今帰仁の今泊を歩く、近代に2集落が合併
近代に二つの集落が合併
今泊のことを何回かアップしたが、二つの集落が合併した経過について、書いた部分をアップしていなかった。改めてアップする。
今帰仁と親泊の二つの集落が、海辺近くに移転してきたのは、17世紀のころと見られているが、合併して今泊となったのは、近代になってからだ。
『今泊誌』には合併の経過が紹介されている。
今泊は「イェードゥメー」と呼ばれ、明治36年(1903)までは今帰仁村と親泊村は別々に存在し、同年に合併し今泊となった村である。しかし、3年後の明治39年に分離し、昭和47年(1972)にふたたび合併し現在に至る。
明治36年に合併しながら、すぐに分離したのはなぜだろうか。今帰仁ムラは面積が広く人口が少ない。一方の親泊は、面積は小さいが人口は多い。
そのために、税金や夫(ブー)作業などの負担が一方にかぶさってくるため不平等が生じてくる。それが原因のようだ。
今帰仁城の城下村のようだといっても、首里城のあった首里の地域とは異なる。首里は、士族が住む城下町だった。でも、今泊は士族が少なかったからだ。
1903年『区間切島本籍人員族及棄児』によれば、人口に占める士族割合は、今帰仁間切全体が23・1%だったのに対し、今泊はわずか5・7%に過ぎない。今泊は人口が多いけれど、平民が大半を占める集落だった。税金の負担は重かっただろう。
« 巨人の沖縄キャンプ始まる | トップページ | 天空の鉄板焼きパーティー »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 歌碑のある風景、戦場の哀れ歌う「二見情話」(2018.05.01)
- 蔡温も見た親泊競馬(2014.02.09)
- 昔の面影残す仲原馬場跡(2014.02.07)
- 今帰仁の今泊を歩く、御嶽がない(2014.02.06)
- 今帰仁の今泊を歩く、神ハサギ(2014.02.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント