奄美復帰60年、苦難の沖縄在住者
奄美群島が米軍支配から脱して日本復帰したのが、1953年12月25日のXmasの日。今年で60年を迎えた。
島ぐるみの復帰運動で勝ち取った成果である。奄美は、琉球、薩摩、日本、アメリカ、そして日本へと支配者が代わる世替わりを体験してきた。復帰は、奄美群民にとって喜びだったが、沖縄に在住する島民にとっては、苦難の道が待っていた。当時のことはあまり知らなかった。25日付け「琉球新法」特集でその一端を知った。
戦後の奄美は、生活が困難で、米軍基地関係の仕事があった沖縄に仕事を求めてきた人が多かった。1953年8月17日付け「琉球新報」によれば、当時約20万人の奄美群島民のうち、6万人が沖縄に住んでいたというから、3割が沖縄にいたことになる。
奄美が復帰し、沖縄は米軍統治のままだったので、奄美出身者は外国人扱い。登録を義務付けられ、参政権や財産取得権が奪われた。公職も追放された。銀行の融資も厳しくなる一方、納税の義務だけは強要された。
写真は奄美群島広域事務組合から
公職追放者には、琉球銀行初代総裁、琉球政府初代副主席、立法院副議長ら沖縄を代表する政財界人がいる。奄美出身というだけで追放された。
「本籍が管轄外にある」雇用者について、完全にして公平な忠誠心を期待できるであろうか」。奄美の復帰直前に、アメリカ民政府のレサード総務局長が、琉球政府の公職追放の方針を示した書簡は、こう述べていたという。
同じ日本国民であるのに、勝手に奄美は復帰、沖縄は返さないという分断を持ち込みながら、こんな差別と圧迫をくわえるのは身勝手すぎるやり方だ。
奄美出身者は、身分は保障されず、渡航も制限された。琉球で永住権を得るため本籍地の変更を申請しても、冷たく、容易ではなかったそうだ。
「奄美出身者にとっては郷里との分断、琉球人との分断という二重の苦しみを味わうことになった」。津留健一沖縄女子短期大学教授はこうのべている。
将来の身分を危ぶんだ出身者らは、復帰前1953年12月1日、沖縄奄美連合会の前身、在沖奄美会を結成し、処遇改善に尽くした。沖縄の復帰までには、琉球人とほぼ同等の権利を回復したという。
同じ琉球弧の島々でつながる沖縄と奄美は、未来に向かっていっそう連帯して発展を図っていくことが必要ではないだろうか。
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