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2013年12月23日 (月)

瓦屋節の歌碑を訪ねる、その1

瓦屋節の歌碑

 

 国際通り裏にある歌碑

沖縄の瓦屋のはじまりにまつわる哀しい伝承をテーマとした「瓦屋節」の歌碑が那覇市牧志にある。すでにこのブログで、「瓦屋節」と「瓦屋情話」について紹介した際、瓦屋のあった場所は、那覇市国場であると書いた。Img_4287


 ところが、歌碑はまったく異なる場所にある。那覇のメインストリートとなっている国際通りのすぐ裏側である。沖映通りからパラダイス通りに入り、すぐ左手に草木が茂る林がある。緑ヶ丘公園の一角になる。古いお墓がある。

 訪ねたときは、古い墓を整理して公園を整備する計画があるそうで、茂った草木を刈り払ってくれていた。作業していた人に「歌碑を探していているんですが、どちらかご存知ですか」と尋ねると、「歌碑はこちらですよ」と指で差してくれた。小高い丘の頂になるところだった。Img_4290


 この場所は、昔は「牧志村照川原」と呼ばれていた。
 歌碑と説明の石碑があった。

「琉球の陶業発展の陰にまつはる物語に瓦屋節の悲歌と伝説がある。その由来は瓦を焼出した異邦人てある瓦陶匠の妻にせられたる女は夫のある人妻であった。王命に従って異人の妻になって行った女は瓦焼く丘に登り夫の住む村をながめて悲んだといふ女の情けを詠んだ歌が瓦屋節の悲歌となり伝説になって伝えられた。歌碑は史実と伝説を秘めたまま黙して真実を語らず瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地川原の丘の上に立っている」。

 この瓦陶匠は、16世紀に中国から渡ってきて琉球に住み着いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)である。

 この伝説をもとにした悲歌が「瓦屋節」である。

Img_4289



「瓦屋頂登てぃ 真南向かてぃ見りば 島浦どぅ見ゆる 里や見らん」
 歌意は次の通り。
「瓦屋の頂きに登って 南に向かって見ると 故郷の村は見えるけれど 
 貴方の姿は見えない

 なぜ、この歌の歌碑がこの場所に建てられているのか、よくわからなかった。説明の碑を読むと「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地
川原の丘の上に立っている」とある。歌碑のある丘が、瓦屋のあった場所ではない。緑ヶ丘公園となっているこの付近は、いまも古い墓がたくさんある。
 

 Img_4288


瓦屋節に歌われた場所については、国場という説ともう一つ、別の涌田(現在の那覇市泉崎)だという説がある。この説明の碑によれば、どちらとも書かれていない。湧田説については、別途書きたい。

この丘に歌碑があるのは「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地」だから。渡嘉敷三良のお墓は、歌碑のあるところから、百数十メートルくらい北の緑ヶ丘公園の一角にある。お墓に近いから、歌碑が建立されたようだ。この墓については、次に紹介する。

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