伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その4
琉球に来た中国の測量官
「琉球国之図」企画展に関心を持ったのは、いくつか理由がある。まずは伊能忠敬の日本図を東京に在住した際に見たことがあったこと。沖縄に移住して「琉球国之図」も原寸大複製を見た記憶があるからだ。個人的なことだが、若かりし公務員時代に、もっとも簡単なコンパス測量で、山河を歩き測量して、図面を作成したこともある。コンパス測量は、羅針盤と距離を測るロープをもって測量するのだから、琉球王府時代の「針竿測量」とあまり変わらないだろう。
関心をもったのは、それだけでなく、琉球の測量術が中国から伝えられたと推測されることがある。7年ほど前、沖縄大学で琉球と中国の交流史の講義を聴講したさい、金城正篤先生が「1719年に琉球に来た冊封使一行のなかには、測量官が乗船していた」と話されたことが、とても印象強く記憶に残っていた。
その時は、この測量士が琉球に来たことの意義がよくわからなかった。改めて、当時の大学ノートをめくってみると、次のような記述があった。
「この使節団には、量視日影八品官の平安という人物と、Fengsengge豊盛額という監生が…皇帝の特命によって随行していた」という。「かれらが観測した琉球の緯度、経度およびそれによって計算される福州からの距離も、ここに記載されている」(夫馬進編『使琉球録改題及び研究』、岩井茂樹「徐葆光撰『中山伝信録』改題」)。
当時の清国の康熙帝は、「西洋伝来の新知識にはふかい関心を寄せていた」(同書)そうだ。康熙帝は、康熙47年(1708)より、フランス人宣教師らの協力による全国的な測量をおこなわせた。「イエズス会宣教師の伝えた測地法による全国の測量、および地図作製が、内廷の事業として推進された」。そして「その成果が、康熙57年(1718)の『皇輿全覧図』を生んだわけである」(同書)。
やはりフランス流の測量術が中国に伝えられ、さらに1719年の冊封使来琉の際、随行してきた平安らによって琉球にも伝わったことは確かなようだ。
琉球のような小さな島国で、日本の伊能忠敬よりも半世紀以上も前に、フランス式の最先端の測量術を学び、沖縄島から離島まで詳細な測量をして、精密な地図を作製していたことは驚くべきことだ。
琉球は、歴史の発展段階が、日本より数百年遅れているとよく言われる。でも、この測量にしても、前にブログでも紹介した高嶺徳明による全身麻酔の手術や「安里鳥人」による世界初の飛行機で飛行したなど、日本よりはるかに早い。サツマイモや紬の織物なども琉球から日本に伝わった。
南海の小さな島国である琉球は、700年以上前から中国はじめ東アジアの各国との平和的な交流、交易を通じて、各国のかけ橋となる「万国津梁(バンコクシンリョウ)」の役割を果たしてきた。そのもとで、中国、ヨーロッパなど海外の新しい知識、技術、情報がいち早く伝わってきた側面がある。
「琉球国之図」も、そんな歴史の一断面を物語っているのではないだろうか。
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