北山王国をめぐる興亡、その3
本部大主が城を乗っ取る
1322年、本部大主が策をめぐらし、侍大将の湧川按司を国頭の山賊の成敗に行かせて、その留守中に城を乗っ取ったのである。幼い千代松金は乳母に抱かれて、父の従兄弟の北谷大主(チャタンウフヌシ)のいる北谷城下の砂辺村に身を隠した後、名前を丘春(ウカハル)に変えて殿内屋(トゥンチャー)で育てられた。
(湧川王子の息子)仲今帰仁按司の弟も、今帰仁城主の子孫なので、今帰仁子(ナチジンシー)と呼ばれ、兄が本部大主に滅ぼされた時、真和志(マージ)間切に逃げた。
今帰仁子には3名の男子がいて、長男・今帰仁子は真和志間切識名(シチナ)村に住み、屋号今帰仁の祖になり、次男は同じ識名村の屋号花城(ハナグスク)の祖になり、3男安座名子(アザナシー)は東風平(コチンダ)間切に今帰仁村(後に外間村に変わる)を創設し、屋号安座名(神里姓)の祖になった。
仲今帰仁城主の弟である喜舎場主(キシャバシュー)は、本部大主に攻め滅ぼされた時、古宇利(コーリ)島経由で久志間切平良(テーラ)村に逃げた。数年して勝連間切比嘉(ヒジャ)村(浜比嘉島か)に渡り、島の娘と男子を生み、その子孫が比嘉村の屋号平良や屋号新屋(ミーヤ)である。
数年して喜舎場主は比嘉村を離れ、中城間切和名(ワナ)村に渡り、さらに喜舎場村に移り住んで落ち着いたという。
仲今帰仁城主の末子の志慶真樽金(シキマタルガニ)は久志経由で高離島に逃げ、島の北東の岬に泊城を築いた。泊城は隠れ城とも呼ばれ、川端イッパーと名を変え、北隣の伊計城のアタエ城主と反目していた。北風が強い日にアタエ城主は伊計城から上空に灰を撒き散らしたので、泊城の兵隊は目が開けられない状態になって川端イッパーは敗れた。平安座島に逃げ、その子は先川端按司と称し、孫は川端按司と称した。
(英祖王系の湧川王子が亡くなると、家来になっていた義本王系の本部大主が、今帰仁城を奪い返したということである)
今帰仁城跡
本部大主の乗っ取りと滅亡について、『古琉球三山由来記集』は次のような伝承も紹介している。
本部大主が「謀反を企て夜中に1600人の兵をひきいて今帰仁城を攻めて火を放したり。そのとき今帰仁城主は、焼死されたり。妻子は畑中より逃げ出て近道を分け出て、北谷間切砂辺村の殿内屋という家内の下女となる。子は氏名を隠して丘春と称し、砂辺村の殿内屋の下男となり、馬の草刈をなしいたり。荏苒(ジンゼン、なすことなく歳月が過ぎる意味)の中に大宜味間切に旧臣の集り居るを聞きつけて、夜中に大宜味間切に行き、集る軍兵2300人をひきいて羽地間切寒汀那(カンテナ)の浜に進み至り、そこにおいて本部大主と大いに戦ってついて本部大主を殺し、旧城を取り返して城内に入り、城主となるを得たり。その後、北山は大いに治まる」
四散していった本部大主の一族
18年後の1340年に、本部大主(ムトゥブウフヌシ)が亡くなり、今帰仁城主の後継者争いに乗じて、大宜味(オオギミ)城で湧川按司をはじめ旧臣たちが今帰仁城奪還の旗揚げをしたので、丘春は旧臣たちとともに今帰仁城を奪い返した。
(いったん城を奪い返した義本王系の本部大主も、亡くなると再び、英祖王系の丘春ら旧臣たちが、また城を奪い取った。そのため、義本王系の一族は、本島の南部をはじめ各地に逃げ延びていった)
本部大主の一族は四散していった。
本部大主の長男は先代・健堅(ケンケン)大主で、敗戦後は国頭間切(マギリ)安田(アダ)村に逃げ隠れた。次男に運天(ウンテン)大主がいる。三男の東名(アガリナ)大主は、姉の息子二人を連れて、平安座島を経由して大里間切の上与那原(イーヨナバル)村に移り住んだ。
東名大主と謝名大主(ジャナウフヌシ)の息子兄弟は、平安座島を経て上与那原村に来た。東名大主の子孫は、与那原に住み、屋号新里の祖となった。姉の息子2人のうち打ち1人は謝名大親と称し東大里按司(アジ)に仕え、屋号謝名(照屋姓)の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋(ティーラ)の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主(フルゲンウフシュ)は、大里間切(マギリ)古堅村照屋門中(ムンチュウ)の祖となった。
与那原役場の前の広場に東名大主を祀った拝所があり、その東側下方に謝名門中元屋(ムートゥヤ)がある。周辺は小高い丘になっていて、与那原発祥の地で、明治時代まで上与那原村と称していた。東名大主の妻は初代の与那原ヌル(神女)になった。謝名門中は福地姓・新垣姓もあり、平安座島の屋号謝名や今帰仁城を7年おきに参拝しているという。
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