ブログ引っ越し
「ココログ」の「レキオ島唄アッチャー」は、容量が限界に来たので、引っ越しました。
新しいブログは「FC2」に開設しました。ブログ名は変わらず「レキオ島唄アッチャー」です。よろしくお願いします。
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「ココログ」の「レキオ島唄アッチャー」は、容量が限界に来たので、引っ越しました。
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高知の名物お菓子に芋けんぴがある。サツマイモを揚げて砂糖をからめたものだ。親類から送られてきた。高知に住んでいるときは、ごく普通のお菓子だった。沖縄に住んでいると、めったに食べない。なにか懐かしい気がする。
製造元を見ると、芋屋金次郎。前はなかった今風の名称だ。中に入っていた、チラシを見ると、日高村にあり昭和27年に先代、澁谷金次郎が「澁谷食品」を創業したとある。旧社名なら知っているし、芋けんぴで有名だった。日高村の店舗にも寄ったことがある。
なぜ高知で芋けんぴを作りだしたのか。
サツマイモが薩摩から土佐に伝わったのは江戸時代1735年。薩摩のかつお船が土佐清水に入港した時に、芋を持ってきていたという話が伝わっているという。
甘藷はもともと1604年、琉球の野國総管が中国から持ち帰った。それがのちに薩摩に伝わり、全国に広がった。
土佐でも盛んに作られるようになった。昔から、土佐人は日常食であるサツマイモを貴重な油で揚げることで、ハレの食として用いてきたという。
「芋屋金次郎」の創業者、澁谷金次郎は、戦後まもなく、揚げ菓子を作り、自転車の荷台に載せて売り歩くようになった。やがて試行錯誤を繰り返しながら、芋けんぴづくりに取り組んだという。
沖縄は、かつてはサツマイモが庶民の主食だった。いまでも夏でも冬でも焼き芋をよく食べる。JA直売所では、たくさんの種類の芋が売られていて、みんなよく食べる。
沖縄は揚げ物が大好きだから、芋の天ぷらはある。でも、芋けんぴのように、芋を揚げたお菓子はない。ただ、紅芋を使った「紅いもタルト」など、人気のお菓子になっている。
芋けんぴを食するときは、こんなルーツに思い出しながら味わいたい。
アルテ崎山の通称「ロケットビル」の11階、半ば屋上的な場所で「てっぱんの会」があった。オーナーの越智さんから、是非にというお誘いで出かけた。ここは、夜景のきれいな天空の階。そこにバーベキューのできる鉄板があり、隔月で焼肉パーティーが開かれている。
1年ぶりくらいの参加だ。ミュージシャンで料理人を自称するothis・yoshiさんが、張り切っていると聞いていた。ヨッシーさんは、大阪出身。もともとパナソニックの社員で、アメリカにも駐在し、本場の音楽を吸収して、腕を磨いてきた経歴の持ち主。
この日は、鉄板の上で、市販のお好み焼きを使いながら、いろんな食材をトッピングして独自の味付けをする。食べてみると、なんかお好み焼きの小麦粉の味はもはやない。「これはもう、お好み焼きを超えてますね」と言うと、「そういっていただければ嬉しいね」と料理人は喜んでいた。
この後は、牛カルビや骨付きカルビ、焼売など、焼けた肉、野菜を美味しくいただいた。越智さんが名護でもらったという島ラッキョウの塩漬けもたくさんいただいた。
この日は、なぜか参加が少なく、越智さんは誘いの電話をかけまくる。近くの真由美さんがかけつけてくれて、総勢5人。少ないことで、余計に和気あいあいの雰囲気になった。
食べたあとは、ヨッシーさんがギターを手にブルースを披露。料理以上に素晴らしい腕前だ。こんな、ほれぼれするブルースはめったに聴けない。
日頃は、沖縄市でライブ活動をしている。アルテにもたびたび顔を出す。沖縄がすっかり気に入っているそうだ。
私も歌三線で「八重山」、ツレとデュエットで「二見情話」を歌った。越智さんのギターを伴奏に女性たちも歌った。
近代に二つの集落が合併
今泊のことを何回かアップしたが、二つの集落が合併した経過について、書いた部分をアップしていなかった。改めてアップする。
今帰仁と親泊の二つの集落が、海辺近くに移転してきたのは、17世紀のころと見られているが、合併して今泊となったのは、近代になってからだ。
『今泊誌』には合併の経過が紹介されている。
今泊は「イェードゥメー」と呼ばれ、明治36年(1903)までは今帰仁村と親泊村は別々に存在し、同年に合併し今泊となった村である。しかし、3年後の明治39年に分離し、昭和47年(1972)にふたたび合併し現在に至る。
明治36年に合併しながら、すぐに分離したのはなぜだろうか。今帰仁ムラは面積が広く人口が少ない。一方の親泊は、面積は小さいが人口は多い。
そのために、税金や夫(ブー)作業などの負担が一方にかぶさってくるため不平等が生じてくる。それが原因のようだ。
今帰仁城の城下村のようだといっても、首里城のあった首里の地域とは異なる。首里は、士族が住む城下町だった。でも、今泊は士族が少なかったからだ。
1903年『区間切島本籍人員族及棄児』によれば、人口に占める士族割合は、今帰仁間切全体が23・1%だったのに対し、今泊はわずか5・7%に過ぎない。今泊は人口が多いけれど、平民が大半を占める集落だった。税金の負担は重かっただろう。
読売巨人軍の沖縄キャンプが15日始まった。お天気が良いし、那覇セルラースタジアムはわが家に近いので、散歩がてらに見に行ってみた。
巨人のキャンプには、本土からもジャイアンツファンが詰めかける。それに土曜日とあって、観客が多い。グランドでは、フリーバッティングが行われていた
高橋由伸や村田修一がティーバッティングをしていた。村田は今年はキャプテンを務める。
この2人がフリーバッティングを始めると、それまでのバッターに比べて、好打が続く。村田は、ほとんどの打球が外野に飛び、打球が早い。さすがだ。張り切っている様子だ。
ただ、人気となると、村田、高橋より坂本勇人が一番だ。 子どもたちが大勢、カメラを持って群がる。
ピッチャーの投球練習を見たいと思い、屋内練習場に行くと、観客席は満員で、空き待ちの人たちが長い行列を作っている。今回はあきらめた。
宮国椋丞選手の等身大の看板があった。昨年は、開幕投手を務めたが、シーズン中はいまいちの出来だった。今年は飛躍を期待している。
沖縄は、おでんをけっこうよく食べる。なにしろ、寒さ、暑さ関係なく年中食べるところだ。それに、テビチ(豚足)が入るのが沖縄流だ。先日、テレビでも紹介された那覇市久茂地の有名なおでんと家庭料理の店「おふくろ」に、アルテの音楽好きの仲間と行った。
驚くのは、おでん、刺身、サラダ類食べ放題、飲み放題で2000円という安さであること。ただし、ビールは3杯、酎ハイ5杯、泡盛は無制限だ。
アルテの仲間で1月に一度出かけたが、その時は都合悪くて参加できなかった。2月に是非もう一度、ということで八重山民謡唱者の杉田園が予約を取ってくれた。なにしろ、大人気店なので予約なしに行っても、席がない。7時に行くともう予約席以外は、満杯状態だった。
食べたい物をおでんの種類が印刷された用紙に、記入して何回でも注文できる。まず登場したのが、山盛りのチマグ(足先)と大根。テビチもすぐに追加された。豚足全体を足テビチと呼ぶそうだ。どちらもコラーゲンたっぷり。柔らかい。味付けは若干違った。
トマトもおでんにあるとはこれまたビックリ。昆布、牛スジ、ジャガイモ、豆腐、コンニャクなどなど次々運ばれる。
企画してくれた園さんもさっそく写メに撮る。
おでんの注文は自由だが、食べ残すと罰金があるというルール。ひたすら食べつくす。
ギターサークルのYさんも、おでんの山を前に幸せそうな表情だ。 メンバーは、もうお腹いっぱい。ビール、泡盛も十分飲んだようで、みなさん上機嫌。楽しい集まりでした。
沖縄県人も犠牲になった台湾2・28事件
台湾で2万人以上の死者を出したといわれる1947年の「2・28事件」。そのなかに沖縄県出身者約30人が事件に巻き込まれて犠牲になったと見られている。事件のことは、早くから知っていたが、沖縄県民がこんなに犠牲になっていたとは、沖縄に来るまでは知らなかった。「琉球新報」の関連記事とその他の資料を含めて、少し紹介しておきたい。
2014年1月29日に、県内犠牲者の遺族や支援者が「台湾2・28事件、真実を求める沖縄の会」を立ち上げた。
台湾では、1947年2月27日夕、台北の繁華街で闇タバコを売っていた女性が、違法行為を理由に軍当局摘発隊に金品を奪われ、殴打された。住民が抗議すると、銃を発砲し1人が殺された。怒った住民は、翌朝専売局公社に集まり抗議行動を起こすと、軍隊が出動して4人が殺害された。怒る群衆は放送局を占拠し、台湾人の総決起を呼びかけた。全土で国民党政府や外省人(戦後大陸から台湾に渡ってきた人々)に対する抵抗運動が広がった。
3月8日基隆港に3000人余の軍隊が上陸し、台湾全土で武力鎮圧に乗り出した。市民への無差別な発砲や手に針金を刺し込んで縛って束にしてトラックに乗せ海に投げ込むなど、国民党政府と軍は大規模で残虐な殺害・処刑を行った。
戦前、台湾には日本統治下で、沖縄から多数の県民が渡っていた。47年当時、多くの沖縄人がまだ引き揚げないでとどまっていた。八重山と台湾間を行き来する人たちもいたので、事件に巻き込まれた。台湾の犠牲者も沖縄の犠牲者もその実数は明らかではない。現在までに沖縄で4人の犠牲者名が判明している。
代表世話人の青山恵昭氏が「琉球新報」1月28日付「論壇」に「今、沖縄から真実を問う」と題して、事件について詳述している。
青山さんの父・恵先さんは日本敗戦後に鹿児島から台湾に母子を迎えに行き、事件に巻き込まれて行方不明になった。外の3人は、戦後に闇船で八重山から台湾に財産を取りに戻り、消息を絶ったという。
「台湾政府から県出身者の遺族に対しまだ謝罪の言葉はない。事件の真相を究明し、補償問題を解決することが犠牲者への弔いになる」と青山さんは述べている。
台湾政府高官が2012年に沖縄を訪れ、遺族2人に聞き取り調査を行っているが、県出身者への被害認定と補償は現在まで実施されていないそうだ。
台湾でも、当局は歴史の真相を闇の中に閉ざし続け、事件の存在そのものを認めてこなかった。しかし、心ある台湾人たちは一貫して正義の主張を繰り返し、国際的にも人権問題として問われてきた。
事件の際に発令された戒厳令は、1987年にようやく解除された。95年、李登輝総統が謝罪し、補償も進められているという。しかし、事件の真相はいまだに明らかにされていない。
「真実を求める沖縄の会」では、事件の真相の究明と沖縄出身の犠牲者の認定や賠償を求めている。
毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの今月のテーマは「時」である。エントリーが14組と少ない上に、毎回トップの南亭こったいの落語が、腰痛のためにお休みとなった。
なんと、今回のトップは私だった。選んだ曲目は「肝(チム)がなさ節」。題名は「心が可愛いでしょう」という意味である。
民謡界のヒットメーカー、普久原恒男さんの作曲で、饒辺愛子さんが歌いヒットした。人気曲である。
ファクトリーのあった2月8日は、7日から二日間、私の通う福祉センターは年1回のお祭り。6日の準備から含めて3日間、祭り要員として協力していたので、ほとんど練習ができなかった。
でも、始めてみると、三線はテンポよく弾け、手拍子もいただき、気持ちよく歌えた。 この曲は、1番では、彼の可愛がりは初めは肌の可愛がりだったけれど、時を年を重ねるたびに心の可愛がりになると歌い出す。時間を経るごとに愛情の深まりを歌っている。
4番の歌詞では、世間は急流のように時の流れは速い、夢の間であっても互いに心で可愛がってこその世の中である、と歌う。「時」のテーマにあっているだろう。
私の次は、なんとツレたちだった。ツレはいつも最後だったが、今回は1部にエントリーしたら、夫婦で1,2番ということになった。
新田さんのギター、奥田さんのリコーダー、ツレのボーカルでSMAPの「夜空ノムコウ」を歌った。互いに忙しくてリハーサルは当日を含めて2回しかできなかった。
ギター伴奏だけの歌と違って、リコーダーが入ってとてもいい味わいを出した。ツレの声もよく出ていて、とてもリハ不足とは思えない演奏だった。
今回は、飛び入りが多く、初めて参加の人も数人いた。嬉しいことだ。
有銘親子・友だち4人は、三線と太鼓・三板で宮古民謡など披露した。楽しい演奏だった。
ストリートミュージシャンでいま沖縄滞在中という若者「ショウタロウ」(?)さんは、中島みゆきの「糸」と自作の曲を演奏した。路上の投げ銭を頼りに各地を回っているという。 ブラジルからの留学生も、杉田園さんに連れられて参加した。空手家でいま滋賀大学で日本武道を研究しているとか。ギターも上手いので驚く。
さすがブラジル人だ。文武両道である。
お馴染みのメンバーの演奏も楽しませてくれた。otis yoshiさんは、沖縄市で活動するミュージシャンだ。サム・クックの曲を歌った。 彼はプロなのに、アルテでど素人の演奏にも、すごくよく聞き、ほめる。プロ的な人は、素人は相手にしない人がよくいる。そこが違う。
ギターの越智さん、小嶺さんのラテン曲の演奏には、ギターサークルのメンバーその他が打楽器で加わり、最高の盛り上がりだった。常連の人の姿が見えなかったのは寂しい。4月には100回の記念を迎える。盛り上げていきたいものだ。
蔡温も見た親泊競馬
『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」からの続きである。
琉球王朝、尚敬王の三司官として敏腕をふるった蔡温(サイオン)は若い頃、馬で山原の一人旅をしているが、たまたま親泊で馬パラシーのすばらしさに深い感懐を数行の詩に託している。
1710年の秋で、280年の昔、蔡温29才の若かりし時である。
戯馬台 即興(親泊にて)
「戯馬台前会萬人 西風吹起馬蹄塵 群英従此決勝負 恍似楚王破大秦」
大意は次の通り。「親泊馬ういは黒山のような人があつまっている。ミーニシが吹いて、馬がかけ去ったあとは塵がもうもうとたちこめている。馬スーブ(勝負)に命運をかけた名騎手共が今か今かとまなじりを決した斗志満々の馬上の姿こそ、強国秦を破った楚の豪勇項羽の姿をほうふつさせるものではないか」
「馬パラシー」というのは、全速力で飛ぶようにかける競馬の「うまかけ」の「かきばい」とは全く趣を異にするもので、コトコト走る「ゐしばい」で馬の「パイ美(デュ)らさ」を見るものである
しかし、最後のウンヂミを飾る「ぶり馬」は出場すべての馬が一斉に駆け出して壮観で、方々から口笛も聞こえ、もうもうと立ちこめる砂ぼこりは人馬をかくした。
馬はほとんど与那嶺から「あがり方」で、地元のシマの馬を見ることの出来なかったのは物足りない思いがした。「草かやー」の「ンジャックヮ」をもてるようなウェーキヤー(裕福な家)でないと飛行機馬小(マーグヮー)のような名馬を飼えなかった故であろうか。
蔡温時代からいわゆる黒山のような人は、①馬を見る人、②騎手の見事な手綱さばきに「シッタイヒャー(よくやった)」とヤグイ(気合)をかける人、③晴着をきて見られにくるアングヮーター(お姉さんたち)、④うの目たかの目で馬を見ないで女ばかり見てまわるニーセーター(若者たち)、⑤人垣の後ろでガチマヤー(食いしん坊)だけしてまわるワシタワラバーター(子どもたち)と、「遊びに美らさや、人数(ニンズ)のしなわい(遊びが楽しいのは人数が揃ってこそ)」
であった。
70年ぶりに復活したンマハラセー(琉球競馬)。RBCテレビから
クワディーサーの下にはにわか市場が立ち並び、でかい角のはえた二銭のトグチテンプラ(天ぷら)、タンナハクルー(黒糖を使った菓子)、三銭の揚げ豆腐、ビービンサー、鉄砲、と平素見られぬもので子供の好奇心をそそった。
今帰仁村仲尾次の古老、渡名喜長栄さんは、梅崎晴光著『消えた琉球競馬』で、インタビューに応じて、今帰仁の競馬の思い出を次のように語っている。
「アブシバレーの旧暦4月15日がナーブル・ンマウィー(仲原馬場)、16日がウェルメー・ンマウィー(親泊馬場)。同じ馬が馬場を替えて二日連続で走っていました。この二日間はアブシバレーで農家が休みだから村中から馬場に集まったものです。村の者が一堂に会したのは競馬の時だけでした」
「二頭による一騎打ちの競争でね。一人の審判があらかじめ同じような実力の馬同士を組み合わせておくのです。30~40頭出場したので15~20組の競争でした。宮古馬はとてもおとなしくて力がありましたが、どの馬も布や花を耳の下に飾り付けて、それは綺麗だったですよ」。
これらを読むと、ンマハラセー(競馬)がいかに人々にとっての楽しみだったのか、そのにぎわう情景が目に浮かぶようだ。
昔の面影残す仲原馬場跡
今泊の集落から東に車で走ると、仲原馬場がある。県内各地にあった馬場がもうほとんどその姿をとどめていないなか、こちらの仲原馬場は広い馬場と松並木がそびえて、昔の面影を残していることで、史跡になっている。
沖縄には昔から各地に馬場があり、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などに利用されてきました。しかし、ほかの馬場は去る沖縄戦で破壊されたり、あるいは耕地や宅地になったりして元の形を失っており、昔から有名な仲原馬場だけが往時の面影を残しています。
仲原馬場は幅約30㍍、長さ約250㍍の長方形になっています。その両側は約1㍍の高さに土を盛り上げ前面に石を積み、上部は芝生で被われた観覧席になっています。
観覧席の枝振りの美しいリュウキュウマツ(琉球松)は、陽光をさえぎって快い憩いの場をつくり、また戦前まではアブシバレーのウマハラセー(競馬)の際に馬の係留にも利用されたりしました。
訪れたとき、なぜか馬場跡はたくさんの車の駐車場と化していた。たぶん、近くで建設工事が盛んにおこなわれていたので、関係者が車を止めているのではないか。それでも、空高く伸びた琉球松の並木や、両側の石積み観覧席など、他では見ることができない。ンマハラセー盛んだった往時をしのばせる。
今帰仁では、この仲原馬場と今泊の馬場はとても有名だったらしい。当時のウマハラセーは、どのように行われていたのだろうか。その模様を表現する文章がある。『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」である。
アブシバレーとは、旧暦4月の中旬ごろに行われる。畦の雑草を刈り取り、農作物につく害虫(バッタやネズミ)を捕えてきて、海や川に流し、豊作祈願をする行事のこと。
新城氏の文章から紹介したい。
アブシバレーはアブシの草をはらって鼠やバッタを駆除し、それらを「イヒャドゥ」に流す行事をし、おひるから村中一斉休業!仕事は絶対にまかりならぬ、きびしい「物忌み」が守られていた。…
今泊馬うい(馬場)の「馬揃り」は仲原馬ういのようなはなやかさはなかったが、今帰仁、本部をひっくるめた一大イベントであった。
朱塗りの鞍に赤や黄の布で飾りたてた馬、馬乗袴に身をかため、白ハチマキをきりっとしめた騎手の姿はまことにりりしくあこがれの的で子供心をゆさぶった。中でも上謝名の豪傑ブッセーカナヤッチーの勇姿などは一きわ目だつ存在で、今尚脳裏にやきついている。床の間に拝まれる三国志をいろどる関羽将軍に生きうつしであったと思う。
つづく。
御嶽がないのはなぜか
今泊集落で不思議なのは、神ハサギなどはあるが、沖縄の集落にはたいてい存在する御嶽(ウタキ)が見当たらないことだ。ハサギは拝殿にあたるが、神が来訪する聖域は御嶽だ。だから御嶽があって、ハサギがあるのが通常の姿だろう。今泊にはなぜ御嶽がないのだろうか。
旧今帰仁ムラの「ハサギングヮー」
著名な民俗学者の仲松弥秀氏は次のような見解をのべている。
「(今帰仁城は)中城グスクと同様、グスク内には御嶽があって今帰仁村と親泊村が祭祀し、又、志慶真村の御嶽も(グスク内に)存在する。御嶽の所在からすれば、当然このグスク近傍に三ケ村落があったということになる。
ところが、今帰仁、親泊の両村落は、グスクから下った海岸べりにあって、双方併合して今泊となり、志慶真村は諸喜田村一つになって諸志となっている。しかし、三ケ村落とも現在地には御嶽がない。御嶽が現在地には無く、グスク内に在るとするならば、いよいよこの三ケ村落は今帰仁グスク近傍にあったはずだと考えない訳にはいかない。
この考えが間違っていないことは、ノロ(神女)火神の所在で一層証拠づけている。
グスク正門の前面台地面は畑地となっているが、森地になっている処もある。その森中に今帰仁ノロ火神、地頭代火神、トモノカネ火神、それに阿応理屋恵(アオリヤエ)火神がある。これらの火神が在るということは、そこに村落があったという証になる。
今帰仁城跡内にある火の神
ところで、阿応理屋恵というのは、その地方一帯のノロの上位にあって、王府と特別につながっている貴神女であり、トモノカネノロは今帰仁ノロの次位の神女をなし、親泊村の出自である。
これらの材料、即ち、御嶽、神女(ノロ)火神の所在が揃っている以上、グスク前面に今帰仁村、その横隣りのトモノカネノロ火神祠のある付近に親泊村が在ったことが確実となる」
仲松氏によれば、今帰仁と親泊の御嶽は、グスク内にあるとのこと。旧集落もグスク近傍にあったことを示している。そういう意味でも、今帰仁城跡内にある拝所とその下方にある拝所は、いまでも今泊の住民にとって大切な信仰の場所であることがよくわかる。
今泊の神ハサギ
今帰仁城跡は、由緒ある歴史的な場所であると同時に、「今泊の人々にとって信仰の対象の地」でもある。なにしろ城跡には、「カナヒャブの御イベ」「今帰仁里主所火の神」はじめいくつもの拝所がある。グスクの前面にもさまざまな拝所がある。
戦前は、県外や国外に旅行するときは、住民は出る前に「旅立御願(ウガン)」をし、帰郷したら「解き御願」をした。毎年、城跡の清掃も欠かさず、参詣道路も整備した。
今帰仁城跡は、カンヒザクラの名所となっているが、これも今泊の住民が、城内や沿道に植樹したものである。
「フプハサギ」
今泊の集落の中には、いくつかの拝所がある。見たのは二つのハサギである。神ハサギとは、祭祀をとりおこなう拝殿のような建物である。通常「アサギ」と呼ばれることが多い。山原地方にはとても多い。
今泊は、旧今帰仁ムラの「ハサギングヮー」と旧親泊ムラの「フプハサギ」がある。集落は合併をして一つになったけれど、神ハサギは合併せずに二つとも存在している。
公民館前にあるのが、親泊ムラの「フプハサギ」。「大きいハサギ」を意味する。もともとは、親泊集落の住民が祭祀を行っていた。
屋根は低く、4本柱で支えている。元々は茅葺の屋根だった。いま柱はコンクリート、セメント瓦葺きである。地域によっては、いまでも茅葺き屋根のアサギもある。
「ハサギの歴史は古く琉球の時代にさかのぼります。『琉球国由来記』(1713年)にはハサギのことが記載されています。明治36年以前に創設されたムラでは、ハサギを設け、神人を置いて、祭祀をおこなわなければならないように制度化されていたようです」(「今帰仁城を学ぶ会」公式サイトの「ハンタ道を歩く」から)
もう一つの「ハサギングヮー」のある場所がよくわからない。犬の散歩をしていたおじいさんに尋ねた「それは、この向こう、すぐだよ。こちらにくれば見えるよ。そう。その道の向こう側だから」と親切に教えてくれた。
馬場跡の大道から左に少し入ったら、左手に公園があり、すぐわかった。旧今帰仁ムラの「ハサギングヮー」は、「小さいハサギ」を意味する。旧今帰仁ムラの神ハサギだから、もっと離れた場所にあるのかと、思い込んでいた。でも、海沿いに移転して合併したのだから、近くにあっても不思議はない。
「ハサギングヮー」も、「フプハサギ」とほぼ同じ格好の建物だ。
旧今帰仁、旧親泊の神ハサギとも、祭祀は今帰仁ノロ(ヌルドゥルチ)の管轄だとのこと。 今泊も猫が多い。フプハサギをわが庭のように闊歩していた。
RBCラジオのリスナーが集う新年会が那覇市久茂地のレストランで開かれた。沖縄はラジオを楽しむ人が多い。ローカルな話題はラジオに限る。リスナー参加の番組が多く、リスナー同士の交流も広がる。
新年会も、リスナーの提案で実現した。「団塊花盛り」の火曜日「GSコーナー・あの時君は若かった」&日曜日「ホリデー・イン・ポップス」の二つの番組合同である。両番組とも、パーソナリティを箕田和男さんが担当しているからだ。
箕田さんが、参加者をラジオネームで一人ひとり紹介。久しぶりに見る顔ぶれや名前は聞いていても初めて顔を見るリスナーもいる。
私たちのテーブルは、糸満ライブで集うお仲間たちだ。
飲み放題、食べ放題なので、生ビールをグビグビと飲み、ピザ、パスタなど料理をいただく。1時間ほど食べた後は、沖縄唯一のGSバンド、SSカンパニーのライブ。10曲ほど続けて演奏した。
いつもと違うのは、ドラムセットは持ち込めないので、ドラムの代わりに箱型の打楽器「カホン」を叩くこと。箱に腰掛けるのはペルー式だという。ライブが盛り上がると、もう踊り出す。
箕田さんもマイクを握り、得意のGSナンバーを歌った。
ライブの後は、DJ高橋によるディスコタイム。高橋さんは、いまRBCで「団塊花盛り」のパーソナリティなどやっているが、福岡にいた当時は、ディスコでDJをやったことがある腕前。
ディスコサウンドにのってみんな踊る。踊る。リスナーは音楽好きというだけでなく、踊りも大好きなのである。
ラジオを通してつながりの輪が広がるというのも、沖縄ならではかもしれない。リスナーの近況もわかる。なので、私が正月から風邪をひいて寝ていたことも、リスナーとライブ仲間に知られていて、この日も「風邪はもう大丈夫ですか」「元気になってよかったですね」と声をかけられた。
2年前、東京から移住してきた金武町のSさんも、ラジオとライブを通して友達が増え、「東京では考えられなかった。沖縄に来てホントによかったわ」とこの日も楽しんでいた。
楽しいリスナーの集いは、毎年開いてほしいというのが、参加者の声だった。
今帰仁城の城下村だった
今泊の成り立ちについて、見ておきたい。
今泊は、もともとは今帰仁と親泊の二つの集落だった。二つの集落は合併して両方の名前から一字とって今泊と名付けられたそうだ。両集落とも、昔はグスク直下にあったけれど、海沿いの現在の土地に移転したと聞く。
今帰仁城跡は、なぜか北の東シナ海に向かって築城されている。城跡から眺めると、緩やかな斜面を下った先の海辺に今泊の集落はある。移転される前は、山腹の傾斜地にあったという。それはなぜだろうか。
民俗学者の仲松弥秀さんによると、沖縄の古い村はたいてい傾斜地に立地していたらしい。
古い村は、山や丘の斜面に立地した。傾斜地に立地している理由は、排水のことを考慮してのことらしい。沖縄の土壌は、多くが粘土層である。傾斜地以外は湿土の状態をなし、飲料水として使用できる水が皆無といってよい。海岸べりの砂浜は、排水は良好であるが、飲料水には欠けている、村落立地には不適当な場所であったと思われる。
「このような種々の条件からして、沖縄の古代の村は低地にでは無く傾斜地、平坦地形とみられる場所でも僅かの傾斜地を利用して村落が形成されたということができよう」(仲松弥秀著『古層の村 沖縄民俗文化論』)。
かつてグスクの直下にあった集落は、今帰仁城とは深いかかわりがあった。
今帰仁城は、琉球が3つの小国に分かれていた「三山時代」、北部(山原)一帯を治めていた北山王の居城として13世紀末ころに築城されたようだ。琉球を統一した中山の尚巴志によって、15世紀初頭に滅ぼされた。それ以降、首里王府は今帰仁城に監守を派遣した。
今帰仁城は、北山王の居城だっただけでなく、琉球統一後も、北部全体を統括する「北山監守」が居住していた。だから、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻した際、今帰仁城が焼き打ちされた歴史がある。監守制度は1665年まで続いた。だから、今帰仁城は数百年にわたり、長く北部の山原全体の政治的、文化的な拠点となっていた。
グスク直下にあった集落が、海岸近くに移動してからは、城内に居住していた北山監守(今帰仁按司)も城外に移り住んだ。監守一族が首里に引き揚げると、「今帰仁城は、政治的・軍事的機能を持った施設から、祭祀の場もしくは信仰の中核へと変貌していった」(高橋誠一著「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」)。
今泊は現在、今帰仁村の西端に位置する一集落だけれど、本来、「北山」と呼ばれた山原地方全体を支配する今帰仁城の膝元の城下村だった。そんな由緒ある集落である。
「1609年の薩摩藩による琉球侵攻以後、今泊集落は作られました。薩摩軍によって焼き打ちに合った今帰仁城下の今帰仁ムラと親泊ムラが、海沿いのこの場所へ移転してできた集落です。この時期は琉球史と日本史の交差する時期でもあり、歴史を示す集落だと思います」。「今帰仁城を学ぶ会」公式サイトの「ハンタ道を歩く」は、このように紹介している。
今帰仁と親泊のもともとの集落がグスク直下にあったとすると、不思議なのは親泊の名称である。親泊(エードゥマイ)という名前の「泊」は、港のことだから、親泊とは「大きな港」という意味になる。傾斜地にあった集落に、なぜ港を意味する名称がついたのだろうか。疑問が残る。
興味深いのは、現在の今泊の付近には、トーシンダ(唐船田)という地名やトーシングムイ(唐舟小堀)と呼ばれるところがあることだ。古くは海で船が出入りするような地であったと推測される。
グスク直下にあった集落から「すでに存在していた海岸部の親泊の地に移動してきた家屋群が、親泊の名称に包摂されていったと考える方が、常識的であろうと思われる」と、高橋誠一氏は「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」で指摘している。
おきなわ花と食のフェスティバル2014が那覇市の奥武山公園で開かれたので出かけた。いつもは、まだ寒いが今年は汗ばむ陽気だ。JAの直売所は野菜を販売。どれも安くて新鮮。とりあえず最初に買うと持ち運びが大変なので、帰りにセロリ、ニンジン、はんだまを買った。
今年は鮮魚のコーナーが充実。高級魚のミーバイ(ヤイトハタ)を豪快に網で焼いて売っている。鮮魚のブースでは、各店が試食で味自慢のコンテストをやっていて、「どうぞ食べていてください。アンケートで投票よろしく!」と選挙のような掛け声が飛んでいた。 十数種類食べたが、一押しは「ミーバイのしゃぶしゃぶ」。
とっても「まーさん」(美味しい)だ。当然アンケートでは1位に押した。
恒例の黒糖づくりの実演もやっていた。子どもの参加して、キビを絞る機械に懸命にサトウキビを入れている。
今年の目玉は、実は「まーさん市場」。肉類の販売ブースである。
ヤギ肉も試食した。今年は、ここで買った肉をすぐ隣のテントで、七輪を無料で貸してくれ、バーベキューができること。
おきなわ和牛のもも肉、バラ肉(カルビ)各200g買ったら、おまけに豚ロース100gを無料でくれた。
ジュージューと七輪での炭火焼。ただ、なぜか火力が弱い。なかなか焼けない。係りの人に言うと「じゃあ七輪を替えましょう」と取り替えてくれた。火力が強くなると、肉の油が滴り、焔があがる。七輪ならではの味わいだ。
ただ、野菜がないので、ひたすら肉ばかり食べる。脂っぽい。「野菜を持ち込めばよかったな」。そんな思いがした。だがお腹は満腹だった。
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