「瓦屋節」の歌碑、渡嘉敷三良の墓
渡嘉敷三良の墓
渡嘉敷三良(トカシキサンラー)の墓は、那覇市牧志の緑ヶ丘公園の一角にある。といっても、場所がわからないままだった。公園の未整備地区は、古い墓地になっている。ナイクブ古墓群発掘調査が行われている。作業をしている人に「渡嘉敷三良の墓はどちらですか」と尋ねたが「わからない。事務所があるからそちらで聞いてくれ」という。
パラダイス通りにある事務所を訪ねた。「このあたりの墓はずいぶん古いですね」と聞くと、「こちらは、300年くらい前から戦後もまだ使っていました」という。
三良の墓の場所をすぐに教えてくれた。
墓は緑ヶ丘公園の整備が済んだ地域の端にある。小山のような琉球石灰岩を掘り抜いて造られており、石積みの墓より古い形のものらしい。入り口に次のような説明文が設置されている。
「渡嘉敷三良は、16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人でした。永住して妻を迎え国場村に住み、その近くに窯を設けて瓦を焼きました。字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています。その技術は、子孫へと受け継がれ、四世の安次嶺親雲上(アシミネペーチン)は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜りました。
この墓は、1604年またはそれ以前につくられたと思われます。琉球石灰岩を掘り抜き、奥に遺骨を入れた甕などを安置する一段のタナ(棚)をけずり出してつくられています。このような構造は、アーチを主とした石積みによる墓室が登場する以前からの技法と考えられます。そのため、昔の技法をよく残すこの墓は、その変遷をたどる貴重な存在といえます」
三良は妻を迎えて国場に住み、窯を造って瓦を焼いた、とのべている。
『訳注 琉球国旧記』(1816年)は「瓦工」の項で次にように記している。
「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。その子孫は、今もなお国場村におり、12月24日になると、謹んで祭品を供え、紙(銭)を焼いて、先祖を祭っている。これは、先祖からのしきたりである」
それにしても、国場からは遠いこの牧志に墓があるのだろう? もしかして、当初この付近に住んでいて、国場に移って行ったのだろうか。まだ不明のままである。
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