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2013年12月21日 (土)

浦添歴史の道、猛攻受けた仲間高台・前田高地

猛攻を受けた仲間高台・前田高地

浦添城跡といえば、仲間高台、前田高地と連なる丘陵になっていて、沖縄戦で激戦の地となったことで知られる。日本軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。

2008年に、シルバー人材センターの観光ガイド講習を受けた際、戦跡めぐりで案内していただいたことがある。
「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊された」との説明があった。


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仲間・前田の集落は、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死した。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(上写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。

 
 残念ながら入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難した人も多数が犠牲になった。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあったという。

 

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この高地の北側の断崖に為朝岩(上写真、米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つ。高地でも一番高い。四方が見渡せるので軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍は、ここから米軍の動きを監視した。米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたという。

前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出た。「前田高地平和之碑」(下写真)がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てた。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。

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 碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究者で2012年亡くなった外間守善さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」(外間著『前田高地』)と証言している。

沖縄戦の戦跡については、このブログで「沖縄戦・激戦の地を歩く」をアップしてあるので、関心のある方はそちらも見ていただきたい。

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