奄美諸島
道之島(奄美諸島)人がヤマト船に乗って唐(中国)へ漂着した際の返答の心得をのべた史料がある。それによると、道之島は琉球の属島として中国へは知らせてあるので、そのつもりで返答せよ、という。たとえば、琉球は36島あって、3,4年に1度島々を巡見するのであるが、自分たちはこのたび徳之島を巡見して、舟がないのでヤマト船(タカラ島船)を雇って那覇へ帰る途中、唐(中国)へ漂着した、と答えよ、と指示している。(金城正篤著「冊封体制と奄美」『琉球史学』12号)
中国から琉球に冊封使を乗せた冠船が来る途中に道之島(奄美諸島)に漂着した場合の応対の心得をのべた史料もある。その中に、「もしもヤマト船が係留中ならば、砂糖・芭蕉・苧(カラムシ)・米等の買入れのために来ている『宝島』の者の船だと答えろ」と指示している(同書)
これらは、薩摩との関係を隠ぺいするため、「宝島」=七島が都合よく使われたことを示している。それだけ、七島の商船が奄美諸島や琉球に買入れのためによく来ていたことの証左でもある。
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