北山王国をめぐる興亡、その4
羽地按司が奪い取る
丘春が今帰仁城を奪還して34年後の1374年、「仲北山」では丘春が隠居して、今帰仁城主を息子の仲宗根若按司に譲ったとたんに、従兄弟の羽地按司が名乗り出て、「我が父は英祖王次男湧川王子の長男湧川按司であり、本来、今帰仁城主は自分が継ぐべきである」と主張し、戦乱の末に今帰仁城を奪い取った。「後北山」時代となる。
羽地按司は、察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた。北山王怕尼芝(ハニジ)と称し、1383年、明国の冊封(サッポウ)を受けた。当時、察度王の承諾がなければ明国に進貢できなかったと考えられる。
湧川按司は湧川王子の長男だが、本部大主が北山城を攻略した時、親泊村から湧川村に逃げてきたのである。次男の今帰仁按司・丘春が北山城を奪還したので、今帰仁城主になれず湧川村の屋号新里を継がされていたので、家出して羽地に親川グスクを築き田畑を開拓して勢力を広げた。開拓した田畑は羽地ターブクァ(田園)と呼ばれた。
(これまで義本王系と英祖王系の争いだったが、今度は同じ英祖王の系統の中での支配者争いである。羽地按司というと羽地出身の者のように思いがちだ。でも、これによると、湧川王子の長男・湧川按司の息子であり、本来、今帰仁城主は次男の今帰仁按司の息子である丘春が継いだのがおかしい。自分が継ぐべきだったと主張して争った。戦乱の上、城を奪取したという。この丘春の子孫たちが、この後また北山攻めに向かうことになる。
冊封とは、中国皇帝に朝貢して皇帝から国王として認証を受けることをいう)
『今帰仁村史』は、怕尼芝(ハニジ)について次のようにのべている。
伯尼芝は、羽地按司として川上部落の親城から親川の羽地城に移り、羽地間切を統治し、地の利にめぐまれて豊富な産物を得たので、勘手納港を貿易地として海外との貿易もさかんにしていたであろう。そして莫大な富による大勢力があって、そのいきおいをもって中北山を追い出したであろうことが考えられる。
今帰仁城跡の火ヌ神
『村史』は、怕尼芝が北山王となったのは1322年とする。「彼が追い出した中北山の今帰仁世の主とは、いとこ同志の間柄であった。怕尼芝は分家から出て、その本家を乗取ったのである。これは一族内における一種のお家騒動ともいうべく、また、親族同志の権力争いでもあった」。
後北山は、1322年から1416年に尚巴志に亡ぼされるまで94年間とする。王代は三代と四代の二説があるが、初代の怕尼芝王の在位年数が69年とあまりにも長すぎるので、初代と二代珉王との間にさらに一代あったのではないか。初代怕尼芝が亡くなった跡目を継いだ羽地按司が、同じく怕尼芝を名乗ったと推測している。
『琉球王国の真実』は、羽地按司が今帰仁城を奪ったのはもっと後の時代とする。「察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた」とする。また、後北山時代を三代ではなく四代としている。『村史』と同じである。
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コメント
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ハニジの二代説は正当ですが、二代目の名前は藩(バン)と言いまして子孫は現代まで続いています。私は次男の真松千代の子孫ですが、ミン事ビン(保栄茂)はハニジの子として諸説扱かわれていますが、大里アジの子で南山から来ています。参考に成れば良いと思ってメールしました。
投稿: 永隈優二 | 2018年8月26日 (日) 23時53分
永隈さん、コメントありがとうございました。
帕尼芝の二代説はやはり正当なんですね。
私がこのブログで紹介している伊敷賢著『琉球王国の真実』に載せられている系図、相関図でも、帕尼芝の長男「藩王」が2代目後北山王とされています。その子孫が現代まで続いておられることが、二代説のなによりの例証ですね。
また、伊敷著作でも、3代目の「珉王」は、帕尼芝の子ではなく、大里按司の子として扱われていました。
どうも貴重なご指摘ありがとうございました。
投稿: レキオアキアキ | 2018年8月27日 (月) 09時40分