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2013年12月 6日 (金)

玉陵をめぐる光と影、その3

長男なのに追放された尚維衡

玉陵の碑文は、奇妙なことに尚真王の長男・尚維衡(ショウイコウ)と次男・尚朝栄の名もない。なぜなのか。朝栄は玉陵が建造される前に亡くなっていた。問題は尚維衡である。玉陵のリーフレットでも「王位室内に勢力の対立があり、廃されたと見られています」とある。

尚真の正妃は、退位に追い込んだ尚宣威の娘だった。正妃が長男の浦添朝満を生んだ。後の尚維衡である。尚真の後を継ぐのは、本来なら彼だ。しかし、尚維衡は尚真によって追放され、16歳で浦添城に隠遁した。尚真王の側室、華后(カコウ)の子である5男の尚清が王位に就いた。5男が王位に継ぐのは、異例中の異例といえるだろう。

尚維衡の追放には、あやしげな策略があったという話が伝えられている。

側室の華后(カコウ)が蜂をわざと自分の胸に入れて、大声で叫んだ。尚維衡が駆け寄り、胸元の蜂を取ろうとすると、「王子が私の胸に手を入れ、乳房に触れた」と騒ぎ立てた。これによって、尚維衡は王位継承の地位を奪われた。

尚真王の長男でありながら、「彼の生母が尚宣威の娘であるというだけの理由」で退けられ(山里永吉著『沖縄史の発掘』)、一生を浦添グスクに隠遁したまま終わった。Img_4022


             玉陵


「世子尚維衡を廃したのも、この母(オギヤカ)と寵姫思戸金(尚清の生母。ウミトガニ、号は華后)の合作」だろうと山里永吉氏は推測している(同氏著『沖縄史の発掘』)。

ただ、尚清はすんなり即位できたわけではない。

尚真の死後、群臣が尚清の即位を議定したが、尚清は、本来の世子は浦添王子(尚維衡)であり、その罪は虚名と認め、「兄を超えて、王位に就くことは、天理の容れざるところである。浦添王子こそ、王位に就けるべきである」と辞退した。しかし、尚維衡も固く辞退し、やむなく尚清が即位したと王府の史書『中山世鑑』にも記されている(和訳は与並岳生著『新琉球王統史6』による)。

この不自然な世子交代は、中国の明朝も疑念を持ち、国王認証の冊封の要請に応えなかった。そのため、正統な後継ぎであることを証明する「結状」に三司官をはじめ主要な役人が血判を押して冊封を要請した。中国はようやく国王の冊封使を送った。これ以降、中国への冊封の要請には「結状」を添えることが慣例となった。

尚維衡が亡くなった時、浦添の極楽寺に葬られた。「しかし、尚清王は、『追慕の情に堪え』ず、後に、尚維衡の長女の峰間聞得大君(ミネマキコエオオキミ)とともに、首里山川の西玉陵に移葬しました」(与並岳生著『新琉球王統史6』)。

注・与並氏はこのように記述されているが、野村朝正さんからコメントが「玉陵の西室が正しい」との指摘がありました。私も尚維衡が移葬されたのは「玉陵の西室」と考えます。

玉陵への埋葬を拒絶する呪いの言葉まで記した書付をあっさりと破ったのである。よほど尚清として、長男が母親の虚名で追放され、自分が王位についたことへの後ろめたさがあったのか。兄に対する「追慕の情」が深かったのだろうか。

 

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コメント

「首里山川の西玉陵に移葬した」 は誤り。玉御殿の西室に移したのが正解です。

 野村朝正さん。コメントありがとうございました。
 ご指摘の通りです。間違ってました。尚維衡の遺骨は玉陵の西室に移葬したというのが正確ですね。
 この拙文でも、「玉陵の光と影、その4」では、玉陵に移したと書いており、自分が書いたものとも矛盾した記述でした。

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