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2013年11月

2013年11月30日 (土)

沖縄民謡に歌われた民具、ニクブク

ニクブク

「これって何?」。最初聞いたときに想像できなかったのが「ニクブク」。藁筵(ワラムシロ)のことだ。

沖縄では、昔は、家の座敷の下敷きにし、その上に茣蓙(ゴザ)を敷いた。庭に物干し用として敷いたり、何かの祝い事がある時は、庭に敷いた。冬の寒い夜、貧しい家庭では、これを寝具に使う場合もあった。ニクブクは、自作する家が多かったが、自作できない家では、他所からツクヤー(藁筵作り)を頼み入れ、寝泊まりさせて作らせる場合もあった。

 ムシロは、藁やイ草で編んだ敷物である。菰(コモ)ともいった。ネット「ウィキペディア」によると、ゴザはその代表的なものだという。

 私の育った高知では、ムシロとゴザはまったく異なる。ムシロは藁で編んだ厚くて粗い敷物のこと。ゴザはイ草で編んだ薄い敷物のことをいう。畳表に使われるのと同じ物。巻いて持ち運びもできる。たとえば運動会など野外行事の時、ゴザを敷いた。いまはブルーシートにすべて取って代わられた。


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         ニクブク。上江洲均著『沖縄の民具と生活』から

 「スウキカンナ」節では、「寝座敷用のムシロを買いませんか。あなたのムシロは縁の織り方がよくない。私のニクブクを買ってください」という。

 ニクブクが藁ムシロだとすれば、寝座敷ムシロとはどう違うのだろうか。アルテ三線仲間の玉那霸さんによると、「寝座敷ムシロとはゴザのことですよ」という。ニクブクは粗いムシロのことである。

玉那霸さんが興味ある話をしてくれた。それは、首里崎山町あたりは、泡盛の酒造所がいくつもあった。そこでは、麹を干すのにニクブクを使っていた。使ったニクブクをたくさん塀に掛けて干す光景をよく見かけたそうだ。
 
 

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 ニクブクを干すため、塀の先端が四角だと、雨が降って来た時、ニクブクを仕舞うのに塀に引っかかって手間取る。だから、塀の先端は三角にしてあり、素早く仕舞うことができたという。なるほど。沖縄は雨が降る時は、一秒を争って仕舞わないとずぶ濡れになるからだ。

 

崎山の酒造りは「三村踊り節」に歌われている。沖縄各地の物産などで共通する三つの村を歌った面白い曲である。5番の歌詞に酒造りが登場する。

 

「赤田、鳥堀、崎山と三村 三村ぬ二才達(ニセタ)が 揃とうて 酒たち話

 麹出来らしょ 元ぬかんじゅんど」

 

この三村は、首里城の周辺にあり、昔から泡盛造りが盛んだった。次のような意味になる。

 

「赤田、鳥堀、崎山の三つの村の青年たちが揃って酒造りの話をしている 

麹をうまくつくれよ うまくやらないともとがとれず損するぞ」 

 

先日、糸満市西崎にある比嘉酒造を見学する機会があった。泡盛資料館に、ニクブクの上に黒麹を広げて干している様子が再現されていた。「このようにしてニクブクが使われたのか」とよく理解できた(上写真)

 

それにしても、ニクブクという名称はあまりにムシロとはかけ離れていて、まだなじめない。「一説には『猫ぶく』、すなわち作り方が猫の爪を立てるしぐさにちなんだ名称だという」(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

 以上は、上江洲氏の著書を参考にさせていただき、私見をまじえながら紹介したものである。

2013年11月29日 (金)

沖縄民謡に歌われた民具、バーキ

 バーキ

 バーキとは、竹を編んだカゴのこと。もっとも庶民的なカゴだ。背の低いバーキは、運搬用具としての用途が多い。口径が開いているわりに背が低く安定しているので、女性が頭の上に載せて荷物を運ぶのに向いている。

編み目を粗くすれば、野菜や魚の運搬用であり、目を細かに編めば米入れ用と用途も広い。

「スウキカンナ節」では、「あなたのカゴはあまりに粗すぎるので、私の米を入れられるカゴを買いませんか」と歌われる。「越来間切の上地」あたりは、バーキの産地だったそうだ。

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      頭に載せたバーキ。上江洲均著『沖縄の民具と生活』から

バーキの語源はわからないが、「キ」は「箕」の文字を当てて考えることができるそうだ。

ソーキやバーキにしても竹製品。沖縄ではあまり竹を見ない。どのようにしていたのだろうか。上江洲氏によれば、竹は割りやすく編みやすい。沖縄では竹の利用は多かったと思われる。ただ、良質の竹に恵まれず、蓬莱竹が主に用いられてきた。

 昔は「バーキウヤー」と呼ばれるザル売りがいたという。バーキは、「各ムラともカッティー(専門)と呼ばれる人が作っていた。特に惣慶には専門の人がおり、注文に応じて作っていた。山竹でバーキを作った。耳が二つあるミミターチャー(タンカーミーミー)と四つ耳のミミユーチャーがある。それを農家でよく使っており、注文も多かった。籠職人の家庭の者が売り歩くこともあり、それがバーキウヤーである」(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

 

2013年11月28日 (木)

沖縄民謡に歌われる民具、ソーキ

沖縄民謡に歌われる民具

 

 沖縄民謡には、さまざまな民具が登場する。庶民が生活の中で用いる民具は、それを通して、その当時の暮らしがしのばれる。
 
 民具が登場する曲の代表格が、各地の産物を売り込む商人の姿を歌った「スウキカンナ節」だ。

 一口に民具といっても、沖縄と大和では同じ物もあれば、沖縄にあって大和ではみかけない民具もある。同じ民具でも、呼び名が違うこともある。とまどうこともしばしばである。

 上江洲均著『沖縄の民具と生活』を読んだ。そのなかからいくつか紹介したい。

ソーキ

 スウキカンナ節でまず登場するのが「ソーキ」「ミージョーキ」である。これは、竹で編んだ丸いザルのこと。ソーキは全国的に分布し、西日本ではショウケ、ソーケと呼び、東日本ではザルという呼び方が多い。そういえば、郷里の高知も祖母が「ソーケ」と呼んでいたことを思い出す。

ソーキは、円形が主で、小さいものは直径30センチ、大きいと60センチ、平均40センチくらいある。サツマイモや野菜洗い、米の水切りによく使われた。食器の水切りにも使った。Img013_2


          

       ザルを編む。絵は上江洲均著『沖縄の民具と生活』から

「ミ=箕」と「ソーキ=筲箕」は、「中国大陸に源を発する名称ならびに技法」だそうだ。二つの竹製品は、日本と琉球列島に早くから伝わったはずだが、「ミ=箕」は琉球では使われない。ソーキだけが古くから使われた。

 「ミ」はU字の片口型で、前部は切り、横から後部にかけて丸く編み上げている。郷里の高知でもよく使われていた。ミに穀物など載せて振っていた記憶がある。
 
 

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          ミージョーキ。同書から


沖縄には、なぜ「ミ」がないのかは不明だ。でもその代わりに「円形箕」がある。これが「ミーゾーキ」「ミージョーキ」とか呼ばれる。これは「ミ」と「ソーキ」の複合語である。

 スウキカンナ節は、「あなたのソーキは曲がりが悪いから、私のミージョーキを買ってください」という。

上江洲氏は著書で、ソーキとミージョーキの違いについて特に説明していない。民謡三線サークルの仲間に、両者の違いについて聞いてみた。「ミージョーキは、穀物などを載せてふるい、風でいらないものを飛ばすのに使う。それがミージョーキのはず。沖縄にはミはなかったよ」という。やはり、ほとんど「ミ=箕」と同じ使い方がされている。「ミ」はなくてもことは足りたのだろう。大きさと用途で名称が違っていたのだろう。

ちなみに、肋骨のことを沖縄では「ソーキ」と呼ぶ。竹ザルのソーキと形が似ている。「その骨を幾条かの経ヒゴに見立てた命名であった」と上江洲氏は述べている。

2013年11月27日 (水)

街路は南米桜が満開

 街路樹のトックリキワタが満開。ピンク色の花々が鮮やかに咲き誇っている。

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 南米桜ともいわれるこの花木は、今年はなぜかとくに華やかに咲いている。昨年は、台風が沖縄本島を直撃したが、今年はほとんど本島をそれたので、花木も被害を免れた。

 近くの与儀小学校の前の通りは、トックリキワタ通りの異名をとるほどの並木である。

例年だと、花は咲いている木もあれば、咲かない木もある。今年は、この数年の間でもとびっきりの咲き方だ。

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 しかも、今年は9月下旬から開花した。その後、例年咲かない木まで咲いてきて、満開状態が続く。12月後半まで咲いているだろう。

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 この花木については、再三ブログに書いてきたので、興味があればそちらをみてほしい。

2013年11月26日 (火)

無残!自民党議員総崩れ

 沖縄県選出・出身の自民党国会議員5人が、普天間飛行場の辺野古移設を容認する方針で一致したのには、怒りを通り越してあきれ果てた。

 自民党県連と5人の議員は、これまで参議院選挙、衆議院選挙で「県外移設」を公約に掲げて当選した。安倍政権が辺野古移設を推進すると、西銘恒三郎衆院議員、島尻安伊子参院議員は早々と公約を放棄していた。残る3人も、石破茂幹事長はじめ自民党幹部の「離党勧告」などの脅しに屈服した。「赤信号みんなで渡ればこわくない」というのだろうか。

 公約は政治家の命である。「県外移設」の公約放棄は、県民への重大な裏切りだ。政府・自民党の圧力は、「県内移設反対」で一致団結した県民世論を分断しようとする卑劣な策謀である。辺野古埋め立て申請に対する仲井真知事の判断を前に、知事の外堀を埋めて認めさせようとするあくどい狙いがある。Img_4102


 しかし、自民党国会議員が公約を放棄したとしても、県内移設反対の県民の総意が変わるのではない。脅迫に屈服し、無残な総崩れをした自民党議員が、県民総意から転落するだけである。

 それにしても、背信行為に対する彼らの弁明は、あいた口がふさがらない。

「状況が変化」したという宮崎政久議員。でも、「辺野古移設ノー」という県民総意は不変である。自分が政治スタンスを変えただけである。

普天間固定化を避けるため「命を優先で考え」たという比嘉奈津美議員。比嘉議員は、名護市を含む衆院3区の選出だが、辺野古移設で危険にさらされる周辺住民の命は「優先」する対象には入らないとは、なんという無神経!

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 「県外移設公約は堅持する」という国場幸之助議員。自民党本部には「容認」といい、県民には「県外移設は堅持」というのは、まさに典型的な二枚舌ではないか。

 「たやすく圧力に屈し、主張を撤回するなら政治家の資格はない」「辞職し有権者に信を問え」(「琉球新報」11月26日付社説)というのは、県民多数の共通認識である。

 自民党議員に続いて、自民党県連も条件付きで辺野古移設を容認する方針に転換しようとしている。議員だけでなく、沖縄自民党の総崩れである。 

沖縄戦で筆舌に尽くしがたい惨禍を体験し、米軍基地の重圧と卑屈な日本政府の沖縄への犠牲強要に苦しめられる県民は、このような背信行為を絶対に許さないだろう。

2013年11月25日 (月)

誰が飲むのか「百年古酒」

 糸満市西崎の比嘉酒造を見学する機会があった。明治16年(1883)創業というから創業130年になる。

 琉球王府で料理長職をしていた比嘉昌続(ショウゾク)の息子、昌文(ショウブン)が、首里で創業したとのこと。糸満市には創業100年を記念して工場を移転したそうだ。沖縄には48の泡盛酒造メーカーがあるが、同じ比嘉酒造の名前が二つあるのでまぎらわしい。有限会社比嘉酒造は、「残波」で有名だ。糸満は株式会社で、3代目の昌廣(マサヒロ)の名をとって泡盛ブランドに「まさひろ」とつけている。Img_4091


 工場を訪ねると、「泡盛まさひろギャラリー」があり、1階は試飲ができ販売をしている。2階は泡盛資料館になっている。

 1階奥に小さな泡盛蔵があった。大きな甕がある。なんと百年古酒(クース)をつくっているという。同じフロアには、別にいくつもの大きな甕があり、「百年泡盛古酒元年」という名札が付いている。1990年代から最近まで、いくつもの甕があった。「平和祈願」と大きく書かれた甕もある。

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 聞いてみると、こちらは古酒をつくる「友の会」のメンバーが共同で百年古酒をつくっているとか。「たまに、友の会の人が泡盛をかきまぜにきますよ」という。

 泡盛の古酒は、ただ泡盛を密閉したまま寝かせればよいというのではない。「仕次ぎ」が欠かせない。甕で古酒をつくるためには、いくつかの甕を用意し、年代順に貯蔵する。一番古酒、二番古酒、三番古酒と貯蔵し、古い親酒に、次に古い酒から補う。順次、次に古い酒から補う。これが「仕次ぎ」と呼ばれるもので、これによって、泡盛の風味を損なわず熟成を図れるそうだ。

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 それにしても、20年、30年貯蔵くらいだと、子どもが成人したときなど記念すべき年に熟成した古酒飲むというのはよく聞くことだ。でも、百年泡盛はだれが飲むのだろうか。「本人は飲めないけれど、子や孫など次世代の人たちが飲むのでしょう」。知人は話していた。

 戦前、首里にはなんと300年近くの年月を経た古酒があったという。沖縄戦で失われたのだろうか。

 2階の資料館には、座間味さんという方の「ヴィンテージコレクション」があった。昔からのビン詰め泡盛が、封を切らないまま数え切れないほど並んでいる。もう今では手にすることはできない幻の泡盛が、昔のままの姿で、包装もそのままである。もうラベルの印刷や包装の紙も変色している。これだけたくさんの泡盛を飲まないで保存するとは驚きである。酒好きの人は、飲まないで保存するなんてとてもできない。「うーん。これは酒好きにはできない。酒を飲まない人じゃないだろうか」と仲間で話した。

 でも、酒を飲まない人が泡盛を収集したいと思うだろうか。泡盛をたしなむ、だからこそ泡盛を収集して残したいと思ったのかもしれない。

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 座間味さんは、比嘉酒造の関係者ではないが、貴重なコレクションをこの資料館であずかって展示している。「もう高齢の方ですけれど、たまに見えますよ」と社員の方は話していた。写真は資料館は「撮影禁止」なので、比嘉酒造のホームページからお借りした。

 

2013年11月24日 (日)

第30回芸能チャリティー公演で演奏

30回芸能チャリティー公演が1123日、那覇市民会館で開かれた。わが民謡三線同好会も出演した。隔年の出番なので2年ぶりである。

 赤い羽根共同募金運動への協力公演だ。今年は30回目の節目となる。よく知らなかったが、第1回から17回までは、八重山民謡の唄者である山里勇吉さんの主導のもと、各芸能者が賛同して開かれていた。第18回から、老人福祉センター・憩いの家の利用者と講師の協力で実施されるようになったとのこと。Img_4074



 
 今回のテーマとして「子どもと高齢者」が触れ合う舞台の雰囲気づくりを心掛けたとか。それは、われわれの出番でも、実践された。

 舞台は「かぎやで風節」の斉唱と踊りで幕を開けた。演目は合計27にのぼる。踊りからレク体操、歌三線、カラオケ、フラダンス、太鼓など多彩な芸能が披露された。

 民謡三線同好会は、毎年二つの老人福祉センターが共同で出演する。演奏曲目は「恋の花」「デンサー節」の2曲。2つのセンター合同で総勢50人ほどとなった。それにお琴、太鼓など加勢をしてもらった。
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 緞帳が上がり、舞台にライトがついたとき、演奏開始するという約束で、リハーサルもしていた。ところが、場内アナウンスで、紹介が終わり、緞帳が上がり始めた途端、演奏を始めた人たちがいる。完全なフライングである。でも始まった以上はやめられない。最後まで演奏を続けた。

 始まると、よく揃っていて、声も出ていた。上出来だったのではないだろうか。仲間の間でも「よかったよ。ちゃんとついてきてくれたから」との声があった。Img_4081

 今回初めての試みとして、われわれ高齢者の歌三線が終わった後、舞台にそのまま残り、そこに當間清子歌三線・民謡研究会の子どもたち、先生を含めて10人が登場した。三線を奏でながら「新デンサー節」を歌った。そのバックで、高齢者がみんなで手拍子をしながら、声をそろえてお囃子を歌った。とてもよい演奏と雰囲気だった。Img_4088


 子どもたちの歌三線は、登場するだけで、聴衆のおばあ、おばさんたちから大うけだ。「会場の雰囲気が一変した」とはツレの感想である。試みは成功したようだ。

 わが同好会から90歳を先頭に80代、70代、60代合わせて30人余りの参加だった。「楽しく演奏できましたか」と初参加の女性に尋ねると、「とても楽しくできましたよ。次からは歌詞をよく覚えてやります」との答えが返ってきた。まだ覚えていない人は、前に座った人の背中に、歌詞を張り付けてカンニングをしての演奏だった。


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 みんなが1年間、がんばって練習してきた成果を発表できた。次は、来年2月の地域福祉まつりだ。それに向けてまた頑張りたい。

2013年11月21日 (木)

神がつくった聖地・首里森御嶽

                           

 

首里森御嶽(スイムイウタキ)

 

首里城に何回も行っているのに、なぜか首里森御嶽(スイムイウタキ)のことをブログでは書いていなかった。

首里城に登っていき、広福門をくぐると、下之御庭(シチャヌウナー)に出る。下の庭という意味だ。この庭からさらに正殿に入る奉神門の西側に首里森御嶽がある。説明板には次のように記されている。Img_4016


首里森とは首里城の別称で、御嶽とは沖縄の聖地または拝所のことです。琉球の神話では、この御嶽は神が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所の一つです。場内にはここをふくめて「十嶽」(トタケ)と呼ばれる10か所の拝所があったといわれています。

国王が城外の寺社に出かけるときにこの御嶽で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。石積内の植物はガジュマルやクロツグです。1997年に復元されました。

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首里城内に10か所あるという拝所のなかでも、もっとも正殿に近い場所にある。それだけ重要な聖地ということだろう。

なにしろ、首里城ができた後に作られた御嶽ではなく、首里森御嶽が先にあった。首里城が後から建られたいうから、由緒ある拝所である。

そのわりに、下之御庭まで来た観光客はもう正殿に目を奪われて、この御嶽にはほとんど関心を示さない。 

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 でも、立派な石門がある。守礼門のそばにある園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)石門ほど大きくはない。森の周囲は石積みで囲われている。

琉球最古の歌謡集「おもろさうし」にも、首里森御嶽にかんする詩歌が数多く詠まれているそうだ。神話には「神が作られた聖地である」と記されているという。

2013年11月20日 (水)

名護市民の誇りをかけた移設反対の市長意見

 

 名護市の稲嶺進市長は1119日、米軍普天間飛行場の辺野古移設に断固反対する市長意見案をまとめた。政府の埋め立て申請を仲井真県知事が承認しないよう求めている。理不尽な日米合意押しつけは認められないという名護市民と市長の強い決意が込められた歴史的な文書だ。

 意見案は、新たな負担を強いる基地建設は認められないこと、環境保全は不可能であることやオスプレイ配備が市民生活に不安を与える、「辺野古移設が唯一有効な解決策」という主張は整合性がないなど、いくつかの理由をあげている。

 とくに共感するのは、「いくら国防と言えども、一地域に犠牲を押し付け、地域住民の声を無視し、蹂躙することがあってはならなりません」ということだ。

 そして、市民生活の安心・安全、自然環境の保全、未来に生きる子どもたちのために、「名護市民の誇りにかけて『普天間飛行場の辺野古移設』に断固反対する、これが名護市民の強い決意であります」と格調高くのべている。

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 政府内からは「市長意見に法的な拘束力はない」と無視しようとする声があるらしい。とんでもないことだ。自国の公共工事であっても、地元自治体が反対しているものを建設することはまずありえない。ましてや、外国の軍事基地、それも住民の住環境、生命、健康、安全を脅かし、取り返しのつかない自然破壊をもたらす巨大な基地を、市民と市長の断固反対の意見を無視するようなことは、絶対にあってはならないことだ。

 そんなことがまかり通れば、民主主義も地方自治も根底から覆されることになるからだ。

 名護市民も沖縄県民も、辺野古への新たな基地建設を許さないだろう。普天間飛行場は、沖縄にも日本にもいらない。アメリカにお持ち帰りくだされ、というしかない。

2013年11月19日 (火)

「命どぅ宝」石碑を見る

 大阪に住む妹夫婦が沖縄に来たので、南部戦跡を案内した。平和記念公園に行った。駐車場から「平和の礎」に向かって歩き、池にかかった橋を渡ろうとすると、そのたもとに「命どぅ宝」石碑が建てられていた。

Img_4024 2013年6月9日、石碑建立実行委員会が建てたものだ。

、建立されたことはニュースでは知っていたが、平和記念公園には来るのは久しぶりだった。公園内のどこに石碑が建立されたのか、場所を確かめないままだった。

 平和の礎を訪れる人は、この橋を渡って行く人が多いので、とても目立つ良い場所に建立された。

 碑文は「命どぅ宝 命こそ最高の宝である」と刻まれている。

 裏面は「戦争は終わった 平和は人の心でつくるもの 命こそ究極の宝」と記されている。

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 9日の除幕式で、実行委員会副会長の石原エミさんは「人々が支え合い、戦争のない平和な世の中にするため、世界平和の祈りを込めて『命どぅ宝』石碑は建立されました。この地を訪れる人すべてに、平和を願う思いが伝わり広がっていくことを期待します」とあいさつした(糸満市ホームページから)。

 

 

2013年11月18日 (月)

ツレが「渚のアデリーヌ」を弾く

 ピアノを習っているツレが、シニア・ピアノコンサートで、リチャード・クレイダーマンのヒット曲「渚のアデリーヌ」を演奏した。このコンサートには、昨年に続き2回目だ。

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 ピアノを習い始めてまだ1年7カ月。昨年に続いて2回目の出場である。

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 ポップスを演奏する人、ショパンなどクラッシックを演奏する人、独奏から連弾、集団での演奏までそれぞれ、日頃の練習の成果を発表する場である。ほとんど中高年である。

 けっこうミスも多い。でもみんな必死で演奏するのがよい。

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 ツレの演奏した「渚のアデリーヌ」は、まだ1年7カ月にしては難しい曲だ。でも、よくメリハリがきき、流れもよくて、ミスしてもあわてずに、落ち着いて弾いた。身びいきかもしれないが、この日の演奏では、ベスト3に入るのではないか、と思った。

 沖縄市の「あしびなー」の会場には、大阪から妹夫婦がわざわざ聞きに来てくれた。さらに、アルテの音楽仲間やラジオリスナーの友達など応援に駆けつけてくれた。

 みんな口をそろえて「とってもよい演奏だった」「落ち着いて弾けていて、とても1年半とは思えない」との感想が寄せられた。

 毎日、3時間の猛練習のたまものだ。練習は裏切らないとはよく言ったものだ。この1年間でとてもレベルアップしたことがよくわかる。来年からは、クラシックに挑戦することになるだろう。

2013年11月17日 (日)

祖慶漢那(スウキカンナ)節は面白い

祖慶漢那(スウキカンナ)節は面白い

 

 沖縄民謡のなかに、県内各地の特産品が登場する曲がある。その典型がスウキカンナ節である。本島の各地の産物を売り手が売り込む様子が描かれている。

 

1、祖慶漢那 金武からやいびしが 我(ワ)んソーキん小(グヮ)
 
買(コ)うみそうれえ 汝がソーキん小や 曲(マグ)いぬ悪(ワッ)さぬ 
 
我んミージョウキ 買うみそうれえ

 

2、我んねえ勝連(カッチン) 照間(ティルマ)どやいびしが
寝座敷(ニザシティ)筵(ムシロ)を 買うみんそうらに
汝が筵ん小や 縁織(フチウ)ち悪なぬ
 我んニクブク小 買うみそうれえ

 

3、越来間切(グイクマヂリ)ぬ 上地(ウイチ)どやいびしが 荒バーキや
 
 買うみそうらに 
汝が荒バーキや どくから荒さぬ 我んユナバーキ
  買うみんそうれえ

 

4、山内諸見里(ヤマチムルンザト)ぬ 桃売(モモウイ)アン小やいびしが
 
 山桃(ヤマムム)小や 買うみんそうらに 
  汝が山桃小や
  青さぬ喰(カ)まらん 我ん白桃(シルムム)小
 買うみんそうれえ

 

5、我んねえ糸満(イチマン) 魚売(イユウイ)アン小やいびしが
 
 グルクン小や 買うみんそうらに
 汝がグルクン小や 匂いぬ高さぬ
 我ん飛烏賊(トボイチャ)小
 買うみんそうれえ

 

6、我んねえ本部(ムトブ)ぬ 瀬底(シイク)どやいびしが
 
 ムンジュル笠小 買うみんそうれえ
 汝がムンジュル笠小や
 張(ハ)いよぬ悪さぬ 我んクバ笠小 買うみんそうれえ

 

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         バーキを担ぐ人(上江洲均著『沖縄の民具と生活』から)
 

 意訳した歌詞は次の通り。

1、祖慶漢那、金武から参りました。ザルを買いませんか。
   あなたのザルは曲がり具合が悪い。私のミノザルを買いませんか。

2、私は勝連、照間から参りました。寝座敷用のムシロを買いませんか。
   あなたのムシロは縁の織り方がよくない。私のニクブク
 (藁で編んだ敷物)を買って下い。

3、越来間切(今の町村)の上地から参りました。粗目の竹カゴを買いませんか。
 あなたの竹カゴはあまりに粗すぎるので、私の(米を入れられる)カゴを買いませんか。

4、山内、諸見里の桃売り娘ですが、山桃を買ってくれませんか。
 あなたの山桃はまだ青っぽくって食べられない。私の白桃を買ってください。

5、私は糸満から来た魚売り娘ですが、グルクン(県魚になっている)を買いませんか。
   あなたのグルクンは匂いが強い。私の飛びイカを買ってください。

6、私は本部の瀬底島から参りました。ムンジュル笠を買いませんか。
 あなたのムンジュル笠は張り具合が悪い。私のクバ笠を買ってください。

 この曲は、最初は売り手と買い手の会話の情景を歌ったものかと思っていた。でもそうではないという。売り手がお客に対して、自分の土地の物産を進めると、そばで別の売り手がその物産にケチをつけて、自分の持っている物産を売り込むというストーリーの曲である。沖縄でも、売り手、商人の競争が激しかったのだろう。あれこれとケチをつけるところが面白い。 

 この曲は、昔の沖縄の各地域ごとの特産品が歌われているので、それぞれの地区でどういう特産品があったのかが、よくわかる。

地名が二つ重ねるように歌われているのはなぜだろうか。アルテ三線仲間の玉那霸さんによると、沖縄には同じ地名があるので、近くの地名を付けて表現することによって、これはどこの地名だということが分かるという。たとえば、「照間」「嘉数」「与儀」「大里」「南風原」「勢理客(ジッチャク)」などなど同じ地名のところが複数ある。

 これも、前は市町村名と字名というように、大きい地域と小さな地域を重ねて名乗って

いるのかと思っていた。そうではない。なかには、本部の瀬底というように、大きな地名とその中の地名という関係もあるが、一般には二つ重ねていうことで、場所がはっきりするということらしい。
 
 この曲は、本調子の早弾きと三下げのゆっくりしたテンポの両方がある。亡くなった登川誠仁と知名定男が歌ったCDを聴くと、はじめ三下げで弾いた後、女弦(ミージル)を上げて本調子にして、一転軽快に弾いていた。

 なお、歌に登場する民具について、別途詳しく書いておきたい。

 ユーチューブに知名定男のデビュー当時の演奏があるので、アップしておく。

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2013年11月15日 (金)

離島フェアー2013を楽しむ

 離島の特産品が一堂にそろう「離島フェアー2013」が11月15日から3日間の日程で開幕したので、さっそく行ってみた。Img_3950 開幕を前に、与那国島と那覇を結ぶ貨物船「協栄丸」が与那国島沖で座礁し、出品する商品が積まれていて間に合わないというアクシデントが起きた。与那国島はどうするのか、心配していった。

Img_3953 会場の奥武山の沖縄セルラーパーク那覇はすでに賑わっていた。与那国町のブースがあったので「船が座礁して大変でしたね」と声をかけると「そうなんです。でも品物をなんとかそろえてますよ」というではないか。すぐに与那国の物産店に行くとあったあった。泡盛やその他の特産品もいくつもの店に並んでいる。

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 「船が座礁して、どうされたんですか」と尋ねると「ゆうパックで送ったんですよ。送料はまだこれからの相談ですが」とのこと。航空貨物で送り、なんとか開幕に間に合わせたようだ。

Img_3957 久高島からは、名物のイラブーが並んでいる。離島食堂では、イラブー汁も販売されていた。Img_3959


 といっても食べたのは、イラブーではなく、奄美大島の鶏飯丼。奄美の名物であるがまだ食したことがなかった。Img_3960
 ご飯と鶏肉、シイタケ、錦糸卵、ノリ、紅ショウガを載せ、出し汁をかけてある。雑炊のような感じだ。さっぱりと美味しくいただいた。汁を全部飲まなければ、ご飯が全部食べられない。だからすべて完食をした。ツレは大東そばを食べた。Img_3955 ことしは奄美諸島の日本復帰60周年だという。奄美でも島民あげての復帰運動があった。

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 実は、離島フェアーの目玉は、ラジオ沖縄の「ティーサージ・パラダス」公開放送だ。パーソナリティーはひーぷー(真栄平仁)、玉城美香の2人。たまたま高知からの旅行者がメールを送ってきて、ヒープーが読んだ。ツレが「ここにも高知がいるよ」と叫んだら、ヒープーもびっくり。「高知と言えばなんだろう。坂本龍馬、カツオ?」というので、「カツオ節、タタキ」と叫んだ。「そうか、タタキね」と納得していた。

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 ゲストで南大東島出身の内里美香さんが登場した。一度聴いてみたかった。デビュー15年になる。最近聞かないと思ったら、結婚して大東に住み、子どもを出産して2人子育て中だとのこと。Img_3964_2

 「さーさー節」ほか4曲ほど披露した。とても声が美しく、伸びやかだ。しっとりと聞かせる。ことしも楽しめた離島フェアーだった。
 


2013年11月13日 (水)

国場の登野城御嶽を再訪する、その3

門中には先祖の地がある

霊地巡りの御願の対象に、「各氏族祖の生活していたと信ぜられている所を参詣してきた」ことが含まれている。この国場は、古い集落であるが、もともとは県内の南部、中部、北部など各地から先祖が移住してきたことを示す伝承がある。

それを知ることができるのが、男系の血縁組織である「門中(ムンチュウ)」である。国場には12の門中がある。
「12の門中は、いずれも来歴すなわち、どこから来たのかがはっきりしている点が大きな特徴であり、国場村が集落として形成された過程を知る上でも興味深いものがある」

国場はいまなお、「その組織力、門中意識が強いものがあり、一部に変化はあるものの門中社会といえる。これも他の地域にはみられない特徴であろう」(『国場誌』)という。

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          登野城御嶽には4つの井戸の神を合祀している

同書には次の門中が記載されている。

東利江門中は、玉城ミントンから国場に移ってきた。稲福門中は、中城村字和宇慶(ワウケ)あるいは伊集からの分家だという。当主は6代目。比較的新しい門中といえる。中城のムートヤー(元屋)に拝みに行く。読谷村伊良皆(イラミナ、伊波家)にも拝みに行く。上里門中は、西原町の字棚原から仲井真を経て国場入りしたという。当主は16代目に当たる。
 上嘉数門中は、高麗人(今の北朝鮮・韓国)の陶工・張献功(俗称一六)を始祖とする門中。帰化して崎間を名乗る。
 大屋門中は豊見城村(現在市)長嶺城主長嶺按司の三男が真玉橋大屋の初代で、真玉橋大屋の三男が字国場大屋の初代となる。現在の当主嘉数キタさんは18代目にあたる。豊見城村嘉数にある、ムートゥヤーには、毎年ウマチー(祭り)に拝みに行く。

城間門中は、国場内の最大、最古の門中である。今から約750年前、13世紀にアマミキヨの子孫が玉城ミントン(明東城)から移り住んだと伝えられる。国場集落のニーヤー(根屋)である。
 名嘉門中は、那覇の湧田村から分家して国場に移って来たという。大宗は今帰仁から首里の平良に来た新垣家で、その三男が湧田村に移り、さらにその四男が国場の名嘉門中の元祖という。旧5月15日のウマチーに湧田のウートヤー(元屋)を拝む。

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            登野城御嶽   

新屋敷門中は、大里村(現南城市)字島袋在の高嶺家がムートヤーという。当主嘉数春幸(新屋敷)は、7代目に当たる。毎年のウマチーには、ムートヤーに拝みに行く。
 新屋門中は、豊見城村字金良からの分家という。当代まで数えて12代という。松尾門中は、大里村字目取真から移ってきたという。当主嘉数真治(松尾)は、18代というから、比較的古い門中といえる。目取真(メドルマ)のムートゥヤー(屋号マニトク)を拝む。

前ヌ識名門中の始祖は、第二尚氏尚円王の縁の人といい、今帰仁間切上間村(今の本部町具志堅)の上間子(ウィーマヌシー)という。上間村の上間大親の三男が上間子と記されている(『球陽』)。また、中城間切の喜舎場子(キシャバヌシー)の縁もあるという。喜舎場子は津堅島に渡って村をおこしたが、その妻は故あって子を身ごもったまま本島に帰り、識名の花城家で男の子を出産した。花城家から分家、国場へ移住した人が、前ヌ識名門中の開祖といわれる。

大嶺門中に伝わる系図に次ぎの記述がある。この人は読谷山(現在読谷村)波平村の人なりしが、国場村に逃走して、国場仁屋女真亀と夫婦となり、国場仁屋の婿養子となる。この門中記によると、大嶺(大峯)門中の男血筋は読谷山波平村の人で、女は国場根屋(ニヤ)の娘であり、国場と金良の大嶺姓はその子孫という。 

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         登野城御嶽には「唐御殿」も祀られている

これとは別に、国場には中国から来て琉球に瓦焼きを伝えた人物が住みついた伝承がある。『琉球国旧記』(1731年編)には次のように記述されている。『国場誌』から訳文で紹介する。
 古老が伝えるには、中国の人が沖縄に来て、国俗(気候・風土・人情・習俗)を慕い、国場村に住みついた。やがて、妻をめとり、子をうんだ。後に、真玉橋の東で陶舎(焼物小屋)をつくり、瓦を焼き、資用(資材)にした。そのゆえに御検地帳(慶長検地・1610年)によって、琉球王府は、その土地を渡嘉敷三良(トカシキサンラー)にたまわった。これが我国(琉球)での焼瓦の初めである。その子孫は、今でも国場に住み、12月24日(旧暦)には祭品をおそなえし、紙を焼いて先祖をまつっている。

この渡嘉敷三良が琉球に来たのは、少なくとも1500年代前半と見られ、当時、この中国人を土地の人々は「唐大主(トオウフスー)」と呼んでいた。

渡嘉敷家はいまも国場の登野城御嶽のすぐ下の道路わきに赤瓦のお家がある。現在で、18代目にあたるそうだ。由緒ある渡嘉敷家は、ムートゥヤー(本家)と呼ばれている。

国場になぜこれほど移住があったのか。よくわからない。古くは琉球が統一される前、まだ各地に権力者・按司が割拠し、争った。琉球が3つの小国として対抗した三山時代が100年余り続いた。そんな戦乱の時代に敗れた勢力は、故郷を逃れて各地に落ち延びた歴史がある。また、子孫が増えて、分家して新たな地を求めて移住したこともあるだろう。

国場の門中の来歴を読みながら、想像をめぐらせてみた。

2013年11月12日 (火)

国場の登野城御嶽を再訪する、その2

霊地巡り

霊地巡りは、古くから各地にあり、拝む場所、方法等さまざまである。「御廻り(ウマーイ)」と呼ばれる。

「古来本県は、アマミキヨに関係ある土地の嶽々森々・城跡・古井泉を始め、王族按司(アジ)の経世に関係ある所を主として、各氏族祖の生活していたと信ぜられている所を参詣してきた。民族祖に関する霊地は、主に本部・知念・玉城に多く、ここへの参詣を俗に『東り巡り』又は『島尻拝み』といひ、国頭郡の今帰仁は、尚家の遠祖尚円御発祥の地、伊平屋への遙拝をする所であるので、ここへも参詣し、これを俗に『今帰仁拝み』といっている。これ等拝所の所在地又は其の附近の人々は、年中行事のやうに毎年定った参拝をしているが、遠い所では2年・3年・又は5年・7年・9年・10年あるいは12年に1回といふように、廻年的に霊地参拝に行く」(『国場誌』、『島尻郡誌』からの引用)。Img_3882
           登野城御嶽(トノシロウタキ)     


 国場では「東御廻り(アガリウマーイ)1~3」「今帰仁御廻り1~3」「島尻御廻り1~2」「イージュ御廻り(首里・浦添)1~2」「崎樋川御廻り」「大里御廻り」「瀬長御廻り」がある。
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 昔は霊地巡りはとても盛んだった。4,5日あるいは10数日を要し、部落の神人や氏子の代表、青年男女数十人らがにぎやかに参拝したそうだ。ただ、ところによっては、遙拝所を設けてこの霊地参詣を全廃しているところもある(『国場誌』、『島尻郡誌』からの引用)。

遠くまで行けなくても、霊地の方向に向かって御願する。
 登野城御嶽は、住民にとって重要な拝所である。

2013年11月11日 (月)

国場の登野城御嶽を再訪する、その1

国場の登野城御嶽を再訪する

 

 わが家か近い国場の拝所、登野城御嶽(トノシロウタキ)を訪ねた。前に一度来たことがある。国場十字路を山手に上がっていくと、拝所専用の駐車場がある。そこから少し小道を登ったところにある。1992年に整備されたようで、とても立派な御嶽(ウタキ)である。
 
 国場には、二つの御嶽がある。『琉球国由来記』によると、「下国場ノ嶽 神名カネノ森御イベ」(通常「前ヌ御獄」)と「登野城ノ嶽 神名オシアゲ森の御イベ」という二つの御嶽と一つの火神(ヒヌカン)「下国場里主所火神」があると記載されている。「前ヌ御獄」は前にブログで紹介した。国場発祥と地とされているところだ。

 「登野城」という名前は、石垣島の中心部、旧四カ村の一つの地名と同じだ。他にはない珍しい地名なのに、なぜ、国場の御嶽に同じ登野城の名がついているのか、地元でもよくわからないらしい。 Img_3878

9つの神々を合祀

御嶽の祠には、次の名を刻んだ石碑が9つ合祀されている。
「東世」「今帰仁世」「百名世」「大里世」「登野城之世」「中之御嶽」「火神」「唐御殿(トーウドン)」「芋之神」。

拝殿の前には、4つの井戸の神が合祀されている。

「中之御嶽火神御井」「中之御嶽下之御井」「登野城西乃御井」「子之方御井」

 水は、住民にとって生きるうえで欠かせない命のもとだから、井戸はどこも御願の対象にされる。

この拝殿に並ぶ石碑は、いくつもの地名が記されている。

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沖縄では、霊地を巡り参拝する慣習がある。でも、この登野城御嶽にくれば、遠くまで霊地巡りに行かなくても、この御嶽でその地に向かって御願(ウガン、礼拝)できるそうだ。そういえば、「前ヌ御嶽」を見たとき、そばにいたおじいが話していた。
 「国場の高いところには、今帰仁に向かって拝むところもある。中国に向かって拝むところもあるよ。中国まで行けなかったからね」。
 それがこの登野城御嶽である。たしかに、各地の名を刻む石碑があるし、中国を表す「唐御殿」もある。珍しいのは「芋之神」。芋を神と崇めるものだろう。芋(サツマイモ)は、17世紀初めに中国から持ち帰った。やせ地でも育ち干ばつにも強い。庶民にとって主食となった。飢餓のさいどれだけの人々が救われたことか。その意味では、芋も命の源だから、祀られたのだろう。

2013年11月10日 (日)

アルテで「瓦屋情話」を歌う

 アルテ恒例のミュージックファクトリーの今月のテーマは「美」。「人に勝って美しく生まれた」女性の哀しみを歌った「瓦屋(カラヤ)情話」を歌った。

 「瓦屋情話」は、16世紀に中国から琉球に来て瓦焼きを伝えた瓦職人の逸話にかかわる曲である。王府は琉球にとどまることを要望した。瓦職人は、見染めた女性を妻を迎え、永住したいと申し出た。白羽の矢が立ったのは、豊見城の夫がいる女性だった。王府の命令で彼とは生き別れになった女性が、故郷の彼をしのぶ内容である。瓦焼の始まりについては、ブログでアップしてあるので、そちらを見てほしい。Img_3920

 歌詞は次のような内容である。

♪人勝い清らしゃ 生まりたる故に 色ちかんカナに 見染みらりてぃ 繰り返し
♪めでい事寄してぃ あかん生ち別り 浮世恨みとてぃ 行ちゅる苦りしゃ 繰り返し
♪あだし世ぬ中ぬ 無情ぬあだ花や 朝夕ちみらりてぃ 胸や焦がり 繰り返し
♪我胴や瓦屋村 肝や里御側 忘てぃ忘ららん 里が情き 繰り返し
♪瓦屋頂登てぃ 真南向かてぃ見りば 島浦どぅ見ゆる 里や見らん 繰り返し

 歌意は次の通り。
♪人より美しく生まれた故に 好きでもない男に見染められて
♪奉公を命じられて 心残りのまま生き別れとなり 浮世を恨んで生きてゆく苦しさよ
♪恨む世の中で 情けないあだ花は 朝夕囲い込まれて 胸は焦がれるばかり
♪わが身体は瓦屋村にあるけれど 心は貴方のお側にある 
 忘れるに忘れられない 貴方の情け
♪瓦屋の頂きに登って 南に向かって見ると 故郷の村は見えるけれど 
 貴方の姿は見えない

 5番は、有名な琉歌で古典の名曲だが、あとは1970年代に作られた歌詞と民謡である。今回は、三線はあまり手が強張らずに弾けた。ただ、歌に入ると一番の歌詞の後半で、歌詞が飛んでしまい、省略して歌ってしまった。でも、聴くほうは気がつかないみたいだ。
 「初めて聞いたけれどいい曲ですね」と感想を寄せてくれる人がいた。

 ファクトリーは今回、飛び入りもあり20組ほど演奏した。恒例となった南亭こったいの落語は、「天狗裁き」の演題。話が面白く、大受けだった。

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 このところ何カ月もごぶさただった上原敏明さんが久しぶりに出演。「風」の「海岸通り」をしっとりと歌い聴かせた。Img_3926 ギター名手によるカルテット「ふぇーぬかじ(南風)」は、ロシア民謡メドレーとラテンの名曲「ベサメムーチョ」をスイング調で演奏して、楽しめた。

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 先月、美味しいゴーヤーチャンプルーと楽しいカラオケに誘ってくれた浦添の伊波さんは、いつものようにオリジナル曲を披露した。

 Img_3933
 ツレは、17日のシニア・ピアノ・コンサートで演奏するピアノの名曲「渚のアデリーヌ」を弾いた。ポップスの曲とはいえ、まだ初めて1年7カ月で弾くのには、かなれ難しい。でも、しっかり、メリハリもきかせて、美しい曲の魅力を伝えた。
       Img_3939_2  不思議なことに、前日のリハーサルでは完璧に弾けたのに、本番では2,3度つまづいた。でも、全体がよく演奏できていたので、たいして気にならない。ただ本人は、すごく落ち込んでいた。でもそれが本番というもの。

 回りからは「とってもいい演奏だった」「とても1年7カ月とは思えない」「前に聴いたより、すごく上手くなっている」と好評だった。   

Img_3939

 ファクトリーは今回から、演奏会の途中に、食事を出すことになった。そのためもあるのか、演奏中におしゃべりが多く、出番がまだ来ないため、ギターの練習をする人もいて、雑音がひどい。自分が演奏する時、雑音を出されると誰もがいやなはず。お互いに、他人の演奏を良く聞き、自分の演奏も聴いてもらうという、当たり前のルールを守ってほしい。

 

2013年11月 8日 (金)

カツオ節の源流はモルディブ?、その2

 

琉球でカツオ節を作っていたのか

 

このモルディブ源流説には、異論、反論もあるようだ。ネット「ウィキペディア」によれば、魚を乾燥させて固くした食品は世界各地にある。日本では、5世紀には干しカツオが作られていたとみられる。ただ、現在のカツオ節とはかなれ異なる。飛鳥時代には干しカツオが献納品として指定されていた。現在のカツオ節に比較的近いものが出現するのは室町時代だとのことだ。

 

モルディブから琉球にカツオ節の製法が伝わったとしても、なぜか琉球には王府時代、カツオ漁業もカツオ節の製造もなかった。それは、琉球王府の時代、農業重視の政策がとられて、漁業は抑えられ、漁師がいたのは、糸満など一部地域に限られていたことがある。それについては、「大漁唄のない沖縄の不思議」をブログでもアップしてある。
 

カツオ節だけでなく、魚を乾燥させて干物とする習慣が沖縄にはない。いまでも、沖縄産の魚の干物はない。スーパーで売られている干物は、鹿児島はじめ県外産である。たぶん、島国で海に囲まれていて、海から遠い山国のような地方はない。山の多い山原(ヤンバル)も、周囲は海である。だから、魚の干物、塩漬け、醤油漬けなど保存食はほとんどない。あるとすれば、「スク」という小魚の塩漬けくらいだ。 

Photo                  『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ節


 

カツオ漁業とカツオ節の沖縄での始まりは、明治後期のことである。 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。座間味村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことである。だから、琉球王府の時代は、漁業としてのカツオ漁やカツオ節製造はやっていなかったというになる。

 現在、沖縄はカツオ節をたくさん消費する県となっている。他県と比べても消費量は結構多いほうだと思う。

 

ひとつ興味深いのは、王府時代に琉球貢船によって中国へ持ち運ばれた物品のリスト(乾隆34年、1769年)のなかに、「佳蘇魚175觔(キン)」とあることだ。カツオのことである。これは、鮮魚ではなく、カツオ節ではないだろうか。
 
 琉球から中国に持ち運ぶ物品のなかでは、海産物が重要な比重を占めていた。なかでも、「海帯菜」(昆布)、「鮑魚」(干しアワビ)、「魚翅」(フカヒレ)が突出して多い。佳蘇魚は極め少ない。昆布も沖縄にはなくて、北海道産など大和から持ち込まれた。この佳蘇魚も、薩摩・トカラ方面から持ち込まれたのだろう。

 

まあ私的には、べつにカツオ節の源流について究明する気はない。カツオが獲れた国、地方で、それぞれカツオ節の製法を考えて、カツオ節を製造するようになったことも大いにありうることだ。
 
 まあカツオと黒潮は切っても切れない縁があることだけは確かだ。

 

 

 

2013年11月 7日 (木)

カツオ節の源流はモルディブ?、その1

カツオ節の源流はモルディブ?

 

 カツオ漁とカツオ節にかかわる話を何回か書いた。そのつながりで、カツオ節の源流についての興味深い話に出会ったので紹介する。

 琉球新報と南日本新聞、高知新聞の黒潮流域三社の合同企画による『われら黒潮民族』がもう20年余前に連載されて出版されていた。それを読んでいると、インド洋のモルディブでは、カツオを使ったヒキマス(荒節)、ワローマス(生節)が作られて食べられており、調味料としても使われているという。

 

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                  『われら黒潮民族』から、黒潮の流れ  

 カツオ節があるのは日本とモルディブだけ
「過去、現在を通してかつお節を作り、その食習が広範に普及している国は、日本とモルディブ以外にない」という。これは、東京の食文化研究家の宮下章さんの著書『鰹節・上巻』からの引用である。モルディブと日本のカツオ節の製法の交流があったという記録、伝承はいっさいないにもかかわらず、「明治年間には、すでに両国の荒節製造までの基本工程が同じだったことが明らかにされている」と宮下さんは説いているそうだ。

 宮下さんは、「日本のかつお節は独自に創案されたのではなく、南方諸国との交流のなかで出現した」と指摘している。

 紀州や土佐でカツオ節が作られるようになったのは16世紀後半。それよりも前に、ブログですでに紹介したけれど、トカラ列島の臥蛇(ガジャ)島で作られていた。種子島の領主だった種子島家の「種子島家譜」に、1513年に臥蛇島から「かつおぶし5れん」などの貢ぎ物があったと記されている。

 一方、モルディブではそれよりはるか前、1343年には、すでにカツオ節が出現。マラッカなどに輸出している。マラッカのほか、インドネシア、ジャワ、中国などにも送っていたという。

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              『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ漁

 マラッカまで輸出されていたとなれば、思い当たるのは琉球の役割である。

15世紀の琉球は大交易時代である。中国、東南アジア、朝鮮、日本など各国と交易し、中継貿易で繁栄していた。

当時のマラッカは、東西交易の拠点。琉球王国も1460年ごろから1511年まで交易使船を派遣して、南方の珍品を輸入していた(「歴代宝案」)。

そこで、カツオ節を輸入したり、その製法が伝わったかもしれない。そして、15世紀には、トカラ列島から琉球に買い付けのために船が来ていたといわれる。モルディブのカツオ節とその製法が、マラッカから琉球を通してトカラ列島、臥蛇島に伝わったかどうかは、推測の域を出ない。でも、「ありえない」とも言えない。十分に考えられることではないだろうか。
 
 

宮下さんは「日本のかつお節のルーツはモルディブかも」と推測しているそうだ。

以上は『黒潮民族』からの引用に少し、勝手にコメントを入れたものである。同書は、最後に次のようにのべている。

「南方の物産を求めてアジアの海に船を繰り出して、食文化交流の橋渡し役をつとめた琉球人の活躍が見逃せない」
 
 「モルディブよりかつお節の出現が遅かった日本。しかし、カビ付けなどの技法を開発して、モルディブの完成品・荒節(ヒキマス)をしのぐ製品をつくりだした」

2013年11月 6日 (水)

奇怪な名護市長選挙

来年1月19日、投開票される名護市長選挙をめぐる、保守陣営の動きは奇怪である。普天間飛行場の辺野古移設に反対する現職の稲嶺進市長に対抗して、現職県議の末松文信氏が名乗りを上げたかと思うと、前市長の島袋吉和氏も立候補を表明した。保守陣営が分裂する様相だ。

 奇怪だと思うのは、保守分裂の原因が辺野古移設に対する政策の違いにあることだ。

 今回の市長選挙は、防衛省が辺野古移設に向けた埋め立て申請をしている下でたたかわれる。その結果は辺野古移設問題に大きな影響を与える。
 
 稲嶺氏の再選を阻止したい保守側が、難航した候補者選びの末、地元市議団、経済界も一致して擁立したのが末松氏だった。ただ、末松氏は、出馬会見で、辺野古移設を「選択肢」と発言したが、移設推進を明確に掲げていない。

 市長時代に移設を推進した島袋氏は「辺野古移設を明確にできないと(末松氏は)支持できない」「(現職との)対立軸がなければ市民が迷う」とのべ、立候補の理由が移設推進にあることを強調している。

 ところが、この島袋氏に対して、保守陣営は出馬を取りやめ、末松氏に一本化するように盛んに圧力をかけている。「出馬会見以降、島袋氏には中谷元、小池百合子、額賀福志郎といった自民党の防衛閣僚経験者から電話が相次ぎ、一本化への理解を促している」(「琉球新報」11月5日付)という有様だ。

 ちょっと待ってほしい。自民党本部が、辺野古移設の推進に固執して、さきの参院選で県外移設を掲げた自民党県連に対し、強い圧力をかけたことは記憶に新しい。だから、安倍政権と自民党本部にもっとも忠実なのは、実は島袋氏である。本来なら、移設賛成を明確にしない末松氏に対して、「島袋氏を支持して立候補を取りやめてほしい」と説得するのが筋というものだろう。

 ただ、「普天間は県外移設」が県民の総意となり、「辺野古の陸にも海にも新たな基地はつくらせない」と明言する稲嶺市長は、名護市民の強い支持を受けている。選挙戦術の上で、「辺野古移設」を明確にせず、争点をぼやかして、とにかく勝利することを優先する自民党にとって、島袋氏の出馬は迷惑千万ということだろう。

 島袋氏にすれば、政府・自民党の移設推進の方針を、ぼやかしたりせず、愚直に引き受けて高く掲げて出馬すると言っているのに、なぜ「降りろ、降りろ」と説得されなければならないのか、という苦い思いをしているのかもしれない。

 自民党本部は、ただ稲嶺市制を打倒したいために、とにかく移設推進の本音は隠して争点をぼやかし、保守を一本化しなにがなんでも勝利すれば「あとはなんとでもなる」という思惑である。このような、政治的な思惑による市民不在の画策は、市民・県民を愚弄するものである。

2013年11月 2日 (土)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その4

琉球に来た中国の測量官

「琉球国之図」企画展に関心を持ったのは、いくつか理由がある。まずは伊能忠敬の日本図を東京に在住した際に見たことがあったこと。沖縄に移住して「琉球国之図」も原寸大複製を見た記憶があるからだ。個人的なことだが、若かりし公務員時代に、もっとも簡単なコンパス測量で、山河を歩き測量して、図面を作成したこともある。コンパス測量は、羅針盤と距離を測るロープをもって測量するのだから、琉球王府時代の「針竿測量」とあまり変わらないだろう。

 関心をもったのは、それだけでなく、琉球の測量術が中国から伝えられたと推測されることがある。7年ほど前、沖縄大学で琉球と中国の交流史の講義を聴講したさい、金城正篤先生が「1719年に琉球に来た冊封使一行のなかには、測量官が乗船していた」と話されたことが、とても印象強く記憶に残っていた。

 その時は、この測量士が琉球に来たことの意義がよくわからなかった。改めて、当時の大学ノートをめくってみると、次のような記述があった。

 「この使節団には、量視日影八品官の平安という人物と、Fengsengge豊盛額という監生が…皇帝の特命によって随行していた」という。「かれらが観測した琉球の緯度、経度およびそれによって計算される福州からの距離も、ここに記載されている」(夫馬進編『使琉球録改題及び研究』、岩井茂樹「徐葆光撰『中山伝信録』改題」)。

 当時の清国の康熙帝は、「西洋伝来の新知識にはふかい関心を寄せていた」(同書)そうだ。康熙帝は、康熙47年(1708)より、フランス人宣教師らの協力による全国的な測量をおこなわせた。「イエズス会宣教師の伝えた測地法による全国の測量、および地図作製が、内廷の事業として推進された」。そして「その成果が、康熙57年(1718)の『皇輿全覧図』を生んだわけである」(同書)。

Img_3690                    文章とは関係ない。秋の洛陽

             

 やはりフランス流の測量術が中国に伝えられ、さらに1719年の冊封使来琉の際、随行してきた平安らによって琉球にも伝わったことは確かなようだ。

 琉球のような小さな島国で、日本の伊能忠敬よりも半世紀以上も前に、フランス式の最先端の測量術を学び、沖縄島から離島まで詳細な測量をして、精密な地図を作製していたことは驚くべきことだ。
 琉球は、歴史の発展段階が、日本より数百年遅れているとよく言われる。でも、この測量にしても、前にブログでも紹介した高嶺徳明による全身麻酔の手術や「安里鳥人」による世界初の飛行機で飛行したなど、日本よりはるかに早い。サツマイモや紬の織物なども琉球から日本に伝わった。
 南海の小さな島国である琉球は、700年以上前から中国はじめ東アジアの各国との平和的な交流、交易を通じて、各国のかけ橋となる「万国津梁(バンコクシンリョウ)」の役割を果たしてきた。そのもとで、中国、ヨーロッパなど海外の新しい知識、技術、情報がいち早く伝わってきた側面がある。

「琉球国之図」も、そんな歴史の一断面を物語っているのではないだろうか。

2013年11月 1日 (金)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その3

誤差小さく高精度の地図

 「琉球国之図」は今から217年前、1796年に作られたもので、琉球王家が所蔵していた。現在の地図と比べても。誤差が小さく高精度の地図で、当時の世界最先端のフランス測量術を応用して製作されていたことが明らかになってきた。

 この地図の実物は、巻物仕立てで、縦47㌢、横85・3㌢の小さな図面に、13万分の1縮尺で沖縄島と周辺離島が正確に描かれている。久米島や伊是名島など沖縄島から遠く離れた島については、一枚の図に収めるために距離を縮めて配置されている。

 地図に書き込まれた地域情報も詳細で、200年前の沖縄各地の地理情報を知る上でも第一級の史料だ。Photo_2


 現在の市町村の前身である間切(マギリ)・島や杣山(ソマヤマ、共同利用の山林)別に色分けされている。河川・滝・道路・海岸の岩礁・塩田・港なども図示され、番所・村・城跡・聖地・御嶽(ウタキ)・寺社・火立所(のろし台)などは記号で示されている。

 現在の地図にはない海岸の岩礁まで、詳細に描いてその名称まで注記している。図の余白には、朱書きで、各間切・島の外周の長さ、馬場の長さ、首里城から各地の番所までの距離、那覇湊から各島までの距離などが記されている。

 以上は、ほとんどは「琉球新報」の記事を勝手に抜書きしたあらましである。

 

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