琉球に渡来した宝島人とは、その3
トラブルもあった交易活動
中国から琉球に国王の認証のためにやってくる冊封使(サッポウシ)一行は、たくさんの中国物産を持ち込む。それを琉球王府がそれを買い取る。大事な交易の機会である。
しかし、持ち込む唐物の買い取りをめぐって、しばしばトラブルが発生した。有名なのは、一七一九年の尚敬王の冊封の時だ。冊封使は、正使が海宝、副使は徐葆光(ジョホコウ)だった。この当時、持ち込まれた品物は確かな史料がある一〇七人分だけで一〇〇七件にのぼる。一行の総勢六〇〇人以上だと、品物の総数は、六〇〇〇件以上と推測される。
品物の代銀は二〇〇〇貫余ある。琉球が用意した買取代銀は五〇〇貫目しかなかった。中国側が立腹して騒ぎになった。なんとか一〇〇貫追加して、銀六〇〇貫を用意したが、結局半分以上の品物は売れ残り、中国側は持ち帰ることになった。
なぜ、この時に大きなトラブルが起きたのか。それは、前回の冊封の時(三六年前)は、冠船の入港のニュースを聞いて、琉球の近隣の鹿児島、トカラ七島などから船が中国物産の買い物に集まってきた。中国から持ち込んだ品物はよく売れたそうだ。この時のことが、福州では語り草になっており、「今度も売れるだろう」とあてこんで、乗組員たちが多量の品物を持ち込んだようだ。
だが、平和が長く続き、琉球も毎年、福州で貿易し、外国にも中国の商品が豊富に出回るなど、もはや事情は一変していた。だから、中国から冠船が来ても、琉球外から買い物の船はまったくやって来なかったという。七島・薩摩からも買い付けに来なかった。まったく当てが外れたわけである。
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