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2013年12月18日 (水)

浦添歴史の道、浦添城跡と浦添ようどれ

浦添城跡と浦添ようどれ

 経塚から歴史の道を進むと、「浦添城跡」「浦添ようどれ」に着く。城跡は初期琉球王国の歴史・文化を理解するうえで重要なグスクとして国の史跡に指定されているが、未調査の部分が多く、現在も発掘が進められている。

 1609年に薩摩が琉球に侵攻したときに、城殿は焼き払われたいまは一部城壁が復元整備されている。

 城跡の北側の階段を下りていくと浦添ようどれがある。初期琉球王国中山王陵である。これも「玉陵の光と影」で紹介した。ただ、浦添の歴史の道といえば、最大の見どころなので、あらためてふれておきたい。

浦添ようどれは今回行ったのではない。もう数年前である。

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                歴史も道案内の説明板から

サンゴ礁の岩穴を利用して造られた立派な陵墓である。墓は東西に二つある。西側は英祖王、東側は尚寧王の墳墓である。英祖王は、僧禅鑑の琉球渡来を契機に極楽寺を建立、のちに寺のそばに墓を造ったと伝えられる。英祖王はここに葬られた。極楽陵とも称された。

 「ようどれ」は夕凪の意味だが、「無風・静寂といった原義から転じて、墓地の別名になったともいわれる」(『沖縄県の歴史散歩』)。

 周辺調査が終わり、踏査結果をもとに2005年に修復された。

 ようどれ館も併設されている。精密に複製再現された墓室内部も疑似体験できる部屋もある。

Photo

 薩摩侵攻時の国王、尚寧が浦添ようどれに葬られたことは、「玉陵の光と影」で詳しく紹介した。第二尚氏の国王たちは、首里城近くの玉陵(タマウドゥン)に葬られている中で、敗戦の恥辱を味わった尚寧王は、あえてこの地に眠ることを望んだと伝えられる。

 

 尚寧王は、亡くなる前に、病気が重くなったので「ようどれ」を修復させた。死去の前月建てられた「ようどれのひもん」には次のような文がある。

 

 「尚寧王が浦添から首里に、照り上がってお出でになったので、浦添のようどれは、英祖王の御墓である故にといって、御考えになって、強く、きれいに造営なされて、祖父の大ちよもいがなし、親がなしを、このお墓にお供申し上げて、あとあとは、尚寧王さまも、御出になさるだろう。そうなってはじめて、千代万代の末までも、御名は残るであろうと、御考え召されて、この碑は御建てなされたのでる(後略)」(新屋敷幸繁著『新講沖縄一千年史上』、和訳文)。

 

 新屋敷氏は「祖父父君の遺骨もこの墓に移して、自分も共にこの墓に納まって、永遠の平和に眠ろうとした心事も悲痛である」とのべている。

 

「ようどれの碑文にはその間の事情は注意深く避けられているが、行間に敗軍の将、尚寧の心境を読みとることができよう」(『沖縄県の歴史散歩』)。

沖縄戦で戦災を受けたけれど、1953年に修復された。県民の多くがまだ生活の再建に追われていた時期に、ようどれを修復したのは、それだけ由緒ある重要な史跡だったからだろう。

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