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2018年4月14日 (土)

北山王国をめぐる興亡、その8

 護佐丸と伊覇按司系統の発展

 伊覇(イハ)按司初代の長男は伊覇按司二代目を継ぎ、次男の山田按司は、読谷山村に山田城を築いた。山田按司の次男・護佐丸(ゴサマル)は父の跡を継いで読谷山按司になった。座喜味城を築いた後に中城に移り、中城按司になった。護佐丸は1416年の北山攻めの時は26歳の青年将校だった。1429年の南山進攻には41歳になっていて中山軍の大将として全軍を指揮した。
 1439年に尚巴志の死去により、護佐丸は第一尚氏王統の一番の功労者として娘婿の尚泰久王にも遠慮しない目付け役的存在になったのである。また護佐丸は、北山滅亡時に北山太子を山田城で匿い、南山滅亡後には南山王の甥の国吉之比屋を家来にしたりする勝手な行動に、異を唱える重臣も多かったことが推察される。

 1453年頃、阿麻和利(アマワリ)が10代目勝連按司になると、中城按司・護佐丸と互いに牽制し合う状況になった。  1454年、婿の越来按司が尚巴志王統6代目として王位に就き尚泰久となってからは、もはや護佐丸の天下のごとくであった。  阿麻和利は「護佐丸は中城を増強し、城内の鍛冶屋で武器を増産して、首里城を攻める準備をしている」と、尚泰久王に讒言した。
 1458年、尚泰久王は阿麻和利に護佐丸討伐の許可を与え、王府軍は中城を攻めた。月見の宴の最中に攻め上がってき来たので、不意を衝かれた護佐丸は、多勢に無勢で、むなしく自刃したという。  長男と次男の消息は不明である。護佐丸は自害する時、三男の盛親(幼名は亀寿)はまだ赤子なので殺すに忍ばれず、国吉之比屋に頼んで乳母と共に東の崖から帯を命綱にして逃した。真栄里村の乳母の実家で匿ってもらって育てていたという。
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                     護佐丸父祖の墓
 後に、尚巴志王統を倒して即位した尚円王は「護佐丸の遺児が健在なら名乗り出るように」という御触れを出したので、国吉之比屋が13歳の盛親を伴なって首里城に出頭した。盛親は叔父の安里大親のもとで養育を受け、成人して豊見城間切総地頭となり豊見城親方と称した。盛親は毛氏始祖となり、豊見城毛氏は首里王府で出世を重ね子孫も繁盛して、その数は5万人ともいわれる。 伊覇按司初代の次男・山田按司の長男、伊寿留(イズルン)按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだあとに百姓になり、伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号・伊寿留安里の祖になった。
 三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み、金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親(アサトゥウフウヤ)と名乗った人物である。
              Img_1478                護佐丸の墓  
 護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万とも5万ともいわれている。  伊覇按司二代目は、尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地に城主として配置した。安慶名(アギナ)大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司六代目・玉城按司・高嶺按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。
 伊覇按司の四男、安慶名大川按司の三男(系図では四男)、喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。

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