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2014年1月11日 (土)

「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から

『壺屋焼が語る琉球外史』から 

 

沖縄における瓦の生産のはじまりと拡大について、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』にまとまった記述があるので、改めて紹介する。

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              首里王府よりの御拝領窯、壺屋の南窯(フェーヌカマ)

 瓦生産の開始と拡大

 瓦奉行と瓦窯の起源について、琉球王府によって編纂された尚敬1(1713)年の『琉球国由来記』に、琉球の瓦窯は唐人瓦工(帰化して渡嘉敷三良と称す)が来島(1579年以前、1450年説もある)し真玉橋村に開業した窯から始まったと記され、尚永王時代(1573~1588)の万暦年間(1573~1619)に小橋川親雲上を瓦奉行に任じたことが家譜にみえると述べている。また「汪氏照喜納屋(ママ、家)譜」に記された渡嘉敷の没年は万暦32(1604)年、「汪氏家譜」にみえる小橋川親雲上が瓦奉行職を授かったのは万暦7(1579、天正7)年であることからして、近世琉球では瓦生産が16世紀に開始され中葉にはその生産を管理する瓦奉行職が設置されていることが分かる。

しかしながら当時の瓦屋の普及はごく一部に限られ、王宮・社寺をさしおくとして一部富家・貴族の居宅に限られていた。この状況は1534年に尚清の冊封使として来琉した陳侃も、その著『使琉球録』の中に「富貴の家、僅かに瓦屋二、三軒あり」と記していることからもうかがえる。ちなみに瓦葺建物の普及は、17世紀末~18世紀初頭に瓦生産が飛躍的に拡大されるまで変わらなかった。

 やがて琉球における瓦生産は、尚貞王時代(1696~1709)になると単なる生産段階から多くの建物に積極的に利用された。つまり琉球王府は尚貞29(1697)年の『田舎方式』の令達によって、「番所や百姓の蔵はなるべく瓦葺きにせよ」という方針を打ち出したのである。

そして康熙9(1670)年の首里城正殿の瓦蓋再建を契機にして、尚貞13(1681)年には臨海寺並びに社宮、中山門(1681)、崇元寺並びに廟(1682)、尚貞17(1685)年には宮古島公蔵、尚貞19(1687)年には伊是名島玉陵、尚貞21(1689)年には西原間切内間東殿、尚貞26(1694)年には八重山御蔵並びに寺院、尚貞28(1696)年には八重山桃林社宮、尚貞29(1699とあるが1697)年には小禄間切仲瀬社宮、尚貞34(1702)年には久米島蔵元などの多くの公共建物が相次いで改瓦や瓦蓋に創建されたのであった(安里1991)。

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                 民家の赤瓦。庶民は昔、瓦葺きにできなかった

 

 瓦窯

 当時の窯は還元焔焼成であったので全ての瓦は「灰色瓦」であったが、その後現在と同じ酸化焔焼成に変わって「赤瓦」が登場する。赤瓦の出現年代は中国年号の「乾隆三年戊午六月十六日作」(1738)の刻銘瓦が、那覇市壺屋旧家の新垣栄三郎の屋根雄瓦で確認されていることから、おおよその時期が推定できる。またこの瓦は、知花窯、宝口窯、涌田窯の三窯が統合(1682)された56年後の壺屋の瓦窯で焼かれたものと考えられている(宮城1974)。

 この時期の瓦窯には、

 「涌田窯」は従来、壺屋統合(1682)前の琉球最大規模の陶器窯として知られている。が、近年の調査で「瓦磚類」が張一六らの来琉(1616)以前の万暦33(1605)年には生産されており、陶器窯としての盛業以前に瓦生産を行っていたことが判明した(池田2003b)

 「首里古地図」(1703~1707)に記載された「鳥堀瓦坊」、現在は「鳥堀古瓦窯跡」と呼称される瓦窯である。この瓦窯で焼かれた瓦は、首里城正殿をはじめとする首里の寺院に供給された。

 康熙33~雍正8(1694~1730)年の八重山の「名蔵神田原瓦窯」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、八重山御蔵や桃林寺に供給された。

 『琉球国由来記』(1713)に記載された「真玉橋瓦窯」がある。現在は「真玉橋瓦窯跡」(豊見城市字真玉橋)として呼称されている。詳細は不明である。

 尚温5(1799)年に涌田礎辺(ママ)原瓦屋に移動した「美栄地瓦屋」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、那覇の寺社などに供給された。(池田2003b)

注・文末の()内は引用文献。

ここで「瓦屋節」との関係で注目されるのは、涌田窯でも瓦が焼かれていたとの記述であること。このブログで「瓦屋節」で歌われた場所について、涌田窯は、瓦でなく陶器を焼いていたので、該当しないことから、国場の瓦屋原であると結論づけた。

しかし、涌田窯でも瓦生産がされていたという。けれどもこれは、朝鮮陶工の張献功

が琉球に来る前である。だから、「瓦屋節」で歌われた瓦焼き職人を張献功とする説は、やはり成り立たないことに変わりない。

もう一つ、気になるのは、『琉球国由来記』をもとに、瓦窯のあっ真玉橋窯を現在の豊見城市真玉橋としていることである。しかし、渡嘉敷三良が住んだのは国場村であり、真玉橋の東に窯を築いたというのが、ほぼ通説になっている。

『琉球国由来記』の「あやまりを校正し、欠落を補充し」たという『琉球国旧記』(訳注、1731年編纂)は次にように記している。

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          那覇市牧志にある「瓦屋節歌碑」

「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。

18世紀初頭に編纂された『球陽外史 遺老説傳』でも、同様に、国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いた、と記されている。
 
窯を築いたのが「真玉橋村」なら「豊見城間切」になり、「国場村」なら「真和志間切」となり、まったく異なる行政区となる。それに、豊見城の真玉橋では、女性が真南の故郷を眺めたという「瓦屋頂」と呼ばれる高い場所は見当たらない。

真玉橋にも瓦窯があったかもしれないが、少なくとも渡嘉敷三良によって瓦窯が築かれ、瓦が製造されたのは、今の豊見城市真玉橋ではなく、那覇市国場の瓦屋原と呼ばれた地域だろう。
 
瓦屋原と呼ばれるところは、国場でも古波蔵に近く、一番高い丘陵地である。目の前が真玉橋だ。この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。
 
私は、日頃歌うのは古い「瓦屋節」ではなく、民謡「瓦屋情話」であるが、この曲を歌う際は、国場から真玉橋、豊見城方面の情景が頭に浮かんでくるのである。

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