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2013年11月 8日 (金)

カツオ節の源流はモルディブ?、その2

 

琉球でカツオ節を作っていたのか

 

このモルディブ源流説には、異論、反論もあるようだ。ネット「ウィキペディア」によれば、魚を乾燥させて固くした食品は世界各地にある。日本では、5世紀には干しカツオが作られていたとみられる。ただ、現在のカツオ節とはかなれ異なる。飛鳥時代には干しカツオが献納品として指定されていた。現在のカツオ節に比較的近いものが出現するのは室町時代だとのことだ。

 

モルディブから琉球にカツオ節の製法が伝わったとしても、なぜか琉球には王府時代、カツオ漁業もカツオ節の製造もなかった。それは、琉球王府の時代、農業重視の政策がとられて、漁業は抑えられ、漁師がいたのは、糸満など一部地域に限られていたことがある。それについては、「大漁唄のない沖縄の不思議」をブログでもアップしてある。
 

カツオ節だけでなく、魚を乾燥させて干物とする習慣が沖縄にはない。いまでも、沖縄産の魚の干物はない。スーパーで売られている干物は、鹿児島はじめ県外産である。たぶん、島国で海に囲まれていて、海から遠い山国のような地方はない。山の多い山原(ヤンバル)も、周囲は海である。だから、魚の干物、塩漬け、醤油漬けなど保存食はほとんどない。あるとすれば、「スク」という小魚の塩漬けくらいだ。 

Photo                  『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ節


 

カツオ漁業とカツオ節の沖縄での始まりは、明治後期のことである。 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。座間味村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことである。だから、琉球王府の時代は、漁業としてのカツオ漁やカツオ節製造はやっていなかったというになる。

 現在、沖縄はカツオ節をたくさん消費する県となっている。他県と比べても消費量は結構多いほうだと思う。

 

ひとつ興味深いのは、王府時代に琉球貢船によって中国へ持ち運ばれた物品のリスト(乾隆34年、1769年)のなかに、「佳蘇魚175觔(キン)」とあることだ。カツオのことである。これは、鮮魚ではなく、カツオ節ではないだろうか。
 
 琉球から中国に持ち運ぶ物品のなかでは、海産物が重要な比重を占めていた。なかでも、「海帯菜」(昆布)、「鮑魚」(干しアワビ)、「魚翅」(フカヒレ)が突出して多い。佳蘇魚は極め少ない。昆布も沖縄にはなくて、北海道産など大和から持ち込まれた。この佳蘇魚も、薩摩・トカラ方面から持ち込まれたのだろう。

 

まあ私的には、べつにカツオ節の源流について究明する気はない。カツオが獲れた国、地方で、それぞれカツオ節の製法を考えて、カツオ節を製造するようになったことも大いにありうることだ。
 
 まあカツオと黒潮は切っても切れない縁があることだけは確かだ。

 

 

 

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