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2014年1月 6日 (月)

「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」

瓦奉行(カァラブジョオ)

 中国の瓦職人や朝鮮陶工が琉球に来て、王府には瓦・陶器を統括する役職が置かれた。各地に窯場がおかれ、瓦や陶器の生産が発展したそうだ。
 
 1682年には、かつて美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった製陶所を、現在「やちむん通り」で有名な那覇市壺屋の一カ所に移住させたと伝えられる。

 

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           壺屋の製陶所

『琉球国旧記』(訳注)には次のように記されている。

 

 「『汪氏家譜』によると、万暦年間(1573-1619)、尚永王の御時、汪氏小橋川親雲上(ペーチン)孝韶が瓦奉行に任ぜられ、瓦ならびに焼物などの項を総管した。中頃になって、焼物奉行(ヤチムンブジョオ)を分置した。現在は、また総管している《昔、壺屋(製陶所)は、美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった。康熙21年(1682)、壬戌、牧志村の一カ所(壺屋)に移住せしめた》。089
            掘り出された涌田の平窯

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これによると、当初は瓦奉行が瓦と焼物を含めて統括した。それを、焼物は別に焼物奉行を分置したというから、それだけ生産も増大したのだろう。

 

製陶所を壺屋にまとめたというが、まとめた製陶所の中には国場の瓦焼きは含まれていない。国場では瓦を焼いたということだろう。

 

王府に瓦奉行が置かれたということは、瓦の生産と使用は、王府が深く関わっていたことを意味する。

 

「琉球諸島において瓦が王権と強い結びつきを持っていた。そして様々な制度が定められ、王府主導による瓦の統制が行われた」
 
 「琉球王府が瓦に関する諸制度を整備し、生産と使用を統制していたことは明らかである…瓦を含めた窯業生産を王府が管理していたと推察される」「王府は生産だけでなく消費も統制していたことが知られる」
 
「琉球諸島では瓦の使用は権力者と関係の深い諸施設と宗教関係施設に限られており…瓦葺き建物は王権と関わる象徴的な性質を持ち続けてきたといえるのではないだろうか」(石井龍太著「瓦と琉球~王権、制度、思想、交渉~」)

 

首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、1670年瓦葺きになった。それにあたった安次嶺親雲上(ペーチン)は、渡嘉敷三良の4世だという。

 

首里城だけでなく、その後、社寺仏閣、貴族屋敷、士族屋敷、各間切番所(今の町村役場)に赤瓦が用いられた。庶民の瓦葺きは禁じられていたという。

 

王府時代は、「カラヤー」と呼ばれる専門家が瓦製造と瓦葺き作業を担っていたそうだ。カラヤーは重要な仕事だったということだろう。

 


                 

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