北山王国をめぐる興亡、その7
北山を攻めた尚巴志
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1416年に尚巴志は北山を攻めるため進軍し、読谷山では読谷山按司をはじめ浦添按司・越来按司・伊覇按司などのおよそ二千の軍勢が合流した。一方、運天の寒手那(カディナ)港には、国頭按司や名護按司・羽地按司等の軍船と700余の兵士が集結していた。
国頭按司と名護按司・羽地按司が先鋒を務め、総大将の尚巴志は北の平郎門から、副大将の読谷山按司護佐丸は南の志慶真門から攻め込んだ。
今帰仁城の守りは堅固で、3日間の戦闘で中山連合軍の戦死者は500人を越えた。尚巴志は作戦を変え、今帰仁城の侍大将の本部平良(モトブテーラー、太原とも書く)に賄賂を贈り、北山の不利を説き中山軍に寝返らせることに成功した。志慶真門から密かに護佐丸軍が忍び込み、建物に火をつけたので場内は大混乱になり、北山兵は敗走した。
「後北山」攀安知(ハンアジ)には、5名の王子がいたと伝えられる。
15歳ほどの長男北山太子(仲宗根王子)は戦死したといわれているが、実は護佐丸の手配により北山太子と乳母の2人を密かに船で渡名喜島(トナキジマ)へ逃した。1年待たずに護佐丸の使いが迎えに来て、島尻方面で妻を娶って暮らしたと伝えられる。八重瀬町富盛には北山太子の長男の後裔がいるという。
攀安知王の次男の志慶真王子は、姉と王の弟・湧川大主に守られて南山領内に逃れた。王子の母は、南山王他留毎の姉で、和睦のために北山王攀安知に嫁いでいた。
今帰仁城跡
1429年に(尚巴志に攻められ)南山が滅んだ。20歳前後になっていた志慶真王子と湧川子(湧川大主の長男)は、南山軍に加わり中山軍と戦ったが与座山中で戦死した。
志慶真王子の子孫は百次(ムンナン)門中(百次姓)で、湧川大主の子孫は名嘉・湧川門中(湧川姓)として、糸満市潮平を中心に子孫が広がっている。
攀安知王の幼い三男外間子(フカマシ)と四男喜屋武久子(チャンクシ)の2人は母とともに捕虜となり、佐敷間切津波古で百姓として生涯を終えた。
五男虎寿金(トウラジュガニ)は、落城後に生まれたので、母親とともに南風原間切兼城村の内嶺按司の捕虜となった。後に、尚円王の引き立てで兼城按司の養子となった。
攀安知の頭役平敷大主(ヘシキウフヌシ)は勝連半島に逃げて、現在のうるま市平敷屋集落を創った。
1416年、「後北山」の攀安知王を亡ぼした中山王尚巴志は、護佐丸を今帰仁城に6年間駐留させ、北山監守として戦後の北山を監視させた。護佐丸は「今北山」初代として北部沖縄の統治を任され、遠く奄美大島までその管理下に置いた。
『今帰仁村史』は次のとおり記している。
彼(護佐丸)が北山城に駐とんしてからは、後北山系の与論島や沖永良部島をはじめ、遠く鬼(喜)界島や大島なども服従させた。そして、これらの島々から住民を徴用して座喜味城構築の人夫として使役させた。こういうことも北山城にあって、北山地方を監守したからできたのである。
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尚巴志は北山地方を治めるのに、「仲北山系」の人材を登用した。まず自らは伊覇按司の娘を娶り、生まれた子は成長して越来王子(後の尚泰久王)や伊覇按司三代目(養子)になった。
1421年、尚思紹王が亡くなったのに伴い、尚巴志が中山王となり、次男具志頭王子尚忠が二代目北山監守になった。同時に、護佐丸は読谷山に戻り、座喜味城を築き読谷山按司と称した。尚巴志が亡くなると、北山監守の尚忠が王に即位し、弟の具志頭按司が三代目北山監守となった。
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