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2013年12月 6日 (金)

玉陵をめぐる光と影、その2

尚宣威退位の背景にオギヤカの影が

第二尚氏でも、2人の国王は玉陵には入れられていない。

一人は第2代の尚宣威(ショウセンイ)王。尚円王の弟である。尚円王が亡くなった時、その子の尚真はまだ少年だった。弟の尚宣威が、重臣たちに推されて王位に就いた。だが、不幸にもわずか半年で退位に追い込まれた。

首里城での即位の儀が行われたさい、朝日を背にした尚宣威にたいし、神託を告げる神女たちは、なんと王に背を向けて西の海を拝礼した。そして、「首里におられる国王の愛し子が、遊び踊る姿はみごとである」という意味の神託を唱えたという(三谷茉沙夫著『波瀾の琉球王朝』)。尚宣威は国王にあたいしない、尚真こそが新しい国王にふさわしいという意味である。Img_4021_2

この背景には、尚円王の正妃であり尚真の母后、オギヤカ(宇喜也嘉)の影がある。62歳で亡くなった尚円王と、オギヤカとは30歳ほど歳の差があったので、オギヤカはまだ32、33歳。女盛りである。神女を巧みに利用して、幼いわが子を王位につけ、権勢をふるいたいという策略があったと見られる。

 歴史家の亀島靖氏は、オギヤカは謀略を練り上げただけでなく、「さらに、母后という立場を利用し、王国の最高権力者として首里城に君臨し、重臣達を支配します」(『琉球歴史の謎とロマン その2人物ものがたり』)とのべている。

尚宣威は失意のもとに越来(ゴエク)間切(マギリ、いまの町村にあたる)に隠遁してわずか半年でこの世を去った。尚円の弟でありながら、その遺骨は、玉陵には入れられなかった。

玉陵の碑文には、被葬者の有資格者が記されている。尚真とその母、妹、長女、尚清、尚詔威、尚龍徳、尚亨仁、尚源道の9人である。しかも、国王の詔として次のように記されている。

Photo

「この御すゑは千年万年にいたるまでこのところにおさまるべし もしのちにあらそふ人あらばこのすえ(文面)見るべし このかきつけそむく人あらばてんにあをぎちにふしてたゝるべし」。碑文は15019月に建立された。

そこには、尚宣威の名前はない。この碑文は「露骨にいうと、尚宣威の血統をいれないための告示である」と山里永吉氏は『沖縄史の発掘』で指摘している。

この碑を建立させたのもオギヤカだとされている。尚宣威の退位のあと、13歳で即位した尚真王の背後にいて、王府に君臨したのがオギヤカだった。

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