北山王国をめぐる興亡、その6
攀安知による強権政治
「後北山」では、1390年頃、怕尼芝(ハニジ)王が死んだので、世子伊江王子播(ハン)が王位に就いた。怕尼芝は羽地の当て字で兼次の北部なまり語で、播とは金の北部なまり語である。
それから数年して伊江播王は高齢になったので、1396年に東大里按司を迎え、王位を譲り伊江島に隠居した。東大里按司は南山の保栄茂(ビン)城生まれだったので珉(ビン)王と称していたが、まもなく病気のため急死した。そのとき、伊江播王の妾・伊江播加奈志(花のモーシー)の王子攀安知(ハンアンジ)が珉王の王子を退け、王位を奪った。攀安知は武勇に優れ、前王の家臣の意見も聞かず独断専行の政策を敷いた。攀安知は「ハンアンチ」と読んでいるが、本来は「播王の王子」のことなので、「播按司」(ハンアンジ)と書いた方が良いと思う。
『今帰仁村史』は、「珉は二代目の怕尼芝の長男であったと思われる」とのべ、あくまで、怕尼芝の血統であるという立場をとっている。
『古琉球三山由来記集』は、珉王の治世を次にのようにのべている。
「父怕尼芝王の薨去されたのちは、父君の志を受け継いで善政を施し、道徳を行ない、治績をあげたと推測されます。怕尼芝王から、この珉王時代は、国内は太平無事でした」
『琉球王国の真実』に戻る。
珉王の長男の千代松若按司(13歳)と一族は島尻に逃れ、具志頭間切新城村に落ち着いた。叔父の佐敷按司に救いを求めたとの言い伝えも残っている。
今帰仁城の攀安知王は双子の兄で、弟の湧川大主ともども武勇に優れ、領内の各按司を武力で制圧し強権政治を行っていた。南山とも政略結婚で姻戚を結び中山を挟み撃ちにする計画であったといわれ、南山王の長男の豊見城按司(後の他魯毎王)の嫁として湧川大主(新里屋)の妹を輿入れさせていた。他魯毎(タルミー)は北山の婿になったので、渾名(アダナ)で今帰仁按司とも呼ばれた。逆に北山王は、南山他魯毎王の姉を妃として今帰仁城に迎えていた。
攀安知の恐怖政治に恐れを抱いた北山各按司は、次第に攀安知と距離を置くようになった。「仲北山」系の国頭按司・名護按司・羽地按司は中山の尚巴志に使者を送り、攀安知を成敗するように嘆願した。
(後北山でも、後継者をめぐり内紛があった。珉王が急死すると、王子を退けて、攀安知が王位を奪ったという。珉王が、伊江播王の子どもではなく、南山生まれの東大里按司であるとすれば、伊江播王の妾の子とはいえ、長男にあたる王子であり、武勇に優れた攀安知にとって、珉王の王子が王位を継ぐことは我慢ならないことだったのだろう。しかし、その強権をふりかざした恐怖政治が、身を亡ぼすことにつながっていく)
今帰仁城跡
『今帰仁村史』は、攀安知について次のようにのべている。
彼は、資性はなはだ剛毅にして、武勇は絶倫であった。常に中山国を討って天下をにぎろうとの野望をいだいていたが、武力をたのんで善政をしかなかったため、一族の名護、羽地、国頭など、近隣の諸按司からきらわれ、読谷山按司護佐丸もまた、北山をつけねらっていた。
護佐丸について、『今帰仁村史』は次のように書いている。
読谷山按司は読谷山城(山田城)にあって、機会あらば、中北山の仇敵である後北山の怕尼芝を討たんものと、その準備をすすめていた。
ところが、後北山はますます強大になるばかりで、どうすることもできなかった。そうしているうち、読谷山按司には後つぎがなかったので、兄弟の伊波按司の二男を迎え入れて跡(ママ)つぎにし、二代目の読谷山按司とした。この二代目の子に生まれたのが護佐丸兄弟である。
護佐丸も父祖伝来のかたきである後北山をねらって、その時節到来を待った…そのころ、佐敷城の尚思紹、尚巴志父子が中山王武寧を討って、いきおい甚ださかんで、また人望が厚かった。これを知った中北山系の人たちは、首里城に尚思紹父子をたずね、事の次第をのべて、その助勢を願った。
(後北山の怕尼芝から明国に朝貢を始めた。怕尼芝王は7回、珉王は1回、攀安知王は11回、明に使者を派遣した=『グスク文化を考える』の名嘉正八郎著「今帰仁城跡の考察」から)
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