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2013年12月13日 (金)

浦添歴史の道、「経塚の碑」

浦添歴史の道を歩く

 

浦添の「経塚の碑」

 浦添市経塚(キョウヅカ)には、用事があり月に一度は訪れている。浦添といえば、琉球が統一される前、中山国の英祖王や察度王らが居城とした浦添グスクがある。14世紀に首里城が建設されるまで、中山の中心だった古都である。古都と首里城を結ぶ幹線路にあたるのが、経塚である。首里から浦添にかけて由緒ある史跡がたくさんある。「歴史の道」の表示がされている。

今回、少し時間があったので、「歴史の道」のごく一部を散策した。

 琉球王府の時代、王府のある首里を起点に島内各地を結ぶ宿道(主要道)がつくられていた。首里から本島中部の中頭方面に向かう「中頭方西海道」は、浦添市のこの経塚から安波茶を通り、北に向かう。

 「歴史の道」の始まりの地点にあるのが「経塚の碑」である。案内板には、経塚の由来が記されている。Img_4170


昔、このあたりは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。16世紀の初め、高野山で修業した日秀上人がお経(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑を建て、妖怪を鎮めたと伝えられています。  

 その後、地震の時に「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えるとおさまると信じられるようになりました。

 お経を埋めた塚を経塚(キョウヅカ)といい、この地域の名前の由来となっています。経塚の碑は旧暦10月1日のウマチーヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。Img_4171

 日秀上人と言えば、和歌山県の那智を船で出て、沖縄の金武に漂着した。住民が洞窟に住む大蛇に困っていたのを退治して、金武観音堂を建てた。その名は、首里の尚真王にも知られて、尚真王の仏教の師となり、護国寺を建てるなど、仏教を広めたとも伝えられる。

 

 なお、護国寺は、日本僧の頼重が護国寺を建て、それがつぶれたあとに、柴山が大安禅寺を建て、そのあとにまた日秀が護国寺を建てた、と考えられるそうだ(『訳注 琉球国旧記』原田禹雄氏の注)

 追記

 ブログを読んだアルテの仲間、玉那覇さんが「チョーチカ」にまつわる体験を話してくれた。

「子どものころ、おばあさんが、地震があると『チョーチカ、チョーチカ』を叫んでいたんですよ。なぜ『チョーチカ、チョーチカ』というのか、その時はわからなかった。でも後になって、経塚(チョウーチカ)の伝承があることを知って、ようやくその訳が分かったんですよ」

 「では、チョウーチカとは、この経塚あたりの人が知っていただけではなく、他のところの人たちにも知られていたんですか?」と尋ねると、「そうそう、全県的に知られていましたよ。でも、若い人たちはもう知らないし、使わない。おばあちゃんくらいの年代の人しか使わないでしょうね」とのことだった。

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