無料ブログはココログ

« 「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」 | トップページ | 「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から »

2014年1月10日 (金)

「瓦屋節」の歌碑、由来の地はどこか

   

「瓦屋節」の由来の地はどこか

 

 「瓦屋節」に歌われた悲恋物語の舞台はどこなのか。夫ある人妻を見染めて妻にしたのは誰なのか。すでに見たように、主に二つの説がある。
 一つは、国場で瓦を焼いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)。もう一つは、涌田村で陶器を焼いた張献功(チョウケンコウ)である。結論からいえば、悲歌の舞台は国場ではないか、と私は思う。

 

 その理由は簡単である。

 

 その1。「瓦屋節」と歌われる通り、窯があっても、陶器ではなく、瓦を焼いていたことが第一条件となる。涌田村では、張献功は瓦を焼いたのではない。

 

 瓦は、すでに16世紀に渡嘉敷三良によって製造が始まっていた。その数十年後に琉球に来た朝鮮陶工が伝えたのは、陶器であり、瓦ではない。歌の題名は「瓦屋」とされているし、故郷を眺めた場所も「瓦屋の頂」とされている。涌田村が舞台なら、もっと別の内容の琉歌となるはずである。

 

 その2。見染められた夫と子どものある女性は、豊見城の出身だと伝えられる。瓦屋の頂に登って真南の故郷を眺め、愛しい彼への思いを募らせたと歌われる。涌田村の窯があった場所は、現在の県庁所在地付近だという。調査によって平窯が発掘されている。でも、この辺りは平地である。豊見城の方面を眺めるような見晴らしのよい場所ではない。遠方を眺めるには、城岳方面にでも出かけなければならない。090_2



 それに比べて、国場は、瓦を焼く窯のあったという真玉橋の北東側は、高台になっている。国場川と漫湖が眼前に広がり、豊見城はその対岸にあたる。とても展望がよいので、瓦屋原と呼ばれた土地に立てば、この悲歌に歌われた情景が目に浮かぶ。

037

                現在の真玉橋

 その3。国場には、いまも渡嘉敷家があり、子孫の方が住んでいる。「字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています」(墓の案内板)といわれる。国場には長い歴史が刻まれている。


 瓦屋原(カラヤーバル)と呼ばれる地があり、この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる

022国場にある渡嘉敷家

 これらから、「瓦屋節」の舞台は、国場だと結論付けたい。
ただ、三良も献功のどちらにも、異国から渡来してきただけに、似たようなエピソードがあった可能性が絶対にないとは言えない。

 

「瓦屋節」に歌われた夫、子供ある女性を見染めて、王府の命で妻にさせたということが、史実であるかどうかは定かではない。あくまで伝承の域を出ない。『琉球国旧記』『遺老説伝』など史料には、そこまでの詳細な記述はないからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

« 「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」 | トップページ | 「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から »

民俗・文化」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「瓦屋節」の歌碑、由来の地はどこか:

« 「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」 | トップページ | 「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29