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2014年1月

2014年1月31日 (金)

今帰仁の今泊を歩く、「豊年口説」の歌碑

「豊年口説」の歌碑Img_4625
 今泊の公民館前のフパルシ(コバテイシ)の老巨木のそばに歌碑がある。
「豊年口説(クドゥチ)抜粋」だという。

馬場跡は、今泊で大きな行事、豊年祭の会場となっている。伝統を持つ今泊の豊年祭は、5年に一度、旧暦8月に行われているが、「豊年口説」は舞台の一番初めて演じられる祝儀舞踊「長者の大主」の中で歌われる曲だという。

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 碑文は抜粋でもあるし、読みにくい。この曲の大意を紹介する。

「北山城(今帰仁城)の御ひざ元のめでたい所、そこは、常盤なる松の木が緑を湛え、鷺と烏が巣を作っている。そして四方の畑には一杯作物が実っている。人も鳥もおおらかに暮らしている…」

 

 歌意は、ネット「沖縄の古典文学(琉歌編)」(引用文献は「沖縄文学碑めぐり」垣花武信・東江八十郎著)から紹介した。

2014年1月30日 (木)

末吉公園も桜満開

 那覇市の末吉公園もカンヒザクラが満開だというので、出かけた。今週は寒さはどこへはら。今日も最高23度。4月ごろの気温だ。Img_4739
 満開といっても、桜の木はいまいち少ない。Img_4738
 首里は、ちょっと高い所にあるので、那覇の市街地より少し開花が早い。Img_4743
 公園は、那覇市内とは思えないようなうっそうとした森と谷川がある。北部の山岳部を思わせるような自然があり、森林浴ができる。樹木には、ツタのようなものが伸びているが、その葉っぱがデカイ。沖縄ならではの森だ。

Img_4748 末吉公園から市内を望むと、空は冬とは思えない。暑いくらい。家では、窓とドアを開けたほど。1月30日は、旧暦では大晦日。31日は、旧正月だ。







2014年1月29日 (水)

今帰仁の今泊を歩く、フパルシの巨木

フパルシの老巨木

今泊集落の馬場跡の中央部に公民館があり、その前にフパルシの老巨木がある。県指定の天然記念物である。和名はコバテイシ、沖縄では通称クファデサーと呼ばれる。高さ18㍍、胸高周囲4・5㍍ある。樹齢は推定300~400年ともいわれるだけあって、巨木の胴体はもう空洞化してきている。横に伸びた枝を支えるために、電柱のような支え柱が3本立てられている。Img_4623

「字民とフパルシ」という説明坂がある。

戦前は現存するフパルシの根元に接してもう一本のフパルシがあった。現存するものを「ミー(雌)フパルシ」、もう一本を「ウー(雄)フパルシ」と呼んでいた。フパルシとその周辺は、子どもたちの格好の遊び場だった。Img_4622_2


夏から秋にかけて、たくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子どもたちは競ってその実を求めた。

この老大木は、集落のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代もの子どもたちのよい遊び相手になり、集落の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたという。この集落のシンボルのような存在なんだろう。 

古来名木として
 
「親泊のくふぁでさや 枝持ちの美らしさや わやくみの妻の 身持ち美らしさや」

と歌われ、以前はこの樹の下で豊年踊りや競馬が行われ、また、区民の集合の場になってきました、と記されている。

 

2014年1月28日 (火)

今帰仁の今泊を歩く、馬場跡

マーウイ(馬追い)を楽しんだ馬場跡

今泊の集落の中央部を東西に大きな道路「プゥミチ(大道)」が伸びている。集落内は、細い路地が縦横に走っているが、ここだけはけた違いに広い。

「マーウイ(馬追い)」とも呼ばれ、もともとは馬場として住民になじまれてきた。馬場跡は、幅は8―11㍍、長さは250㍍ほどあるだろうか。
 沖縄はかつて、琉球競馬(ンマハラセー)が盛んだった。競馬にしては少し短くないか、との疑問が出る。だが、走りの速さを競うのではなく、走りの美しさを競う琉球競馬なら、これくらいの長さがあれば十分だったのだろう。

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               大道の馬場跡

琉球競馬は、小柄な沖縄在来馬が、スピードではなく、走る足並みの美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、それも加点の対象だった。世界でも類を見ない美技を競う独自のスタイルだ。琉球王朝の時代から戦前まで300年にわたり、受け継がれていた。県内各地に馬場があった。その数は150を超えていた。
 
 梅崎晴光著『消えた琉球競馬』に詳しく書かれている。琉球競馬についてはすでにブログで書いたので、そちらを参考にしてほしい。Img_16351
 70年ぶりに復活したンマハラセー(琉球競馬)=琉球放送のテレビ画面から

今泊の馬場の歴史は古い。1710年に、琉球王府で名高い政治家、「蔡温(サイオン)が山原(ヤンバル)を巡回した時、親泊(現在は今泊)の馬場を詠んだ漢詩「戯馬台即興(親泊にて)」がある。310年以上前の今泊の馬うい(馬場)と競馬を楽しむ人々の姿が、眼前に浮かび上がってくるようよう漢詩だ。それは別途、紹介する。

今泊の大道は集落の真っただ中に位置しており、住民のさまざまな行事にも欠かせない役割を果たしてきた。戦前のアブシバレー(畦払い)と呼ばれる雑草を刈り害虫を払う行事、昔から集落に伝わる豊年祭の舞台ともなった。

 

今帰仁の今泊を歩く、フクギ並木

今帰仁の今泊を歩く

 

フクギ並木が美しい

今帰仁(ナキジン)村の世界遺産、今帰仁城跡のふもとにあたる海沿いの集落が今泊(イマドマリ)である。今帰仁城跡にはたびたび行ったが、今泊集落は一度も入らないままだった。

今泊の集落に入ると、集落は格子状に家々が立ち並び、細い路地が伸びている。

 昔ながらの古民家とコンクリート造りの家が混在しているが、家の周りにぐるりとフクギ(福木)が取り巻いている。高さが7、8㍍くらいはあるだろう。

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 なかには高さ十数㍍、幹の周囲2㍍の大木もあるそうだ。戸数300を超える今泊の屋敷全体ではその数は、万近くに達するという。集落全体を包み込んでいるようだ。

フクギ並木と言えば、本部町の備瀬(ビセ)集落が有名だが、今泊も負けないほどの並木が残る。

 この集落は、東シナ海に面していて、海からの北風は強そうだ。これだけの高さがあり、常緑の並木で屋敷をかこっていれば、寒い北風も、台風の被害も相当防げる。夏は、木陰をつくるので涼しいはずだ。

 『今泊誌』によれば、福木は、防風、防潮、防火林として重宝がられた。年中緑葉を茂らせ、集落全体の気温を和らげ、空気を清浄し、鳥類を招く役割もある。

 木の雌株には黄色く熟した果実ができるが、こうもりの好物。樹皮は古くから、織物の黄色の染料を採る材料として利用された。

Img_4632              これはフクギではない。なにかよくわからない。

 沖縄戦のさいは、米軍によってすっかり焼き払われたが、大部分が不死鳥のように生きのびた。用材に事欠いた当時、いくらか切り倒し、家屋の建築資材に利用した。 

すでにフクギのない家も見られるが、依然として今泊は「フクギの里」であることにかわりはない。

2014年1月25日 (土)

今年初の氷ぜんざい

 正月から寒い日が続いていたのに、24,25日と一転して暖かい好天に恵まれた。というか、25日は太陽が照り付けると、もう夏を予感させるような陽気。最高気温が23・3度になった。

 「あれだけ寒かったのに、寒さが緩むと一転してもう暑い感じ。こうなればアイスぜんざいを食べたーい!」というツレの希望で、さっそく那覇市久米大通りにある「千日」に行った。

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 沖縄のぜんざいといえば、氷ぜんざいだ。千日は、なかでも目下のところ「沖縄ナンバーワン」の美味しさだ。氷がふわふわで山盛り。小豆ではなく、もっと大きい金時豆を煮てあるが、甘さが丁度よい。白玉は入らない。Img_4728 千日に行くのは、3か月ぶりくらいだろうか。おかみさんが「久しぶりですね。今日は暑いものね」と声をかけてくれた。千日では常連客なのだ。結構お客さんがいて、ぜんざいを食べている。年末以来、ガタガタ震えるほど寒かったのが、うそのようだ。

  まだ一月だけど、氷ぜんざいが美味しいというのも、沖縄の冬の特徴である。 

 そういえば、24日は旧暦で12月24日。「ウガンブトゥチ(御願解き)」と言って、一家の守護神である「火の神(ヒヌカン)」が厄を預かって天に里帰りをする日。各家庭で起こった1年間の出来事を報告する日だといわれる。旧暦の1月4日、「火の神迎え(ヒヌカンウンケー)」に戻ってくるそうだ。

 24日に近くを散歩していると、おばあちゃんが屋敷の周りで祈っている姿が見られた。1月31日が旧正月になりますね。

2014年1月24日 (金)

古希祝いのサプライズに感激

 糸満市の「風は南から」で、フォーク歌手のふーみさんのライブがあり出かけた。今回は、相棒の良明さんが不在のため、一人でフォーク、洋楽から三線ナンバーまで歌う「ミスター☆ジョークマン」のライブだ。Img_4680
 ジョークマンライブは、アコースティックギターからエレキギター、三線2丁、キーボードまで一人でこなして歌う。すごい技量とエネルギーだ。
 いつものユニット「F&Y」は敬遠気味だったライブ友だちの「サッチャン」も「声もよいし、歌もとっても上手。三線もいいね。私は、ふーみさん1人の方が楽しいかも」と喜んでいた。

 ライブを楽しんでいたら、一部の終わりに、サプライズが起きた。ふーみさんが「お誕生日の方がいらっしゃいます。古波蔵の花パパさん。古希を迎えられたそうでおめでとうございます」と紹介してくれた。

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 ツレがラジオリスナーネーム「古波蔵の花」だから、私は「花パパ」と呼ばれている。同じリスナーでライブ仲間のK&Kのかーずさんから、ケーキをいただき、7本のローソクを一息で消 した。

 サッチャンからの花束をはじめ、床屋のなおさん、ドラミさん、ドラミパパさん、ターミさん、それに今日はこれなかったがシングさんを含め、みなさんからプレゼントをいただいた。Img_4693 元日から風邪をひいて、誕生日は寝ていたが、やっと元気になりライブも楽しめるようになったところで、嬉しいサプライズだった。
 クラッシックのコンサートは、頭脳を研ぎ澄まして聞く感じがする。でもフォークやロックのライブは、身体で感じ、気分は高揚。精神的にもなんか若くなる。「健康第一でこれからもライブ楽しみましょう」というお祝いのメッセージカードの言葉通りやっていきたい。

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 古希を迎えて最初は「年をとるのは嬉しくない!」という気分だった。でも、考えてみると、親しい友人で、60歳代で亡くなった方が何人もいる。元気で古希を迎えたことは素直に喜んでいいかもしれない。ふーみさんにも、その旨伝えると、共感してくれた。

Img_4715  ライブ最後は全員、総立ちで踊り、私も年を忘れてその輪に加わった。Img_4705 リスナー仲間による古希祝いの模様をツレが、今朝RBCラジオで流してもらうと、他のリスナーからもお祝いのメールが相次いだ。

 沖縄に来て、こんなに祝ってもらったことはない。Img_4717 プレゼントの大きな紙袋を開けると、車用のシートクッションとブルドッグのようなこれもクッションなのか、いただいた。嬉しいね。ありがたく使わせていただきたい。





2014年1月23日 (木)

桜にはメジロ

 那覇市の漫湖公園もカンヒザクラが咲き始めた。散歩コースだ。今年は寒いのでやはり開花が早い。もう半数以上の木が蕾がほころび、咲き始めている。

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 桜には、メジロがつきものだ。でも、八重岳では、ついに一羽も見なかった。
けれども、この漫湖では、すぐに目についた。今日は、寒いけど晴れ渡って、青空から太陽が差している。メジロも寒いのは嫌い、太陽の日差しが好みなのだろうか

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 カメラを向けると、すぐ気づいたかのように飛び去ることが多い。このメジロも、羽ばたきをしている。Img_4671
 やっと捉えた。まだ花は少ないが、メジロはしっかりくちばしを花びらの中に入れて、蜜を吸っているようだ。Img_4670
 
 「さて、次はどの花びらに行くかな」と眺めている感じ。

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「花から花へ」次々に飛び回って止まる。Img_4673
 もう吸い終わった花は踏みつけにして次を狙う。

Img_4676_2 「もうこの木は終わりかな」。次の木を目指しているのだろうか。

 それにしてもメジロを撮影するのはかなれむつかしさがある。今回は、よく撮れた方ではないだろうか。

 メジロもだんだん少なくなっているのではないかと心配する。でも、「桜にメジロ」が見えて安心した。漫湖公園では、2月8,9日とさくら祭りが開かれる。その時分は、きっと満開だろう。

 桜の木の下で、アヤメかショウブかカキツバタかわからないが、そちら系の花も咲いていた。これって、大和では6月くらいの花だろう。秋桜も咲いていた。Img_4667
 まあ、沖縄は桜とともに、梅も秋桜もヒマワリも咲くのだから、アヤメが咲いても不思議ではない。「季節も花もチャンプルー」。

2014年1月21日 (火)

今年は最高!八重岳のカンヒザクラ

 寒い沖縄。日本一早い桜まつりで知られる、北部の本部(モトブ)八重岳のカンヒザクラが見ごろだと聞いて出かけた。Img_4597
 沖縄の桜は、寒い山上から咲き出して麓に下りてくる。大和のソメイヨシノとは、真逆だ。今年は寒いから早く咲き出した。
 八重岳を上り始めると、もう麓でも満開に近いのでビックリ。車で山上を目指して上ると、いたるところで、桜がピンク色のトンネルをつくっている。Img_4591
 桜にはメジロが寄り集まり、蜜を吸っているのが通常の光景。でもなぜか今年、花は満開なのに、メジロはいない。寒いからなのかなあ。

 山上まで走ると、もう全線満開の状態。道路わきには、まだ「5分咲き」「6分咲き」とか開花状況の表示があるが、もうこれは間違いなく満開だ。八重岳に何回も見に来たが、これまで最高だ。

 お昼に食べた沖縄そばの「さわのや」のおかみさんも「今年は最高よ」と折り紙を付けていた。八重岳の桜は、早く行き過ぎるとまだ山の上の方しか咲いていないし、遅くいくと中腹から上は散っている、台風の被害があると咲かない。開花の時期は毎年かなれズレがあるから、見る時期も難しい。それにしても、今年は、下から上まで満開に近いというのは、珍しい。Img_4606 道路わきに止まる車がわが愛車である。八重岳の桜には歴史がある。すでに昨年書いたのでそちらを見てほしい。

 沖縄も寒い、といってもこの時期、桜だけでなく、梅が満開、コスモスが咲き乱れ、バラも見ごろだ。北中城ではヒマワリ祭が始まった。これが「花の島沖縄」の風景である。







2014年1月19日 (日)

名護基地移設NО! 歴史的な稲嶺氏圧勝

 普天間飛行場の辺野古移設を争点にたたかわれた名護市長選挙は、19日投開票され、現職の稲嶺進氏が圧勝した。日米両政府の基地押しつけとそれを容認した仲井真知事に、きっぱりとして審判を下した。Img_4570

 名護市民と県民の県内基地移設は許さないという、民意を示す歴史的な勝利である。

 選挙は、開票結果が出る前に共同通信、琉球新報など早々と当選確実を出した。これは、僅差ではなく、大差がついた証拠だ。午後9時40分には、NHKも含めてすべてのマスメディアが当確をうち、稲嶺氏も選挙事務所に現れて、何回も万歳を繰り返した。
稲嶺19839票、末松文信15684票で当選した。4000票以上の大差である。

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 その表情は、晴れ晴れとして確信にみちていた。稲嶺氏は実に、誠実さと信念の人だ。市長当選以来、すこしもゆらぐことがない。「辺野古の海にも陸にも基地を造らせない」と訴えつづけた。今回、政府の強圧とこれに屈した自民党県連、知事の哀れな態度とは好対照だ。

 稲嶺氏は、名護市は屈しない、この選挙は市民の誇りをかけたたたかい、民主主義を守るたたかいだと強調してきた。沖縄の新しいヒーローといってもよい。

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 政府・自民党は、「選挙結果にかかわらず基地移設を進める」と選挙結果を無視するような発言をしてきた。また「500億円の基金を設ける」など、露骨な利益誘導などもおこなっていた。これらの言動は、逆に市民の反発をかっただけだ。

 稲嶺氏が圧勝したことは、日米両政府には痛烈な打撃となるだろう。すでに、アメリカ側の困惑が伝えられている。

 これほど明確な選挙結果を無視して埋め立て工事をゴリ押しするようなことは、あってはならない。普天間飛行場の県内移設は不可能であることを胆に銘じるべきだ。

 名護市民の「移設NО」の審判は予想されながら、政府に追従して埋め立て容認した仲井真知事の責任も改めて問われる。秋の知事選挙では、改めて日米両政府にきっぱりと審判を下さなければならない。
 写真はNHK沖縄の画面から。

2014年1月18日 (土)

人生初、風邪のダブルヘッダー

 新年だというのに、風邪のダブルヘッダーというべき症状に陥っていた。ようやく16日になって、なんとか床上げできた。いやはや、こんなのは人生初だ。

 元旦に初日の出を見てから風邪を引いた。というのも、暮れの29日に、忘年会ライブで夜更かししたことが、もともとの引き金だったようだ。

 正月3日、初詣に出かけたときはまだ軽かった。でもその後本格的な風邪になった。それも、養生して、寝たので10日には回復した。だから、心配した新年初のアルテミュージックファクトリーにも出演した。

 それまではよかった。でも、翌日12日、なにかお腹の調子が悪く、せっかく美味しく食べた料理も、下痢してしまった。それにとどまらず、翌13日から、また風邪になったみたい。おかしいな、と思っていたが、よく14日は、わが民謡三線サークルの新年会なので、その準備に買い出しにも行った。

 だが、不幸にも14日は風邪がもっと悪化した。それで、新年会は欠席せざるをえない。まずは、もう一度、赤十字病院に駆け込んで、診てもらったら案の定「風邪ですね」の診断だった。買いだした物を届けて、その足で、また寝ることにした。

 しかし、やりたいことは山ほどあるが、ひたすら我慢我慢で寝ることに集中した。そのかいあって、16日には、だいぶん風邪は治った。本来なら、予定していたライブがあったが、まだライブに行くのは無理だ。

 なにしろ、風邪は薬を飲む以上に寝るのが一番。そして、ようやく17日、やっと床上げをすることができた。

 新しい年は、17日にしてやっとまともな生活に戻ることができた。長かった!

でももっと長くかかっている人もいるらしい。めでたし、めでたしとよろばなくてはならないだろう。もう2年分くらい風邪に悩まされたから、もう2年は引かなくてよい。

2014年1月15日 (水)

冬の空に虹

 1月も半分すぎてもう15日。沖縄も今年は寒い寒い!

 今朝も小雨が降っていた。ベランダに出てみると、西の空に鮮やかな虹がかかったいた。

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 大きな弧を描き、隣のマンションの上に伸びている。よくみると、左側にもう一本、うっすらと虹がかかっている。大和では、冬の虹は珍しい。沖縄では冬でもよくかかることがある。

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 しかし、私的には虹どころではない。元旦に風邪をひき、10日にやっと回復したと喜んだ。なのに、13日からまた風邪に襲われた。かぜをこじらせたというより、またあらたにかかった感じ。もう一度、赤十字病院に出かけた。「感冒薬を1週間出してほしい」と頼むと、先生曰く。「風邪は感冒薬を飲んだから治るというものではないんですよ。寝るのが一番いい。じゃあ5日分出しておきましょうね」。

 14日は、わが三線民謡同好会の新年会だったが、残念ながらお休みした。

健康でなければ、なにも楽しめない。風邪よさっさとわが身体から出て行ってくれ

2014年1月13日 (月)

アルテで「歌の道」を歌う

 2014年初のアルテミュージックファクトリーの今月のテーマは「新」だった。新春らしいテーマだ。といっても民謡には案外、テーマに合った曲が見当たらない。

 それに、元日の初日の出を見た後、風邪をひいてしまった。最初は軽い症状で甘く見ていたら、4,5日から急に悪化した。あわてて赤十字病院の救急外来に駆け込んだ。風邪で寝ていると、声が出なくなる。アルテに出るのは無理かなと思ったが、なんとか回復したので出ることにした。

Img_4521_2 毎月恒例の南亭こったいさんの落語は「ちりとてちん」。なかなか面白い。こったいさんは、役者を目指していただけあって、所作がとても上手い。食べ物を食べる所作など、堂に入っている。

Img_4526 久しぶりの出演は、比嘉正弘さん。井上陽水の「FuN」を歌った。三線もできるし、ギターをひきながらの歌も味わいがある。

 同じ歌三線仲間も玉那覇宗造さんは「勝連節」を歌った。

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 昔、野外で歌い踊り遊ぶ「毛遊び(モーアシビ)」が盛んだったころ、勝連は美人が多いことで有名だったので、北中城の和仁屋(ワニヤ)の若者たちは、ビーチの浅瀬を歩いて勝連まで通ったという。なぜビーチなのかというと、陸地を通ると、余所者が来るのを嫌って、途中で邪魔されるので、浅瀬を通ったそうだ。そんな情景が歌われる。とても面白い歌だ。 ぜひ毎月出て、歌三線を聞かせてほしい。

 私は前川朝昭作詞作曲の「歌の道」を歌ってみた。この曲は、歌を習い、歌っていくことの素晴らしさを歌っている。教訓歌でもある。

Img_4533_3 「歌てぃ語やびら 御万人ぬ胆に 謡の節々に 心込みてぃ」と歌いだす。「民謡を歌っていこう、たくさんに人々の心に 曲の節々に 心を込めて歌おう」というような歌意である。

 歌は、普段より一度下げて歌ったので、なんとか声が出た。でも三線がまるっきりだめ。バチが指から滑り落ちる。最悪の出来だった。

 今回着た長袖シャツは、古希を迎えてお祝いにツレがプレゼントしてくれた。

 

 ギターの名手、与那嶺新さんが今回も出演してくれた。Img_4539
 「最後のトレモロ」という曲を演奏。みんな聞き惚れる。3月23日にアルテ赤田ホールでコンサートを開くことが決まったとか。たくさん聞きに来てほしい。

 今回のファクトリーはエントリーが15組と少なかったが、飛び入りもあったので、にぎやかだった。
 ツレはピアノで「星に願いを」と「渚のアデリーヌ」を演奏した。Img_4550

練習時間がとても短かったので、本人も心配したが、途中一度止まったけれど、落ち着いて弾ききった。短い練習でも、これだけ弾けたと思った方がよいのでは。「渚」は3度目だったけれど、やっぱり弾くたびに余裕ができて演奏がよくなっているようだ。

 1月11日は主宰者の越智さん誕生日。ギターサークルのメンバーがバースデイケーキを準備して、サプライズでお祝いした。越智さんも嬉しそう。Img_4553 何歳になったのか「秘密」というが、なぜかみんな知っていた。65歳だとか。お元気で。

2014年1月11日 (土)

「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から

『壺屋焼が語る琉球外史』から 

 

沖縄における瓦の生産のはじまりと拡大について、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』にまとまった記述があるので、改めて紹介する。

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              首里王府よりの御拝領窯、壺屋の南窯(フェーヌカマ)

 瓦生産の開始と拡大

 瓦奉行と瓦窯の起源について、琉球王府によって編纂された尚敬1(1713)年の『琉球国由来記』に、琉球の瓦窯は唐人瓦工(帰化して渡嘉敷三良と称す)が来島(1579年以前、1450年説もある)し真玉橋村に開業した窯から始まったと記され、尚永王時代(1573~1588)の万暦年間(1573~1619)に小橋川親雲上を瓦奉行に任じたことが家譜にみえると述べている。また「汪氏照喜納屋(ママ、家)譜」に記された渡嘉敷の没年は万暦32(1604)年、「汪氏家譜」にみえる小橋川親雲上が瓦奉行職を授かったのは万暦7(1579、天正7)年であることからして、近世琉球では瓦生産が16世紀に開始され中葉にはその生産を管理する瓦奉行職が設置されていることが分かる。

しかしながら当時の瓦屋の普及はごく一部に限られ、王宮・社寺をさしおくとして一部富家・貴族の居宅に限られていた。この状況は1534年に尚清の冊封使として来琉した陳侃も、その著『使琉球録』の中に「富貴の家、僅かに瓦屋二、三軒あり」と記していることからもうかがえる。ちなみに瓦葺建物の普及は、17世紀末~18世紀初頭に瓦生産が飛躍的に拡大されるまで変わらなかった。

 やがて琉球における瓦生産は、尚貞王時代(1696~1709)になると単なる生産段階から多くの建物に積極的に利用された。つまり琉球王府は尚貞29(1697)年の『田舎方式』の令達によって、「番所や百姓の蔵はなるべく瓦葺きにせよ」という方針を打ち出したのである。

そして康熙9(1670)年の首里城正殿の瓦蓋再建を契機にして、尚貞13(1681)年には臨海寺並びに社宮、中山門(1681)、崇元寺並びに廟(1682)、尚貞17(1685)年には宮古島公蔵、尚貞19(1687)年には伊是名島玉陵、尚貞21(1689)年には西原間切内間東殿、尚貞26(1694)年には八重山御蔵並びに寺院、尚貞28(1696)年には八重山桃林社宮、尚貞29(1699とあるが1697)年には小禄間切仲瀬社宮、尚貞34(1702)年には久米島蔵元などの多くの公共建物が相次いで改瓦や瓦蓋に創建されたのであった(安里1991)。

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                 民家の赤瓦。庶民は昔、瓦葺きにできなかった

 

 瓦窯

 当時の窯は還元焔焼成であったので全ての瓦は「灰色瓦」であったが、その後現在と同じ酸化焔焼成に変わって「赤瓦」が登場する。赤瓦の出現年代は中国年号の「乾隆三年戊午六月十六日作」(1738)の刻銘瓦が、那覇市壺屋旧家の新垣栄三郎の屋根雄瓦で確認されていることから、おおよその時期が推定できる。またこの瓦は、知花窯、宝口窯、涌田窯の三窯が統合(1682)された56年後の壺屋の瓦窯で焼かれたものと考えられている(宮城1974)。

 この時期の瓦窯には、

 「涌田窯」は従来、壺屋統合(1682)前の琉球最大規模の陶器窯として知られている。が、近年の調査で「瓦磚類」が張一六らの来琉(1616)以前の万暦33(1605)年には生産されており、陶器窯としての盛業以前に瓦生産を行っていたことが判明した(池田2003b)

 「首里古地図」(1703~1707)に記載された「鳥堀瓦坊」、現在は「鳥堀古瓦窯跡」と呼称される瓦窯である。この瓦窯で焼かれた瓦は、首里城正殿をはじめとする首里の寺院に供給された。

 康熙33~雍正8(1694~1730)年の八重山の「名蔵神田原瓦窯」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、八重山御蔵や桃林寺に供給された。

 『琉球国由来記』(1713)に記載された「真玉橋瓦窯」がある。現在は「真玉橋瓦窯跡」(豊見城市字真玉橋)として呼称されている。詳細は不明である。

 尚温5(1799)年に涌田礎辺(ママ)原瓦屋に移動した「美栄地瓦屋」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、那覇の寺社などに供給された。(池田2003b)

注・文末の()内は引用文献。

ここで「瓦屋節」との関係で注目されるのは、涌田窯でも瓦が焼かれていたとの記述であること。このブログで「瓦屋節」で歌われた場所について、涌田窯は、瓦でなく陶器を焼いていたので、該当しないことから、国場の瓦屋原であると結論づけた。

しかし、涌田窯でも瓦生産がされていたという。けれどもこれは、朝鮮陶工の張献功

が琉球に来る前である。だから、「瓦屋節」で歌われた瓦焼き職人を張献功とする説は、やはり成り立たないことに変わりない。

もう一つ、気になるのは、『琉球国由来記』をもとに、瓦窯のあっ真玉橋窯を現在の豊見城市真玉橋としていることである。しかし、渡嘉敷三良が住んだのは国場村であり、真玉橋の東に窯を築いたというのが、ほぼ通説になっている。

『琉球国由来記』の「あやまりを校正し、欠落を補充し」たという『琉球国旧記』(訳注、1731年編纂)は次にように記している。

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          那覇市牧志にある「瓦屋節歌碑」

「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。

18世紀初頭に編纂された『球陽外史 遺老説傳』でも、同様に、国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いた、と記されている。
 
窯を築いたのが「真玉橋村」なら「豊見城間切」になり、「国場村」なら「真和志間切」となり、まったく異なる行政区となる。それに、豊見城の真玉橋では、女性が真南の故郷を眺めたという「瓦屋頂」と呼ばれる高い場所は見当たらない。

真玉橋にも瓦窯があったかもしれないが、少なくとも渡嘉敷三良によって瓦窯が築かれ、瓦が製造されたのは、今の豊見城市真玉橋ではなく、那覇市国場の瓦屋原と呼ばれた地域だろう。
 
瓦屋原と呼ばれるところは、国場でも古波蔵に近く、一番高い丘陵地である。目の前が真玉橋だ。この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。
 
私は、日頃歌うのは古い「瓦屋節」ではなく、民謡「瓦屋情話」であるが、この曲を歌う際は、国場から真玉橋、豊見城方面の情景が頭に浮かんでくるのである。

2014年1月10日 (金)

「瓦屋節」の歌碑、由来の地はどこか

   

「瓦屋節」の由来の地はどこか

 

 「瓦屋節」に歌われた悲恋物語の舞台はどこなのか。夫ある人妻を見染めて妻にしたのは誰なのか。すでに見たように、主に二つの説がある。
 一つは、国場で瓦を焼いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)。もう一つは、涌田村で陶器を焼いた張献功(チョウケンコウ)である。結論からいえば、悲歌の舞台は国場ではないか、と私は思う。

 

 その理由は簡単である。

 

 その1。「瓦屋節」と歌われる通り、窯があっても、陶器ではなく、瓦を焼いていたことが第一条件となる。涌田村では、張献功は瓦を焼いたのではない。

 

 瓦は、すでに16世紀に渡嘉敷三良によって製造が始まっていた。その数十年後に琉球に来た朝鮮陶工が伝えたのは、陶器であり、瓦ではない。歌の題名は「瓦屋」とされているし、故郷を眺めた場所も「瓦屋の頂」とされている。涌田村が舞台なら、もっと別の内容の琉歌となるはずである。

 

 その2。見染められた夫と子どものある女性は、豊見城の出身だと伝えられる。瓦屋の頂に登って真南の故郷を眺め、愛しい彼への思いを募らせたと歌われる。涌田村の窯があった場所は、現在の県庁所在地付近だという。調査によって平窯が発掘されている。でも、この辺りは平地である。豊見城の方面を眺めるような見晴らしのよい場所ではない。遠方を眺めるには、城岳方面にでも出かけなければならない。090_2



 それに比べて、国場は、瓦を焼く窯のあったという真玉橋の北東側は、高台になっている。国場川と漫湖が眼前に広がり、豊見城はその対岸にあたる。とても展望がよいので、瓦屋原と呼ばれた土地に立てば、この悲歌に歌われた情景が目に浮かぶ。

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                現在の真玉橋

 その3。国場には、いまも渡嘉敷家があり、子孫の方が住んでいる。「字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています」(墓の案内板)といわれる。国場には長い歴史が刻まれている。


 瓦屋原(カラヤーバル)と呼ばれる地があり、この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる

022国場にある渡嘉敷家

 これらから、「瓦屋節」の舞台は、国場だと結論付けたい。
ただ、三良も献功のどちらにも、異国から渡来してきただけに、似たようなエピソードがあった可能性が絶対にないとは言えない。

 

「瓦屋節」に歌われた夫、子供ある女性を見染めて、王府の命で妻にさせたということが、史実であるかどうかは定かではない。あくまで伝承の域を出ない。『琉球国旧記』『遺老説伝』など史料には、そこまでの詳細な記述はないからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年1月 6日 (月)

「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」

瓦奉行(カァラブジョオ)

 中国の瓦職人や朝鮮陶工が琉球に来て、王府には瓦・陶器を統括する役職が置かれた。各地に窯場がおかれ、瓦や陶器の生産が発展したそうだ。
 
 1682年には、かつて美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった製陶所を、現在「やちむん通り」で有名な那覇市壺屋の一カ所に移住させたと伝えられる。

 

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           壺屋の製陶所

『琉球国旧記』(訳注)には次のように記されている。

 

 「『汪氏家譜』によると、万暦年間(1573-1619)、尚永王の御時、汪氏小橋川親雲上(ペーチン)孝韶が瓦奉行に任ぜられ、瓦ならびに焼物などの項を総管した。中頃になって、焼物奉行(ヤチムンブジョオ)を分置した。現在は、また総管している《昔、壺屋(製陶所)は、美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった。康熙21年(1682)、壬戌、牧志村の一カ所(壺屋)に移住せしめた》。089
            掘り出された涌田の平窯

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これによると、当初は瓦奉行が瓦と焼物を含めて統括した。それを、焼物は別に焼物奉行を分置したというから、それだけ生産も増大したのだろう。

 

製陶所を壺屋にまとめたというが、まとめた製陶所の中には国場の瓦焼きは含まれていない。国場では瓦を焼いたということだろう。

 

王府に瓦奉行が置かれたということは、瓦の生産と使用は、王府が深く関わっていたことを意味する。

 

「琉球諸島において瓦が王権と強い結びつきを持っていた。そして様々な制度が定められ、王府主導による瓦の統制が行われた」
 
 「琉球王府が瓦に関する諸制度を整備し、生産と使用を統制していたことは明らかである…瓦を含めた窯業生産を王府が管理していたと推察される」「王府は生産だけでなく消費も統制していたことが知られる」
 
「琉球諸島では瓦の使用は権力者と関係の深い諸施設と宗教関係施設に限られており…瓦葺き建物は王権と関わる象徴的な性質を持ち続けてきたといえるのではないだろうか」(石井龍太著「瓦と琉球~王権、制度、思想、交渉~」)

 

首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、1670年瓦葺きになった。それにあたった安次嶺親雲上(ペーチン)は、渡嘉敷三良の4世だという。

 

首里城だけでなく、その後、社寺仏閣、貴族屋敷、士族屋敷、各間切番所(今の町村役場)に赤瓦が用いられた。庶民の瓦葺きは禁じられていたという。

 

王府時代は、「カラヤー」と呼ばれる専門家が瓦製造と瓦葺き作業を担っていたそうだ。カラヤーは重要な仕事だったということだろう。

 


                 

2014年1月 5日 (日)

「瓦屋節」の歌碑、朝鮮陶工が伝えた陶器製造

朝鮮陶工が伝えた陶器製造

 渡嘉敷三良の墓の近くに、もう一つ見逃せない墓がある。琉球での陶器製造の始まりと伝えられる朝鮮陶工・張献功(チョウケンコウ)の墓である。近くにあると教えてもらったが、探してもわからなかった。発掘調査をしている事務所に戻ってもう一度、墓の場所を尋ねた。渡嘉敷三良の墓を教えてくれた職員は、現場に出ていたが、戻ってきて教えてくれた。

三良の墓から数十メートルも離れていない。道路わきの木が茂ったところに、墓の入り口と小さな石碑が建っている。Photo


 ここには何も陶工のことを説明する表示はない。だが、少し離れたところに、この付近の史跡の案内板がある。それにはよると、陶器製造は、17世紀であり、瓦焼きの始まりよりも数十年ほど後のことになる。

朝鮮から陶工が連れてこられた経過と涌田村(現在の那覇市泉崎)で陶器づくりが始まったことを次のように記している。

 「琉球に帰化した朝鮮陶工張献功の墓。張献功は、もと一六(イチロク)といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から薩摩(現鹿児島県)へ連れてこられた陶工の一人。1616年琉球国側からの願いにより、一六・一官・三官の3人が琉球に渡り、国中に作陶技術を広めたという。その後一官・三官は薩摩に戻ったが、一六は懇請され琉球にとどまり、仲地麗伸(ナカチレイジン)と称し、涌田村(現那覇市泉崎)に家屋敷を下賜された。1638年7月12日死去(年齢不詳)」Img_4299

『琉球国旧記』(訳注)は、次のように記している。

「万暦44年(1616)丙辰、尚豊王が世子でおわした時、命を奉じて薩摩へ赴かれた。この時、世子は請うて、高麗人(の陶工)三名、一官・一六・三官をつれてお帰りになり、わが国の人に製陶法を教えさせた。数年たって、二人はともに鹿児島へ帰ったが、わが国の人は、まだ製陶を知らなかった。一六だけがわが国にとどまって、わが国の民に(製陶法を)伝授した。遂に◆髻(カタカシラ、文字がない)を結って、名を仲地(ナカジ)といい、今にその子孫は泉崎村に居住し、常に製陶業をいとなんでいる。造った甕器を人々は高麗焼とよんでいる」

 新屋敷幸繁氏は「沖縄の人がみな陶工を知るようになったのは、この張献功の功である、とたたえられている」と指摘している(『新講沖縄一千年史上』)。

沖縄の陶器の始まりに、朝鮮から来た陶工がいたことは聞いていたが、それが秀吉の朝鮮出兵が関係していたことは初めて知った。Img_4298

 豊臣秀吉による朝鮮への出兵・侵略のさい、各大名が多数の朝鮮人民を自分の領地に連れ帰った。その中に多くの陶工がいた。陶工を連れ帰った大名はなぜか九州の大名が多かった。朝鮮陶工たちは、その後の日本の陶磁器の発展に大きな貢献をした。
 
 薩摩に連行された陶工は、総計80名ほどにのぼる。薩摩では、藩の保護も薄く、土地の住民から襲われることもあった。「九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義久に連行された陶工たちであった」(中里紀元著「九州の朝鮮陶工たち」、「洋々閣ホームページ」から)といわれる。073
           壺屋にある南窯

 この中の3人が沖縄に連れてこられたわけである。

 お墓は、残念ながら石碑に刻まれた文字がほとんど判読できない。無理やり日本に連行され、沖縄にまで連れてこられた朝鮮陶工の功績を伝えるために、渡嘉敷三良と同じような説明板をぜひ設置してほしいと思った。

 「瓦屋節」に歌われた伝承について、朝鮮陶工の張献功が妻とした女性のことが歌われているという説がある。

 首里郊外を散歩していた張献功が美しい女性を見染め、ぜひとも妻にしたいと王府に願い出た。女性は人妻で子どもまでいたが、王府は陶器の製造技術を受け継ぐまで琉球にいてもらいたいので、彼女を夫や子どもと引き離して結婚させた。

 この説によれば、献功は涌田村で陶器を焼いていたので、瓦屋の頂に登って故郷を眺めたというのは、涌田村ということになる。そのように書いている人もいる。これについては、後から検討したい。

2014年1月 3日 (金)

万福寺に初詣

 元日に初日の出を見に行ったあと、風邪の症状があり寝ていた。寝るだけではつまらないので、わが家から最も近い那覇市仲井真の万福寺に初詣に行った。Img_4508_3

 今年の干支は午。臨済宗妙心寺派の万福寺は十二支の御守本尊がそろっている。参拝者は誰もいない。本堂の正面に12支の本尊がズラッと並んでいる。見事だ。Img_4503_2 私の干支は申。大日如来が未と申の守り本尊だ。Img_4498_2十二支だけど、御守本尊は8体である。二つの干支を兼ねたものがあるからだ。8体の仏像を見ると、みんな姿が異なる。座像や立像。座像でも、右足を出しているものや出していないもの。手も合掌したり、手のひらを開いたり、剣などをもつ像もある。

Img_4491 ツレの干支はねずみ。千手観音菩薩である。それぞれのご本尊を拝む。今年も健康で幸多い年となることを。

 今年の干支、午は勢至菩薩だ。知恵の光で照らして、人々が悩み、苦しむのを救うらしい。「知恵の光で」というのがなかなかいいではないだろうか。Img_4495_5
 こんなに十二支のご本尊をすべて並べているお寺は初めてだ。尋ねてみると「ええ、他にはないと思いますよ」とのこと。「高度成長でお布施も多かった時分につくられたようです」。なるほど、ここにも時代が反映していた。

 沖縄のお寺は大和のように、広大な敷地はとれない。でも駐車場はしっかり整備されている。本堂の横、階段を上ると、梵鐘があった。冬空とは思えない青空が広がっていた。

Img_4507
 

2014年1月 1日 (水)

2014年初日の出を拝む

2014年が明けた。珍しく初日の出を拝みに南部に向かった。ツレが早く目覚めて、起こしてくれた。沖縄では、正月は天気が悪いのが普通。今年は珍しく、晴れ模様だ。

 沖縄は日の出が遅い。朝は7時12分日の出予想。日の出の名所といえば、南城市の知念岬だ。6時半に家を出た。ところが、なんということでしょう。車が渋滞している。こんな早い時間に渋滞とは、考えられない。でも、みんな考えるのは同じらしい。日の出も見に行く人たちが多いということ。しかも、沖縄はみんなのんびりしているから、ぎりぎりの時間でないといかない。ということで、南城市の大里地域に入ると、もう信号ごとに渋滞している。

Img_4453 このまま渋滞について行っても、知念岬に着いたころには日は昇っているだろう。それで、急きょ、知念岬ではなく、百名方面に行くことに切り替えた。Img_4459
 百名は新原ビーチでも行けば日の出が拝めると思った。でもビーチまで行くまでもなく、百名の道路沿いに車が並び、人が海に向かって眺めている。「あっ、このあたりで日の出が見えるのじゃないか」と思って、道路沿いのみんなが車を止めている付近に車を駐車した。
Img_4465

 「日の出はあのあたりですか?」「そう。明るくなっているあたりから昇るはずよ」とおばさんが教えてくれた。

 今朝は、水平線には雲がある。「あそこ、もう日が昇ってきているよ」とお姉さんんがささやく。見ると、雲の立ち込める中にうっすら太陽らしき明かりが見える。それが一番上の写真である。以下は、同じ場所から撮った写真だ。Img_4468
 いよいよ、水平線に積もっていた雲を通り越して、雲の上まで太陽が昇ってくる。鮮やかな光がさしだした。

Img_4473
 瞬く間に雲は、その全容を現し始めた。太陽は沖縄では「てぃだ」である。その神々しい姿に、みんな手を合わせる。「今年いいことがありますように」「みんな元気で幸せに暮らせますように」と願いを込める。

Img_4479 太陽は毎日昇るが、新しい年の初日の出は特別だ。Img_4482
 
 日の出は、もう少し東の方角と勘違いした。もう真南の感じだ。海の彼方の楽園・ニライカナイから昇ってくるような感じもある。

Img_4487

 朝方は寒いだろうと、まるで北海道に行くような防寒衣である。でも、たいして寒くはなかった。そばにいた人に、デジカメで撮影してもらった。
 沖縄に来て初めて、初日の出を見た。きっと、今年はいいことがあるだろう。期待したい。

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