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2013年12月

2013年12月30日 (月)

「瓦屋節」の歌碑、渡嘉敷三良の墓

渡嘉敷三良の墓

渡嘉敷三良(トカシキサンラー)の墓は、那覇市牧志の緑ヶ丘公園の一角にある。といっても、場所がわからないままだった。公園の未整備地区は、古い墓地になっている。ナイクブ古墓群発掘調査が行われている。作業をしている人に「渡嘉敷三良の墓はどちらですか」と尋ねたが「わからない。事務所があるからそちらで聞いてくれ」という。



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 パラダイス通りにある事務所を訪ねた。「このあたりの墓はずいぶん古いですね」と聞くと、「こちらは、300年くらい前から戦後もまだ使っていました」という。
 三良の墓の場所をすぐに教えてくれた。

 墓は緑ヶ丘公園の整備が済んだ地域の端にある。小山のような琉球石灰岩を掘り抜いて造られており、石積みの墓より古い形のものらしい。入り口に次のような説明文が設置されている。    Img_4293_2



              

「渡嘉敷三良は、16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人でした。永住して妻を迎え国場村に住み、その近くに窯を設けて瓦を焼きました。字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています。その技術は、子孫へと受け継がれ、四世の安次嶺親雲上(アシミネペーチン)は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜りました。

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 この墓は、1604年またはそれ以前につくられたと思われます。琉球石灰岩を掘り抜き、奥に遺骨を入れた甕などを安置する一段のタナ(棚)をけずり出してつくられています。このような構造は、アーチを主とした石積みによる墓室が登場する以前からの技法と考えられます。そのため、昔の技法をよく残すこの墓は、その変遷をたどる貴重な存在といえます」

 三良は妻を迎えて国場に住み、窯を造って瓦を焼いた、とのべている。

 『訳注 琉球国旧記』(1816年)は「瓦工」の項で次にように記している。

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「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。その子孫は、今もなお国場村におり、12月24日になると、謹んで祭品を供え、紙(銭)を焼いて、先祖を祭っている。これは、先祖からのしきたりである」

 それにしても、国場からは遠いこの牧志に墓があるのだろう? もしかして、当初この付近に住んでいて、国場に移って行ったのだろうか。まだ不明のままである。

2013年12月29日 (日)

寒空に光のガーデン

 沖縄こ今年の冬は例年以上に寒い。でも、用事があった豊見城市豊崎に出かけたので、ついでに海浜公園の「光のガーデンイルミネーション」を見てきた。Img_4354
 光のアーチが一番の見もの。まるでトンネルみたいだ。

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 トンネルを抜けると、光のオブジェが並ぶ。Img_4359 沖縄らしく光の魚やイルカが泳ぐ。

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 Xmasは終わったが、サンタクロースがトナカイに引かれて走る。Img_4373
 光のハートには、メッセージをたくさん付けている。ツレは、「ピアノ ショパンが上手になりますように」との願いを書いた。
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ハートマークの灯篭には、一つ一つ子供たちの願いが記されていた。
 

 
 来年もみんなが平和で幸せに暮らせることを願った。





2013年12月28日 (土)

埋め立て承認は歴史的な大罪

 普天間飛行場の辺野古移設問題で、仲井真県知事は27日、埋め立てを承認した。テレビ中継された記者会見を見ると、政府の圧力に屈したというより、政府に迎合する不埒な政治家の姿がそこにある。こんな最悪の知事をもつ県民は不幸である。即刻、辞任するのが筋だ。

 知事失格と断言するのは、いくつか理がある。Img_4378

 その1。なにより、県民に普天間の県外移設を公約し、議会でも再三、言明してきたにもかかわらず、なんの謝罪もなく承認に踏み切ったこと。世論調査で7割が辺野古移設反対という県民の声、地元の名護市長の反対の意見も踏みにじる歴史的な裏切りを犯した。

 その2。安倍首相に最大級の賛辞を呈して承認したこと。県が勝手に提出した4項目の要求に首相は、普天間の5年以内の運用停止にしても、具体策はなにも答えてない。地位協定改定も本体には手を触れず補足協定を検討するだけ。オスプレイも、配備ではなく訓練を少し移すだけ。「基地負担軽減」という意味ではゼロ回答同然だ。それを、「安倍内閣の沖縄にたいする思いがかつてのどの内閣にも増して強い」と天まで持ち上げた。
 そればかりか、「5年以内の運用停止」など、実効性はなにもないのに、「道筋が見えた」などというのは詐術に等しい。知事の任期はあと1年もない。「あとは野となれ山となれ」では無責任極まる。

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 その3。沖縄振興予算の増額やリップサービスのような回答に飛びつき、政府の言いなりに承認するのでは、「沖縄はアメを与えれば認める」という誤ったメッセージを振りまくことになる。アメを喜ぶのは、日米政府にすがりつくごく一握りの政治屋だけだ。県民の胆心(チムグクル)とはまったく異なる。

 その4。「県外移設」の公約違反を問われても「変えていない」と開き直っていること。埋め立てを承認しておいて「県外移設が早い」「暫定的でも県外移設の検討を」と主張しても何の意味もない。辺野古移設を認めれば、政府がそれ以外の方策を考えるはずがない。「県外移設」を変えてないというなら、埋め立てを承認すべきではない。

 公約との矛盾を質問されると、「私に対する批判か」と居丈高な態度をとる。そこには、不誠実きわまりない政治家の姿が見える。Img_4396
              「琉球新報」28日付け

 自民党国会議員、県連が、自民党本部の脅しに屈した際は、その姿はみじめで哀れな感じさえした。だが知事は「苦渋の選択」でもない。承認して何が悪いのか、といわんばかりだ。この会見を見ていると、知事は早くから承認の意思があり、その環境づくりのため、政府・自民党本部と通じて、自民党県連・議員をへ転換させたのではないか、そんな気がする。

 その5。承認の理由は、環境保全措置が講じられており「基準に適合」しているという。巨大な基地を建設すれば、自然も生活環境も取り返しのつかない破壊をもたらすことは自明の理だ。それが「基準に適合」とは、県の基準は環境破壊に適合するシロモノなのか。名護市長の意見は、法律に反していると断じていた。承認に導くため法や基準をゆがめて「適合」としたとしか思えない。Img_4377

 書きだすと果てしがない。いずれにしても、知事が「辺野古移設は時間がかかる。不可能に近い」と述べてきた。それだけは正しい。知事が埋め立てを承認しても、県民も地元名護市の市長、議会も認めてない。来年1月の市長選でも市民はきっぱりとした審判を下すだろう。
 事情があって、反対行動にはなかなか参加できないが、県民の知事への不信と怒りはいっそう広がるだろう。

  新聞の写真以外は、NHKテレビの画面から。

 

2013年12月27日 (金)

沖縄ジョン万次郎会が忘年会

 沖縄ジョン万次郎会の忘年会が那覇市内のホテルで開かれて、ご案内をいただいて出席した。30人ほどが参加した。

 大城光盛会長があいさつして、今年の活動を報告した。万次郎ゆかりの地を歩く企画や万次郎玄孫の今永一成氏をはじめとする講演会、高知の土佐清水市との交流など、多彩な活動を報告した。残念ながら、日程の都合がつかぜ、企画に参加できなかった。131226_211201

 万次郎が琉球に上陸して半年間、滞在した豊見城市翁長(オナガ)の高安家5代目当主の高安亀平さんも出席され、あいさつを交わした。高知で開かれた行事にも参加されたとか。昭和4年生まれだから、84歳くらいのはず。お元気そうだ。131226_213401_4

 高知に生まれ育ったものとして、沖縄でこんなに万次郎のことを愛し、顕彰する活動が活発に行われていることに感銘を受けた。

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                      名嘉眞さん
                   

 乾杯と食事のあと、余興に移る。万次郎会は、豊見城カラオケ愛好会のメンバーが多いので、自慢のカラオケの歌唱が続いた。
 「十三夜」「無法松の一生」から民謡「遊びションカネー」まで、みんな歌が上手い。

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 事務局長の名嘉真和彦さんの要請で、私たちも出させていただいた。ツレは「愛の賛歌」を美川憲一版で歌った。越路吹雪が歌う岩谷時子訳詞は、原曲の歌詞がまったく味わえない。でも、美川版は、原曲に忠実な訳詞でとても味わいがある。
 ところが、うかつにも写メをとっていない!

 私は歌三線で「屋嘉節」を歌った。沖縄戦のあと、屋嘉の捕虜収容所で創られ歌われたといわれる民謡だ。131226_211301_4

 驚いたことに、ツレの隣に座っていた女性は、「私は名護の収容所で生まれたのよ」と話していたそうだ。参加者はお年を召した方が多いので、戦世の体験者がいる。「胸にジーンときましたよ」と言ってくれる方もいた。

 忘年会の最後はお楽しみ抽選会。ツレはワイン、私はソックスが当たった。ラッキーでした。

  来年も、万次郎会の発展を誓って、忘年会は終了した。

2013年12月26日 (木)

知事は沖縄を裏切るのか

 安倍首相と仲井真県知事が12月25日、官邸で会談し、県の要望に対して回答を述べた。基地負担軽減にたいする要望にさえ、まともに応えていないのに、知事は「驚くべき立派な内容」として「お礼を申し上げる」と感謝し、会談後は「いい正月になる」とまで述べて、大はしゃぎだった。なんと破廉恥な態度だろう。そこには、県民の顔は浮かんでいない。

 もしも、埋め立て承認に踏み出すなら、普天間飛行場の県内移設反対という県民の総意を裏切り、みずからの選挙公約、議会答弁さえ覆すものだ。知事失格である。Img_4343

 知事は「普天間飛行場の5年以内運用停止」「オスプレイ12機の県外配備」「地位協定の改定」など要望した。これ自体、それまでの要求を勝手に後退させたものだった。安倍首相の回答は、「5年以内運用停止」は具体的にはナシ。オスプレイは訓練の半分を県外実施、地位協定はそのままに、補足する協定に向けた交渉開始など、お粗末な回答。

 後退した県の要求にさえほど遠い。その回答さえ、その場しのぎで反故にされかねない。「粉飾に等しい『負担軽減』」(琉球新報26日付け社説)でしかない。

 来年度予算では、沖縄振興予算で3460億円を計上、一括交付金も1759億円と前年度を大幅に上回り、知事を喜ばせた。

 「沖縄振興」のアメで辺野古埋め立てを承認させようという意図が見え見えだった。こんなまやかしの「負担軽減」「沖縄振興」策で、埋め立て承認をすれば、「沖縄はお金さえ与えれば政府の言うことを聞く」という誤ったメッセージを送ることにさえなる。
 「政府筋書の展開 甘言に知事揺らぐ」(同紙)と評されている。

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 当事者である名護市の稲嶺市長は「辺野古の陸にも海にも造らせない」ときっぱり反対している。その意見さえ、まったく無視することは絶対にあってはならないことだ。県庁前では25日、県庁包囲行動が続けられた。「沖縄の心を売らないで」「歴史に汚点を残すな」「公約守り、県外堅持を」というのは、多くの県民の思いである。

 たとえ、知事が承認に踏み出したとしても、辺野古への新基地建設を県民は認めない、許さないだろう。

2013年12月25日 (水)

奄美復帰60年、苦難の沖縄在住者

 奄美群島が米軍支配から脱して日本復帰したのが、1953年12月25日のXmasの日。今年で60年を迎えた。

 島ぐるみの復帰運動で勝ち取った成果である。奄美は、琉球、薩摩、日本、アメリカ、そして日本へと支配者が代わる世替わりを体験してきた。復帰は、奄美群民にとって喜びだったが、沖縄に在住する島民にとっては、苦難の道が待っていた。当時のことはあまり知らなかった。25日付け「琉球新法」特集でその一端を知った。

 戦後の奄美は、生活が困難で、米軍基地関係の仕事があった沖縄に仕事を求めてきた人が多かった。1953年8月17日付け「琉球新報」によれば、当時約20万人の奄美群島民のうち、6万人が沖縄に住んでいたというから、3割が沖縄にいたことになる。

 奄美が復帰し、沖縄は米軍統治のままだったので、奄美出身者は外国人扱い。登録を義務付けられ、参政権や財産取得権が奪われた。公職も追放された。銀行の融資も厳しくなる一方、納税の義務だけは強要された。Photo

             写真は奄美群島広域事務組合から

 公職追放者には、琉球銀行初代総裁、琉球政府初代副主席、立法院副議長ら沖縄を代表する政財界人がいる。奄美出身というだけで追放された。

  「本籍が管轄外にある」雇用者について、完全にして公平な忠誠心を期待できるであろうか」。奄美の復帰直前に、アメリカ民政府のレサード総務局長が、琉球政府の公職追放の方針を示した書簡は、こう述べていたという。

 同じ日本国民であるのに、勝手に奄美は復帰、沖縄は返さないという分断を持ち込みながら、こんな差別と圧迫をくわえるのは身勝手すぎるやり方だ。

 奄美出身者は、身分は保障されず、渡航も制限された。琉球で永住権を得るため本籍地の変更を申請しても、冷たく、容易ではなかったそうだ。

「奄美出身者にとっては郷里との分断、琉球人との分断という二重の苦しみを味わうことになった」。津留健一沖縄女子短期大学教授はこうのべている。

 将来の身分を危ぶんだ出身者らは、復帰前1953年12月1日、沖縄奄美連合会の前身、在沖奄美会を結成し、処遇改善に尽くした。沖縄の復帰までには、琉球人とほぼ同等の権利を回復したという。

 同じ琉球弧の島々でつながる沖縄と奄美は、未来に向かっていっそう連帯して発展を図っていくことが必要ではないだろうか。

2013年12月23日 (月)

瓦屋節の歌碑を訪ねる、その1

瓦屋節の歌碑

 

 国際通り裏にある歌碑

沖縄の瓦屋のはじまりにまつわる哀しい伝承をテーマとした「瓦屋節」の歌碑が那覇市牧志にある。すでにこのブログで、「瓦屋節」と「瓦屋情話」について紹介した際、瓦屋のあった場所は、那覇市国場であると書いた。Img_4287


 ところが、歌碑はまったく異なる場所にある。那覇のメインストリートとなっている国際通りのすぐ裏側である。沖映通りからパラダイス通りに入り、すぐ左手に草木が茂る林がある。緑ヶ丘公園の一角になる。古いお墓がある。

 訪ねたときは、古い墓を整理して公園を整備する計画があるそうで、茂った草木を刈り払ってくれていた。作業していた人に「歌碑を探していているんですが、どちらかご存知ですか」と尋ねると、「歌碑はこちらですよ」と指で差してくれた。小高い丘の頂になるところだった。Img_4290


 この場所は、昔は「牧志村照川原」と呼ばれていた。
 歌碑と説明の石碑があった。

「琉球の陶業発展の陰にまつはる物語に瓦屋節の悲歌と伝説がある。その由来は瓦を焼出した異邦人てある瓦陶匠の妻にせられたる女は夫のある人妻であった。王命に従って異人の妻になって行った女は瓦焼く丘に登り夫の住む村をながめて悲んだといふ女の情けを詠んだ歌が瓦屋節の悲歌となり伝説になって伝えられた。歌碑は史実と伝説を秘めたまま黙して真実を語らず瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地川原の丘の上に立っている」。

 この瓦陶匠は、16世紀に中国から渡ってきて琉球に住み着いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)である。

 この伝説をもとにした悲歌が「瓦屋節」である。

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「瓦屋頂登てぃ 真南向かてぃ見りば 島浦どぅ見ゆる 里や見らん」
 歌意は次の通り。
「瓦屋の頂きに登って 南に向かって見ると 故郷の村は見えるけれど 
 貴方の姿は見えない

 なぜ、この歌の歌碑がこの場所に建てられているのか、よくわからなかった。説明の碑を読むと「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地
川原の丘の上に立っている」とある。歌碑のある丘が、瓦屋のあった場所ではない。緑ヶ丘公園となっているこの付近は、いまも古い墓がたくさんある。
 

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瓦屋節に歌われた場所については、国場という説ともう一つ、別の涌田(現在の那覇市泉崎)だという説がある。この説明の碑によれば、どちらとも書かれていない。湧田説については、別途書きたい。

この丘に歌碑があるのは「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地」だから。渡嘉敷三良のお墓は、歌碑のあるところから、百数十メートルくらい北の緑ヶ丘公園の一角にある。お墓に近いから、歌碑が建立されたようだ。この墓については、次に紹介する。

2013年12月22日 (日)

浦添歴史の道、史跡が多い

史の道、史跡が多い 

 

「歴史の道」は、さすが浦添が古都であり、首里城からも近いだけに、由緒ある史跡が多い。でも案内板で紹介されている史跡でも、まだ実際に見たことがない場所もいくつかある。とりあえず、「歴史の道 中頭方西海道」の案内板にそって、写真と説明がある史跡を紹介しておきたい。Img_4163

「中頭方西海道」は、琉球王朝時代に、首里王府からの令達などのために使われた宿道。首里城を起点に平良、大名を通り、浦添市の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至る。北の恩納、国頭方面につなぐ主要道路だった。

 

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   伊祖の高御墓(イソノタカウハカ)

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英祖王は、天孫氏の末裔とされる伊祖城の恵祖世の主の子であり、舜天王統の義本王から禅譲を受けて英祖王統を築いた。13世紀から14世紀にかけ5代90年にわたる王統だった。

この墓は、英祖王の父、「恵祖世の王」(エソヨノヌシ)の墓と伝えられる。崖下につくられた古い形式の墓。県指定有形文化財(建造物)。

 英祖王は、浦添ようどれに葬られている。

 

 

 

 

 

 浦添御殿(ウラソエウドゥン)の墓

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沢岻(タクシ)には、第二尚氏の第14代国王、尚穆(ショウボク)の子・朝央(チョウオウ)を元祖とする浦添間切総地頭を務めてきた浦添御殿(王家の分家)の墓がある。

尚穆王、尚温王の摂政を務めた朝央を葬るために造られた。浦添御殿の歴代の墓になっているという。

造営は18世紀と推定され、亀甲墓としては市内最大級を誇る。市指定文化財(史跡)

墓は沖縄戦で大きな被害を受け、修復をしていた。

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ここは以前、沢岻を散策したとき、まだ工事中だった。2012年に往時の姿がよみがえったそうだ。

 

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当山の石畳道

首里から普天間宮への参拝道。宜野湾間切が新設された頃(1671年)に整備されたと考えられている。市指定文化財(史跡)。こちらにも立派な石橋があるようだが、まだ残念ながら見ていない。そのうち行く機会があるだろう。

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2013年12月21日 (土)

浦添歴史の道、猛攻受けた仲間高台・前田高地

猛攻を受けた仲間高台・前田高地

浦添城跡といえば、仲間高台、前田高地と連なる丘陵になっていて、沖縄戦で激戦の地となったことで知られる。日本軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。

2008年に、シルバー人材センターの観光ガイド講習を受けた際、戦跡めぐりで案内していただいたことがある。
「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊された」との説明があった。


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仲間・前田の集落は、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死した。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(上写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。

 
 残念ながら入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難した人も多数が犠牲になった。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあったという。

 

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この高地の北側の断崖に為朝岩(上写真、米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つ。高地でも一番高い。四方が見渡せるので軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍は、ここから米軍の動きを監視した。米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたという。

前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出た。「前田高地平和之碑」(下写真)がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てた。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。

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 碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究者で2012年亡くなった外間守善さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」(外間著『前田高地』)と証言している。

沖縄戦の戦跡については、このブログで「沖縄戦・激戦の地を歩く」をアップしてあるので、関心のある方はそちらも見ていただきたい。

2013年12月20日 (金)

辺野古埋め立ては承認すべきでない

 米軍普天間飛行場の閉鎖・移転問題が緊迫している。政府が移転先とする辺野古沖の埋め立て申請について、沖縄の仲井真県知事が来週中にも判断を示そうとしているからだ。

 17日に開かれた沖縄政策協議会で、県が求めた基地負担軽減策には、これまで主張してきた普天間飛行場の県外移設は消えて、5年以内の運用停止に留まっている。オスプレイの配備中止も消えて、12機程度を県外に分散配備するにトーンダウンした。これは県民世論とはかけ離れた要求だ。そこに危うさを感じる。

 これまでなんの議論もなかった要求を急きょ持ち出したことが、辺野古埋め立て承認の条件としているのではないかという重大な懸念がある。「産経新聞」は、知事が承認する方針を固めたような観測記事を流している。世論作りの狙いが込められているだろう。

 県の提出した要求は、政府にとって『高いハードルではない」とみられている。5年という期限も、県への埋め立て申請で工期を「約5年」としているからだ。たとえ、政府が「最大限努力する」など回答しても、決して埋め立て承認をすべきではない。

 こんな「負担軽減策」や経済振興など、承認の条件にはなりえない。沖縄は条件闘争をしてきたのではない。埋め立ては不承認とすべきだというのが、県民の圧倒的な声である。
  「琉球新報」19日付け「法に照らして不承認を 沖縄の心の真価を示すとき」という社説は、県民の心を代表している。

 政府は、「辺野古移設を認めないと普天間が固定化する」と脅してきた。しかし、本来、世界一危険な普天間は即時閉鎖・撤去すべきもの。それを同じ沖縄県内に押し付けるから動かない。辺野古に巨大な新基地を建設すれば、それこそ沖縄への海兵隊の駐留と米軍基地が半永久化する。これこそ「固定化」の最たるものだ。

 普天間の閉鎖・撤去・県内移設反対は、県民の総意である。県議会の全会一致の決議や41全市町村の首長・議長らが今年1月に政府に提出した建白書は、オール沖縄の意思を示している。自民党の国会議員と県連が公約を投げ捨てたとしても、一部の政府追随者が脱落しただけであり、県民の総意には何ら変わりがない。

 仲井真知事は、選挙でも「県外移設」を公約し、自民党県連が変節した後も、みずからの「県外移設」の主張には変わりないことを県議会でも答弁してきた。もしも、埋め立てを承認するようなことがあれば、県民への重大な背信行為となる。

 なにより、辺野古移設は、住民の命と人間らしい暮らし、安全を危険にさらすことになる。美ら海(チュラウミ)など自然と環境に取り返しのつかない破壊をもたらす。環境保全の要件だけをみても、承認の道がとれるはずがない。

 沖縄は復帰以来、県内への米軍の新たな基地建設は許していない。仲井真知事は任期あと1年である。埋め立て申請への判断は、後世にまで大きな影響をおよぼす歴史的な意味を持つ。子孫末代まで誇れるような決断をすることこそ、県知事の責務である。

2013年12月18日 (水)

浦添歴史の道、浦添城跡と浦添ようどれ

浦添城跡と浦添ようどれ

 経塚から歴史の道を進むと、「浦添城跡」「浦添ようどれ」に着く。城跡は初期琉球王国の歴史・文化を理解するうえで重要なグスクとして国の史跡に指定されているが、未調査の部分が多く、現在も発掘が進められている。

 1609年に薩摩が琉球に侵攻したときに、城殿は焼き払われたいまは一部城壁が復元整備されている。

 城跡の北側の階段を下りていくと浦添ようどれがある。初期琉球王国中山王陵である。これも「玉陵の光と影」で紹介した。ただ、浦添の歴史の道といえば、最大の見どころなので、あらためてふれておきたい。

浦添ようどれは今回行ったのではない。もう数年前である。

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                歴史も道案内の説明板から

サンゴ礁の岩穴を利用して造られた立派な陵墓である。墓は東西に二つある。西側は英祖王、東側は尚寧王の墳墓である。英祖王は、僧禅鑑の琉球渡来を契機に極楽寺を建立、のちに寺のそばに墓を造ったと伝えられる。英祖王はここに葬られた。極楽陵とも称された。

 「ようどれ」は夕凪の意味だが、「無風・静寂といった原義から転じて、墓地の別名になったともいわれる」(『沖縄県の歴史散歩』)。

 周辺調査が終わり、踏査結果をもとに2005年に修復された。

 ようどれ館も併設されている。精密に複製再現された墓室内部も疑似体験できる部屋もある。

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 薩摩侵攻時の国王、尚寧が浦添ようどれに葬られたことは、「玉陵の光と影」で詳しく紹介した。第二尚氏の国王たちは、首里城近くの玉陵(タマウドゥン)に葬られている中で、敗戦の恥辱を味わった尚寧王は、あえてこの地に眠ることを望んだと伝えられる。

 

 尚寧王は、亡くなる前に、病気が重くなったので「ようどれ」を修復させた。死去の前月建てられた「ようどれのひもん」には次のような文がある。

 

 「尚寧王が浦添から首里に、照り上がってお出でになったので、浦添のようどれは、英祖王の御墓である故にといって、御考えになって、強く、きれいに造営なされて、祖父の大ちよもいがなし、親がなしを、このお墓にお供申し上げて、あとあとは、尚寧王さまも、御出になさるだろう。そうなってはじめて、千代万代の末までも、御名は残るであろうと、御考え召されて、この碑は御建てなされたのでる(後略)」(新屋敷幸繁著『新講沖縄一千年史上』、和訳文)。

 

 新屋敷氏は「祖父父君の遺骨もこの墓に移して、自分も共にこの墓に納まって、永遠の平和に眠ろうとした心事も悲痛である」とのべている。

 

「ようどれの碑文にはその間の事情は注意深く避けられているが、行間に敗軍の将、尚寧の心境を読みとることができよう」(『沖縄県の歴史散歩』)。

沖縄戦で戦災を受けたけれど、1953年に修復された。県民の多くがまだ生活の再建に追われていた時期に、ようどれを修復したのは、それだけ由緒ある重要な史跡だったからだろう。

2013年12月17日 (火)

浦添歴史の道、近くにある玉城朝薫の墓

 近くにある玉城朝薫の墓

歴史の道に入っていないが、経塚の隣、前田には玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の墓がある。ユネスコの無形文化遺産に登録された伝統芸能の組踊(くみうどぅい)の創始者である。すでにブログにはアップしてあるが、経塚付近の大事な史跡なので、ついでに紹介しておく。004_2



 墓があるのは前田トンネルの上。階段を上るとすぐ墓が見えた。山の斜面を利用した石造りの墓だ。
 辺土名家の墓とも書かれている。朝薫は、玉城間切(現在の町村にあたる)の総地頭職を務めた家柄の辺土名家の10代目に当たるという。朝薫は、首里王府で、芸能を担当する踊奉行(うどぅいぶぎょう)に任命され、中国から国王の任命のために訪れる冊封使(さっぽうし)を歓待する組踊を初めて創作した。011


 朝薫が創作した「二童敵討」「執心鐘入」など5つの演目は「朝薫の5番」と呼ばれ、いまでも最もよく上演される組踊だ。朝薫は、薩摩や江戸にも上り、将軍の前でも芸能を披露したことがあった。大和の芸能にも精通し、能など大和の芸能の要素も取り入れながら、琉球独自の歌三線と台詞、踊りの総合楽劇・組踊を創り上げた。
 墓はちょうどトンネルの真上にある。朝薫の墓は、以前は那覇市にあると思われていたが、実は1984年、道路計画で調査をして墓を発見し、朝薫生誕300年事業でこれが朝薫の墓であることを確認したという。墓の発見で、道路は山を崩さずに、トンネルを貫くことにしたという。
 戦争で、墓は破壊された。2005年に60年ぶりに復元された。1933年にこの墓を撮影した写真があり、それを参考にして復元したという。

2013年12月16日 (月)

浦添歴史の道、龍巻

龍巻(ルーマシ)

「歴史の道」には、入っていないが、スーパー「サンエー経塚シティー」のそばに「龍巻」の石碑があった。龍巻を「ルーマシ」という。井泉があったそうだ。説明板から紹介する。

Img_4190

 その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て掘ったところ、水がこんこんと湧き出たと

ころから龍巻井(ルーマシガー)と呼ぶようになっそれからこの場所は龍巻(ルーマシ)といわれ、豊富な水資源に恵まれ、稲作が多く営まれた。

Img_4189 

いまは、井泉の痕跡も見当たらない。ただそばの小高い丘の上に、松の木がそびえている。なんか昔の風景をしのばせる。

 

2013年12月15日 (日)

アルテで「時代の流れ」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーの今月のテーマは年の暮れだから「年」。嘉手苅林昌が戦後、バス停で待っている間に創ったという「時代の流れ」を歌った。

Img_4268              ギターサークルの演奏


 これを選曲したのは、年が重なり時代がつくられるから。それと歌詞の中に「九年母(クニブ)」が出てくる。ミカンのことだ。
 ただ、歌詞は元歌ではなく、復帰の後につくられた「新時代の流れ」である。
♪唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄
♪アメリカ世や嫌(ガマ)らんりち 又ん大和世成いびたしが 
  何がましやらむる解らん
♪銭や円からドルに成て またん円に成いびたしが 変わるか度損るする
♪車あ昔え右通り 今や左るる通やびん 何時ぬ何時までん戸惑ぬう
♪山や昔えウチナー物 九年母ん苺(イチュビ)ん取らりたしが
  今や基地成てアメリカ物
♪海ん昔やウチナー物 我達や何時やて入らりたしが 今やリゾート勝手なてぃ
♪変わい変わたる事やしが 何時ん変わらん基地ぬ島
 何時か変わゆがましなゆがImg_4259

 意訳すれば次の通りである。
♪中国に服属した世から日本の支配の世になった さらに日本の世からアメリカ統治
 の世になった 不思議に変わってきたこの沖縄だ
♪アメリカ統治は我慢ならない世だった また復帰して日本に戻ったが
 何がよくなったのかよくわからない
♪通貨は円からドルになり またも円になった だが通貨が変わるたびに損しているよ
♪車は復帰して右通行から左通行に変わった いつまでも戸惑うことだ
♪山は昔、みんな沖縄のものだった ミカンも野イチゴも取り放題だった 
 いまは米軍基地にとられてアメリカ物になってしまった
♪海は昔、沖縄のものだった でれでも自由に入ることができた いまはリゾートホテル
 に勝手に使われている
♪世の中は変わり変わってきたけれど 何時までも変わらないのは基地の島
 という現実 何時か変わるだろうか もっとましになるだろうか

 演奏してみると、早くなってしまう。もっとゆっくり弾きたいのに、思い通りにならない。
「こんな歌詞があったのは知らなかったですね」との感想があった。

Img_4280 ツレは前回とその後のシニアピアノコンサートで演奏した「渚のアデリーヌ」が満足に弾けなかったので、このまま年は越せないからと再度、この曲に挑戦した。なかなかピアノがよく鳴っていたと思う。

 今回、トリをつとめたのは、今帰仁在住のクラシックギターリストの与那嶺しんさん。ツレがフォーク歌手・ふーみさんのライブでたまたま知り合い、演奏できる場を探しているというので、アルテを紹介したら、駆けつけてくれた。東京で10年間、先生について習っていて、1年前帰ってきたという。Img_4283 「バッハのアンダンテ」を演奏した。「アンコール!」の声が飛び、それに応えて「椿姫幻想曲」を演奏した。オペラ曲をギター演奏用に編曲したもの。どれも素晴らしい演奏で、魅了された。

 その他、顔なじみの面々が自慢の演奏を披露した。

 

2013年12月14日 (土)

浦添歴史の道、安波茶橋

石積みの安波茶橋

  

「歴史の道」でもっとも見たいと思っていのは、安波茶(アハチャ)の石橋である。写真で見たけれど、石積みのアーチ橋が見事である。Img_4176

 

 このあたりは、起伏の多い地域である。小湾川が流れる。現在、通行する整備された道路の川にかかる橋は大きく、とても高い地点にある。でも、琉球王府の時代、橋を架けるのには、川端のもっとも低い場所が適地となっただろう。安波茶橋は、浦添工業高校のそばで、長い階段を下りて行った場所にあった。

 

石橋は、現場を見るまでは一つの橋と思い込んでいたが、実際は二つの石橋からなっている。小湾川に架かるのが南橋。こちらが大きく、いわば本橋だろう。その北側に、アブチ川に架かる北橋がある。川というより、小さな谷である。

Img_4181

すぐそばにある説明板から紹介する。

 

 安波茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。

 橋の下流側には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられ赤皿ガーがあります。Img_4186

 安波茶橋の上流は、小川のせせらぎのようで、水が流れている。でも、下流側は、滝つぼのような淵になって、満々と水をたたえている。だから、架橋が「難工事」だったことは想像できる。

 

石橋の前後は、石畳道である。かなれ大きな石を敷き詰めてあり、こちらも見事である。

 

Img_4185 琉球王朝時代に、首里王府からの令達などのために使われた宿道の一つ中頭方西海道の一部に当たる。首里城を起点に平良、大名を通り、浦添市の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至るルート。北の恩納、国頭方面につなぐ主要道路だった。

 

 安波茶の石畳道を整備する事業が5カ年かけて行われ、2006年度で完了した。丘の上から谷の安波茶への向かう昔の「公事道」が復元され、地域住民の通行路としても利用されている。

 

 安波茶橋から経塚方面に向かう坂道は、かつては石畳道が残っていた。一部を地中に残す形で保存したそうだ。古い石畳道の説明板があった。「今も地中に眠る石畳道」と書かれており、この場所の地下約1・5メートルには発掘された石畳道が保存されているそうだ。でも、いまは説明の写真でしか見ることができない。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月13日 (金)

浦添歴史の道、「いちゃりば兄弟」石碑


「いちゃりば兄弟」の石碑

 

 浦添市の「歴史の道」の「経塚の碑」のそばに「いちゃりば兄弟(チョウーデー)」の石碑があった。

「いちゃりば兄弟」とは、「一度出会えば兄弟」という意味だ。ウチナーンチュの心意気を示した素敵な言葉である。でも、なぜここに碑があるのか?と不思議に思った。

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 石碑の建立の由来が裏面に刻まれていた。ただ、碑文の文字が小さいうえに、黒ずんできてとても読みにくい。建立の趣旨だけは理解できた。

経塚の集落は、昔からあったのではないという。碑文によると、1944年に、この周辺の安波茶(アハチャ)、前田、沢岻(タクシ)の一部を割いてつくられた新しい部落である。新しい部落の名称を「経塚(キョウヅカ)」としたのは、「経塚の碑」の解説文にあるように、このあたりは、妖怪を鎮めるためお経を埋めたという伝承がある。そこから集落の名称としたようだ。

 新しい集落であるために、住民が一致団結して住みよい地域づくりを進めていこうという思いを込めてこの「いちゃりば兄弟」の石碑が建てられた。

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「いちゃりば兄弟」の言葉は、そのあとに続いて「何(ヌー)隔て(フィダティ)のあが」と合わせてよく使われる。「一度出会えば兄弟だ。なんの隔てがあろうか」という意味である。

 この文言が使われた有名な民謡に「兄弟小節」がある。この曲を作曲した前川昭朝さんが、沖縄戦のあと、国際通りでばったりと友人と出会い、お互いに無事で生きて出会えた喜びを歌った名曲である。その歌碑が与那原町東浜にあることは、すでにブログで紹介した。

この言葉は、もともとは、伝統芸能「組踊」の「大川敵討」の一節だとのことである。

経塚の人々も、この碑のように同じ地域で日々の暮らしをともにする者として「兄弟(チョウデー)」同然の関係で生きているのだろう。

浦添歴史の道、「経塚の碑」

浦添歴史の道を歩く

 

浦添の「経塚の碑」

 浦添市経塚(キョウヅカ)には、用事があり月に一度は訪れている。浦添といえば、琉球が統一される前、中山国の英祖王や察度王らが居城とした浦添グスクがある。14世紀に首里城が建設されるまで、中山の中心だった古都である。古都と首里城を結ぶ幹線路にあたるのが、経塚である。首里から浦添にかけて由緒ある史跡がたくさんある。「歴史の道」の表示がされている。

今回、少し時間があったので、「歴史の道」のごく一部を散策した。

 琉球王府の時代、王府のある首里を起点に島内各地を結ぶ宿道(主要道)がつくられていた。首里から本島中部の中頭方面に向かう「中頭方西海道」は、浦添市のこの経塚から安波茶を通り、北に向かう。

 「歴史の道」の始まりの地点にあるのが「経塚の碑」である。案内板には、経塚の由来が記されている。Img_4170


昔、このあたりは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。16世紀の初め、高野山で修業した日秀上人がお経(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑を建て、妖怪を鎮めたと伝えられています。  

 その後、地震の時に「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えるとおさまると信じられるようになりました。

 お経を埋めた塚を経塚(キョウヅカ)といい、この地域の名前の由来となっています。経塚の碑は旧暦10月1日のウマチーヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。Img_4171

 日秀上人と言えば、和歌山県の那智を船で出て、沖縄の金武に漂着した。住民が洞窟に住む大蛇に困っていたのを退治して、金武観音堂を建てた。その名は、首里の尚真王にも知られて、尚真王の仏教の師となり、護国寺を建てるなど、仏教を広めたとも伝えられる。

 

 なお、護国寺は、日本僧の頼重が護国寺を建て、それがつぶれたあとに、柴山が大安禅寺を建て、そのあとにまた日秀が護国寺を建てた、と考えられるそうだ(『訳注 琉球国旧記』原田禹雄氏の注)

 追記

 ブログを読んだアルテの仲間、玉那覇さんが「チョーチカ」にまつわる体験を話してくれた。

「子どものころ、おばあさんが、地震があると『チョーチカ、チョーチカ』を叫んでいたんですよ。なぜ『チョーチカ、チョーチカ』というのか、その時はわからなかった。でも後になって、経塚(チョウーチカ)の伝承があることを知って、ようやくその訳が分かったんですよ」

 「では、チョウーチカとは、この経塚あたりの人が知っていただけではなく、他のところの人たちにも知られていたんですか?」と尋ねると、「そうそう、全県的に知られていましたよ。でも、若い人たちはもう知らないし、使わない。おばあちゃんくらいの年代の人しか使わないでしょうね」とのことだった。

2013年12月10日 (火)

玉陵をめぐる光と影、その4

薩摩に侵略された悲運の尚寧

玉陵に入れられていないもう一人の国王が第二尚氏の7代目、尚寧王である。

4代目の尚清の後、5代目尚元王、6代目の尚永王が継いだ。尚永王は、30歳で早世した。実子がなかった。そこで迎えられたのが、かつて廃嫡した尚維衡の曾孫にあたる尚寧だった。

 この、尚真以後の尚清王の系統を「首里尚家」と呼び、尚維衡の系統をその本拠地が浦添だったことから、「浦添尚家」とも呼ばれる。本来、尚維衡は正妃の子で長男だったから、浦添尚家の系統が嫡流(本家)である。尚清は側室の子で5男なので、首里尚家の方が庶流(分家)である。

尚寧は第7代国王となったが、不幸なことに1609年、薩摩藩が琉球に侵攻し、降伏にいたった。薩摩には絶対に背かないことを誓約されられた。尚寧は、死後、玉陵には葬られず、「浦添ようどれ」に葬られた。

「浦添ようどれ」は、浦添グスクの北側崖下にある。中山王だった英祖王が1261年に極楽寺を建立し、後に寺のそばに墓をつくったと伝えられる。いわゆる「ようどれ」である。極楽陵とも称された。尚寧王が1620年に改修した。

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                   浦添ようどれ

西側に英祖王、東側に尚寧王が葬られている。「ようどれ」とは、夕凪のこと。同時に極楽を意味するともいわれる。

 玉陵から排除された国王・王子たちが、尚宣威とその血を引く尚維衡(有資格者から排除)、その曾孫の尚寧というのは、一つの血でつながっている。偶然ではない気がする。

ただし、首里尚家と浦添尚家は対立、対抗していたのではない。5代目、尚元王の正妃は、尚維衡の孫にあたる「梅岳」(真和志聞得大君)であり、6代目の尚永の母である。尚寧は尚永王の長女を正妃に迎えている。

このような近親結婚を重ね、「嫡流と庶流が混然一体となっていく」(与並岳生著『新琉球王統史6』)のである。

 それに、追放されたはずの尚維衡の遺骨は、後に尚清王のもとで、玉陵に移葬された。これは、碑文で厳しく定めた有資格者の書き付けに背くことだ。「天を仰ぎ、地に伏して祟るべし」と記しながら、堂々と踏み破っている。

 ただし、いまなお尚宣威と尚寧は葬られていない。尚寧はなぜ玉陵に葬られていないのだろうか。

『沖縄県の歴史散歩』は、「慶長の役で島津氏に敗れた尚寧王は、王陵に葬られるのを遠慮してようどれに葬るよう遺言したからだという」との伝説を紹介している。ただ、それは「俗説」だと退ける人もいる。

歴史研究者の新城俊昭氏は「一説によれば、尚寧は『島津の侵入をまねいたのはすべて私の徳のなさによるものであり、玉陵に入る資格はない。私の柩は故郷の浦添の地に葬るように』という遺言を残したという」という説を紹介しながら、「実際には尚寧の出身地である浦添にもどっただけのことであったという説もある」とのべている(『琉球・沖縄史』)
 
 尚寧王は、死のひと月前に遺命を残していたという。「王の病重く、八月に重臣に命じて、浦添の極楽山陵を造営させた」と『中山世譜』に記述がある(与並岳生著『新琉球王統史6』)。

                           

 

「ただ『王陵の碑文』にしたがったのです」と与並氏は解釈している。自分の生まれた浦添の地に戻ったということでもある。浦添はいわば故郷であり、永遠の眠りにつくのにふさわしいと考えたのだろうか。

それにしても、玉陵が建造された時代から100年ほども後世の国王だから、碑文の書き付けはもう関係ないはずだ。それに、曾祖父の尚維衡が有資格者から当初、除外されていたとしても、すでに碑文を破って移葬されているので、なおのこと碑文にこだわる必要はないように思う。

新城氏は「琉球王国はじまって以来の国難に遭遇した尚寧の心情には、複雑な思いがあったに違いない」(同書)とのべている。

本来なら、国王は玉陵に入るのが当然である。それをあえて浦添ようどれに葬ることを選択した心情を思う時、薩摩侵攻のことは無関係だとはどうしても思えない。それが素人としての感想である。

 

2013年12月 8日 (日)

大人気の南部農林「農業祭」

 「農業魂をふるいたたせろ! 65年の歴史を 今ここに」のスローガンで開かれた県立南部農林高校の「第26回農業祭」。3年ぶりくらいに出かけてみた。高校はすぐ近くにあるし、農業祭は地域の人たちにとっても人気がある。Img_4208


 沖縄の北部、中部、南部の農林高校と名護市にある農業大学校は、この時期にいっせいに「農業祭」を開く。沖縄は農業が重要な産業である。農林高校、農業大学校は、戦後の沖縄の農業の発展に役立ってきた。

 なにより、農業祭は高校生が作った農産物と加工品が格安で直売されるので、大人気である。販売は午前10時からだが、9時半にはもうこの行列ができている(上写真)。Img_4210 野菜や野菜の苗、花や植木などの園芸目当ての人たちも多い。販売前からもう人だかりができている。Img_4211_2
 こんな木製のベンチは、すでにほとんど売約済みとなっていた。

一番人気は、牛、豚、鶏の精肉やハム・ベーコンなど加工品とケーキ・菓子パンなど食品加工の販売コーナーだ。肉類は、3年前に雨の中並んで買ったことがあるので、今回はパス。

 チーズケーキとローストチキンなどを目当てに並んだ。販売コーナーの前も長蛇の列。
 沖縄は、東京なんかと違って、ほとんど並ぶことはない。こんな大行列は、沖縄に移住してから初めてだ。
 なんと朝7時半から並んでいるとか。なんでこうまでして並んでいるのか、なにがそれほど魅力があるのかよくわからない。みんな並ぶから、きっといいことがあるだろう。そんな群集心理に飲まれているのかもしれない。それに、1時間以上並ぶと、せっかく並んだから、いまさら引き返すと、ならんだことが無駄になる。そんな気にもなる。

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 並んでいるうちに、品物はどんどん売り切れていく。「チーズケーキ残りわずか」。販売状況が表示されている。残りは少なくなる。Img_4216



 とうとう2時間以上並んで、販売窓口にたどり着いた。お目当ての商品はもう完売になっていた。「でもせっかく並んだのだから、たくさん買わなきゃ」。そんな購買心理も働く。それに、活発に動く生徒たちの姿を見ていると、日頃の学習と活動の成果でもあるこれらの品々を買ってあげたいという気持ちにもなる。

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というわけで、ガトーショコラ1個、パウンドケーキ2個、南農味噌1個を買い上げた。
生徒たちに感謝の気持ちを込めて美味しくいただきたい。

 

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2013年12月 7日 (土)

冬至近し

 沖縄も今年は例年より寒さが早く来た。といっても、この数日はわりと暖かい。それに雨がこのところほとんど降らない。この季節は、わが家のベランダから夕日がよく見える。

 漫湖に架かるとよみ大橋の橋げたから、左に太陽が沈みだすと、冬至が近付いている証拠である。

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 今年の冬至は12月 22日らしい。今日は7日だから、もうすぐだ。漫湖の川面が、夕日に照らされて赤みを帯びている。

Img_4195 沖縄では、冬至は「トゥンジー」と言う。大和では、かぼちゃを食べるとか、ゆず湯に入る習慣がある。でも沖縄はそんな習慣はない。すぐ頭に浮かぶのは、「ジューシー」を食べること。「ジューシー」とは、沖縄風の炊き込みご飯である。「トゥンジージューシー」という。

 夕食時に作ると、「火の神」(ヒヌカン、台所の神様)や仏壇にお供えをして、健康を祈願する習わしがある。

冬至のころは、沖縄も冷え込むので「トゥンジービーサ」(冬至冷え)とも言われる。

 この時期の真っ赤に燃えた落葉は美しい。

 

2013年12月 6日 (金)

玉陵をめぐる光と影、その3

長男なのに追放された尚維衡

玉陵の碑文は、奇妙なことに尚真王の長男・尚維衡(ショウイコウ)と次男・尚朝栄の名もない。なぜなのか。朝栄は玉陵が建造される前に亡くなっていた。問題は尚維衡である。玉陵のリーフレットでも「王位室内に勢力の対立があり、廃されたと見られています」とある。

尚真の正妃は、退位に追い込んだ尚宣威の娘だった。正妃が長男の浦添朝満を生んだ。後の尚維衡である。尚真の後を継ぐのは、本来なら彼だ。しかし、尚維衡は尚真によって追放され、16歳で浦添城に隠遁した。尚真王の側室、華后(カコウ)の子である5男の尚清が王位に就いた。5男が王位に継ぐのは、異例中の異例といえるだろう。

尚維衡の追放には、あやしげな策略があったという話が伝えられている。

側室の華后(カコウ)が蜂をわざと自分の胸に入れて、大声で叫んだ。尚維衡が駆け寄り、胸元の蜂を取ろうとすると、「王子が私の胸に手を入れ、乳房に触れた」と騒ぎ立てた。これによって、尚維衡は王位継承の地位を奪われた。

尚真王の長男でありながら、「彼の生母が尚宣威の娘であるというだけの理由」で退けられ(山里永吉著『沖縄史の発掘』)、一生を浦添グスクに隠遁したまま終わった。Img_4022


             玉陵


「世子尚維衡を廃したのも、この母(オギヤカ)と寵姫思戸金(尚清の生母。ウミトガニ、号は華后)の合作」だろうと山里永吉氏は推測している(同氏著『沖縄史の発掘』)。

ただ、尚清はすんなり即位できたわけではない。

尚真の死後、群臣が尚清の即位を議定したが、尚清は、本来の世子は浦添王子(尚維衡)であり、その罪は虚名と認め、「兄を超えて、王位に就くことは、天理の容れざるところである。浦添王子こそ、王位に就けるべきである」と辞退した。しかし、尚維衡も固く辞退し、やむなく尚清が即位したと王府の史書『中山世鑑』にも記されている(和訳は与並岳生著『新琉球王統史6』による)。

この不自然な世子交代は、中国の明朝も疑念を持ち、国王認証の冊封の要請に応えなかった。そのため、正統な後継ぎであることを証明する「結状」に三司官をはじめ主要な役人が血判を押して冊封を要請した。中国はようやく国王の冊封使を送った。これ以降、中国への冊封の要請には「結状」を添えることが慣例となった。

尚維衡が亡くなった時、浦添の極楽寺に葬られた。「しかし、尚清王は、『追慕の情に堪え』ず、後に、尚維衡の長女の峰間聞得大君(ミネマキコエオオキミ)とともに、首里山川の西玉陵に移葬しました」(与並岳生著『新琉球王統史6』)。

注・与並氏はこのように記述されているが、野村朝正さんからコメントが「玉陵の西室が正しい」との指摘がありました。私も尚維衡が移葬されたのは「玉陵の西室」と考えます。

玉陵への埋葬を拒絶する呪いの言葉まで記した書付をあっさりと破ったのである。よほど尚清として、長男が母親の虚名で追放され、自分が王位についたことへの後ろめたさがあったのか。兄に対する「追慕の情」が深かったのだろうか。

 

玉陵をめぐる光と影、その2

尚宣威退位の背景にオギヤカの影が

第二尚氏でも、2人の国王は玉陵には入れられていない。

一人は第2代の尚宣威(ショウセンイ)王。尚円王の弟である。尚円王が亡くなった時、その子の尚真はまだ少年だった。弟の尚宣威が、重臣たちに推されて王位に就いた。だが、不幸にもわずか半年で退位に追い込まれた。

首里城での即位の儀が行われたさい、朝日を背にした尚宣威にたいし、神託を告げる神女たちは、なんと王に背を向けて西の海を拝礼した。そして、「首里におられる国王の愛し子が、遊び踊る姿はみごとである」という意味の神託を唱えたという(三谷茉沙夫著『波瀾の琉球王朝』)。尚宣威は国王にあたいしない、尚真こそが新しい国王にふさわしいという意味である。Img_4021_2

この背景には、尚円王の正妃であり尚真の母后、オギヤカ(宇喜也嘉)の影がある。62歳で亡くなった尚円王と、オギヤカとは30歳ほど歳の差があったので、オギヤカはまだ32、33歳。女盛りである。神女を巧みに利用して、幼いわが子を王位につけ、権勢をふるいたいという策略があったと見られる。

 歴史家の亀島靖氏は、オギヤカは謀略を練り上げただけでなく、「さらに、母后という立場を利用し、王国の最高権力者として首里城に君臨し、重臣達を支配します」(『琉球歴史の謎とロマン その2人物ものがたり』)とのべている。

尚宣威は失意のもとに越来(ゴエク)間切(マギリ、いまの町村にあたる)に隠遁してわずか半年でこの世を去った。尚円の弟でありながら、その遺骨は、玉陵には入れられなかった。

玉陵の碑文には、被葬者の有資格者が記されている。尚真とその母、妹、長女、尚清、尚詔威、尚龍徳、尚亨仁、尚源道の9人である。しかも、国王の詔として次のように記されている。

Photo

「この御すゑは千年万年にいたるまでこのところにおさまるべし もしのちにあらそふ人あらばこのすえ(文面)見るべし このかきつけそむく人あらばてんにあをぎちにふしてたゝるべし」。碑文は15019月に建立された。

そこには、尚宣威の名前はない。この碑文は「露骨にいうと、尚宣威の血統をいれないための告示である」と山里永吉氏は『沖縄史の発掘』で指摘している。

この碑を建立させたのもオギヤカだとされている。尚宣威の退位のあと、13歳で即位した尚真王の背後にいて、王府に君臨したのがオギヤカだった。

2013年12月 4日 (水)

玉陵をめぐる光と影,、その1

玉陵をめぐる光と影

  首里城の守礼之門を少し西に下ると、左側に琉球王国の陵墓「玉陵(タマウドゥン)」がある。世界遺産に登録されている。代々の国王と正妃、家族が葬られている。第二尚氏の王統を開いた尚円王の子、第3代目の尚真王が、その父、尚円の遺骨を改装するため建立した。 

 久しぶりに大和からの観光客を案内して訪ねた。首里城のにぎわいに比べると、訪れる人は多くない。見事な石積みの陵墓は、とても静寂である。だからだろうか、「玉陵が好きだ」という知人もいる。

墓室は3つに分かれている。中室は洗骨までの遺骸を入れる墓。左側の東室は、洗骨後の王の遺骨を納める墓。右側の西室は洗骨後の王族の遺骨を納める墓である。

沖縄戦で大きな被害を受けたが、1974年から3年余の歳月をかけ復元された。

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 第一尚氏の国王は入れない

                         

 

 琉球王国の陵墓といっても、そこには、さまざまな光と影がある。
 
なによりまず、当たり前のことではあるが、琉球を統一した尚巴志をはじめ第一尚氏の7代の国王は入れられていない。尚巴志は、日本でいえば豊臣秀吉にあたる英雄である。その第一尚氏の王統を金丸(尚円王)クーデターで倒して、新たな王朝を開いた。尚円王は、日本でいえば、徳川家康にあたるだろう。尚巴志の子孫は、迫害の対象であり、7代にわたる前王統の国王は、ここには葬られていない。第一尚氏の国王たちの墓は、南城市や読谷村はじめ県内各地に散在している。

 玉陵を見るとき、琉球統一の偉大な功績がありながら、いまなお首里から遠く離れた墓地に眠る、尚巴志はじめ第一尚氏の国王たちのことを忘れてはならない。第一尚氏の墓について、すでにこのブログで紹介したので、興味があればそちらを読んでいただきたい。

 玉陵は、第二尚氏の国王に限られていると言っても、2人の国王が排除されている。

2013年12月 2日 (月)

沖縄民謡に歌われた民具、ウズンビーラ

国場の伝統芸能に登場

那覇市国場の伝統芸能に農耕用具のヘラを使う「ウズンビーラ」がある。ウズンビーラとは、ヘラのこと。「ウズン」の意味は「埋もれた物をおこすことのオゾミか、あるいは、目を覚ます意のウジュムンからの転化かと考えられている」。またウジン(お膳)に例えてウジンビーラともいった。


  材質は木製であり、一本の木をくって作ったといい、マミク(和名クスノハカエデ)、コバテイシ、マキ(チャーギのことか)などの硬い木が用いられた。

 史料によると、真和志・南風原・大里・東風平・豊見城の五つの間切(まぎり・琉球王府時代から明治の中頃まで行政区画名称・現在の市町村)では、つとめてこのヘラを用いて深耕せよと、指導したようである。これらの地域はジャーガルという重粘土質の土壌であるため、王府は督励したが、作業は重労働で明治の頃からは使用されなくなり、今では博物館にねむるだけである。『国場誌』はこう記している。

 ただ、1955年発行の『真和志市誌』は「このウヅン・ビーラは今でも、この辺の農家に見受けることがあるが、この秤(原文ママ、ヒラのこと)で畔立した田は、鍬を用いた所よりも稲の分檗及び出穂等が共に揃って豊作になる」とあるそうだ(『国場誌』)。

                           

 

 踊りは、いわゆる農耕民俗舞踊で、ウズンビーラを片手に農作業の様子を芸能化している。

 今から500年前、西暦1500年代、当時の国王が農業振興を目的に国場・識名・上間・仲井真などの村人を集めて、田んぼを耕す競技をさせて、識名園の勧耕台(カンコウダイ、付近が一望にできる高台)からみたことに始まるという(『国場誌』)

 一口にヘラといっても、いろいろな形があるようだ。昔からの長方形の物から先が尖ったタイプもある。その幅も狭いものから広いものまでさまざまだ。
   ウズンビーラの写真は『国場誌』から。

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 昔は水田用によく使われたが、沖縄では、稲作はいまごく一部の地域でしか作っていない。ヘラは甘藷(芋)の苗の植え付け、草取り、収穫などに便利だという。沖縄は高温多湿で雑草がよく茂るので、草取りには欠かせないともいう。

 奄美諸島でも、甘藷掘りにフィラ(箆)を使うそうだ。

 

民謡に登場するヘラ

沖縄民謡でも、ヘラは登場する。

 人気のある沖縄芝居「丘の一本松」は、カンジャー屋(鍛冶屋)の親子が古金を打つ。「打ちゃる鍬箆(クェーヒーラー) 汗(アシ)はい水はい 打っちゃい 叩ちゃい」と歌う。「打つ鍬、ヒラ 汗水流して打ったり叩いたり」という意味である。

宮古島の人頭税廃止の喜びを歌った「漲水の声合(ハリミズノクイチャー)」は、「びら持だ金や押さだ うからでぃだらよ」と歌う。「今からはヘラや鍬を取る仕事もあまりしないで、島は楽になるだろう」。

面白いのは、沖縄テレビのローカル特撮番組「ハルサーエイカー」に「ヘラ」が登場することだ。ハルサーとは「畑を耕す人」、エイカーとは「一族」という意味。そのなかに「ノーグ・ヘラー」がいる。「農具のヘラの化身」である。「ノーグ・カマー」は「農具カマの化身」である。こういうところにも「ヘラ」が登場するとは意外だった。それだけ、ハルサーにとっては、身近な存在、なくてはならない存在だったということだろう。

2013年12月 1日 (日)

沖縄民謡に歌われた民具、ヘラ

ヒーラ(へら)


 沖縄に来て、郷里の高知県あたりでは見かけなかった農具に「ヒーラ(ひら)」がある。農作業を見たのではなく、伝統芸能の踊りで登場する。最初見たときに、これは見たことがない農具だ。なんだろうと不思議に思った。

ヘラとは、「片手に握って、芋づるの植えつけや除草に使う小農具」のことだ。平たい鉄の片方に柄を通すミゾを作り、そこへ叉木を差したものである。
 
 田畑を耕すのにも使った。

                                             

Photo

 

                『国場誌』から

 日本でよく見かけたのは鋤(スキ)である。長方形の刃床の部分に取手の柄がついている。ヘラに似ているが、異なるのは柄のつき方である。鋤は、刃床の直線上に柄がついている。ヘラは、刃床に直角に柄がついている。鋤の図は「goo辞典」から。
 
 鋤は、おもに手と足の力を利用して土を掘り起こす農具のことをいう。犂(スキ)があるが、これは馬や牛に引かせて田畑を耕す農具である。人力で土を掘り起こすのは重労働だが、牛馬で犂を引かせれば作業は楽にできる。

上江洲均氏は「牛耕用犂(スキ)は、沖縄諸島でも使われて来たが、鋤は入って来なかったものか、あるいは入ったが、その後永くは残らなかったものか、見ることはできない」という。沖縄の場合、ヘラがよく使われ「犂(スキ)または鋤(スキ)、あるいは鍬(クワ)の農耕文化ではなく、ヘラの文化といえよう」と指摘している(『沖縄の民具と生活』)。

 戦後も新造して使用された。戦後いつのころからか、柄まで一枚の鉄を曲げて作ったものが考案された。現在もこの系統のヘラが多数を占めている(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

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