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文化・芸術

2013年7月 1日 (月)

ボクネン美術館で版画を鑑賞する

 沖縄で著名な版画家、名嘉睦稔(ナカボクネン)さんの作品を展示する「ボクネン美術館」を訪ねた。北谷町美浜のアメリカンビレッジにある。

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 美術館が入っている建物は「うねる赤瓦屋根」と呼ばれる「AKARA」。これもボクネン設計の建築だ。「アカラー」とは、「赤いもの」の意味がある。直線のない、すべて曲線。赤瓦
が美しくうねっている。とてもユニークな建築物だ。2010年に開館した。Img_2697
 2階には、わざわざうねる赤瓦屋根を見る展望台がある。先だって、この建築が「琉球新報」の特集で紹介されていた。各地から見学者もあるそうだ。
 
 1階は、アカラギャラリーがある。ボクネン作品の展示と販売、彼のデザインによるTシャツや著作、仲良しの照屋林賢のCDなどを販売するショップにもなっている。

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 ボクネンさんは、RBCラジオで番組を持っていて、よく聴いていた。風や波、草木や森など、日ごろ見慣れたような何気ない自然について、その豊かな感性で感じるままに語っていた。自然を愛し、そこからさまざまなインスピレーションやエネルギーももらっている感じがした。

 しかも、彼は自分で三線を弾き歌う。それが、とても味わいがある。もうプロ顔負けの唄者だった。そんなこともあり、一度、美術館を訪ねようと思った。

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 ギャラリーでも、たくさんの版画
が見られるが、せっかくなので2階の美術館に入った。

彼は、1953年、沖縄の伊是名島で生まれた。絵画、イラスト、デザインの仕事を経て版画と出会った。

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 展示室はあくまで、曲線を描いて広がっている。膨大な作品群に圧倒される。
 

「自由にならない不定線、一気呵成の彫り上げ着色。瞬間性の彫りと裏手彩色の技法は、森羅万象をテーマとする作品世界を怒涛のごとく押し広げた」(オフィシャルサイト)

 展示されていたのは、この「万象連鎖シリーズ1、心のゆくえ」

 

Img_2702 写真撮影は、個々の作品はダメということで、看板のチラシから撮影したもの。版画の雰囲気がわかるのではないだろうか。

 

 「万象連鎖シリーズ」は、1997年3月に彫られた最初の版画作品「一本道の福木」をスタートに、次々「繋ぎ絵」として生みだしていった作品群で、あしかけ17年におよぶという。

 ボクネンさんは「ひらめくイメージをつかまえるためになるべくすばやく彫り込んでいくことを旨としている。ボクネン作品すべてに共通している」そうだ。

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 「作家が目に見えない世界を描くという試みがなされており、鑑賞者は摩訶不思議な世界へと誘われる」。

 彼は、依頼されるテーマをもとに作品を制作することはほとんどない。作家にとって作品は「いただくもの」であり、決して「もぎとるもの」ではないとのこと。
 版画を見ていても、彼の頭脳に浮かんだイメージを、時をおかずに一気に彫り上げた作品であることがよくわかる。色彩豊かで、勢いがすごい。情熱がほとばしっている。

 版画も建築もともに楽しめる「摩訶不思議」な場所である。

 

 

2013年5月24日 (金)

玉三郎の組踊「聞得大君誕生」を観る

 坂東玉三郎が出演して話題となった新作組踊(クミウドゥイ)「聞得大君(チフイジン)誕生」がNHKで放送されたので観た。

 聞得大君とは、琉球王国の最高位の神職。通常は「キコエオオキミ」と読むが、組踊ではウチナーグチ(琉球語)読みとなっている。舞台は16世紀の尚真王代(第二尚氏)の琉球王朝である。

Img_2361 尚真王の妹、音智殿茂金(ウトゥチトゥヌムイガニ)が、首里の今帰仁(ナキジン)の屋敷で奉公していた伊敷里之子(イシチサトゥヌシ)と出会い恋に落ちる。そのころ今帰仁で、村落の祭祀をつかさどるノロ(神女)と民間の巫女であるユタの勢力争いが起きていた。尚真はこの争乱を鎮めて、王族の女性を頂点とする強大な宗教組織の確立を推し進めようとする。

 そこで、伊敷里之子が争乱を治めるため派遣される。心通わせる彼女と別れて出かけた里之子。だが争いの中で刺されて命を落とす。Img_2363

  尚真は、新たな国事として、村のノロ(神女)一人を選び村で神への祭祀を務めさせる。王府には、最高の神職として、聞得大君をおき、村々のノロをおさめるとともに、王府の神事を務めさせる。その役目は、王妃か王の姉妹しかいない。音智をその神職につかせる。聞得大君の誕生である。
 そんなストーリーである。玉三郎のために書かれたような内容だ。

 沖縄でも、公演のチケットは瞬く間に売り切れ、見に行きたいと思ってもいけなかった組踊ファンがたくさんいた。ただ、私的には、玉三郎にはあまり興味がない。

 この組踊を観て、個人的に興味があり、面白いと思った点がいくつかある。

 その一つは、まずバックで歌い演奏する地謡(ヂウテー)が、幕の後ろではなく、舞台に出てきて、よく見える位置で演奏したこと。「組踊は聴くもの」と言われるほどだから、当然だ。でも、国立劇場おきなわの組踊公演では、地謡は幕の後ろに隠れ、歌と演奏もベールを通してしか聴けないことが多い。今回は、よかった。

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 その2。尚真王は中央集権制を確立し、各地に割拠していた按司(アジ、豪族)の武装を解除し、武器を王府に集中管理した。その時代の模様が描かれていること。
 「地方の按司から武器を集めているが、まだそこここに武器が残っている」「今帰仁の武器はまだ半分しか納めてない。遅れている」などの会話が出てくる。

 若い男女の出会いもそんな場所だった。今帰仁の武器を納める旅の行列に出会って、驚いた馬がつまづき、音智が落ちる。武器運搬の手伝いをしていた伊敷里之子が彼女を助けて、二人の恋が始まった。Img_2367
 二人の出会いと別れ、彼氏の死去という悲劇まで、王府が地方から武器を集めた政策が、物語の重要な背景になっている。こういう組踊は初めて見た。

 その3。ノロとユタの争いが描かれていること。まだ、今帰仁に残っていた刀やヤリなどの武器を女性たちが持って争う。想像を絶する情景だった。ユタがノロに「山原で神女(ノロ)は役にたたん」とののしれば、ノロはユタにたいし「人をだますのが仕事」という具合に、激しく罵倒する。

 ノロは村の公的な神事を担い、ユタは民間の庶民を相手にするのに、勢力争いがあったとは、意外だった。なぜだろうか?
 たぶん、尚真王による宗教組織が確立され、各地のノロもその統制下に置かれるまでは、ノロの身分と地位、職務の範囲も、まだ明確には確立されていず、ユタとの争いもあったということだろうか。作者の大城立祐さんは、琉球の歴史には詳しい作家なので、それなりの時代考証はされているはずだ。

 「村落のノロ組織も、少なくとも第二尚氏初期に完成され、すべて王府からの正式の辞令によって任命される官人=オエカ人となった。そして役地としてノロ地が支給された」。宮城栄昌著『沖縄の歴史』はこのように指摘している。

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  王府から任命された「これら聞得大君以下の神女は、お嶽(拝所)や自分が居住する御殿の火神を通じ、つねに国王の長寿、王家の繁栄、領内の平和、五穀の豊穣、航海の安全を祈った。ノロはまた按司のためにも、その幸いを祈願した」(同書)

 そんなこんなで、それなりに面白く観た新作組踊だった。
 写真はすべて、NHKの画面から借用した。

2013年1月21日 (月)

映画「ひまわり」を見る

 米軍のジェット戦闘機が1959年6月30日、うるま市石川で墜落した事件を描いた映画「ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空を~」を、沖縄市の「あしびなー」で見た。

 米軍占領下でさまざまな苦難を受けながら、県民は復興へ向けて懸命に生きていた時代だ。当時の石川市宮森小学校では、校庭にひまわりの種を植え育て、給食にミルクが配給されだした。その楽しい学校は一瞬にして地獄と化した。戦闘機が住宅地に墜落し、炎上しながら教室に激突した。住民6人、学童11人(後に後遺症で1人死亡)が死亡、210人の学童、住民が重軽傷を負う大惨事だった。操縦士は、脱出していた。

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 宮森小で事件に遭った山城良太は、年老いて娘の家で暮らすが、事件を忘れようとしても忘れられない。傷跡にいまも苦しむ。孫で沖縄国際大学生の琉一が、ゼミ仲間と沖国大のヘリコプター墜落事件、50年余前の宮森小事件の調査とリポート活動に取り組む。さらに、基地と平和を考えるピースフルコンサートの開催を準備する。映画は、そんなストーリーである。

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 上映前に、出演した子どもたちが登壇してあいさつした。子役は、200人の応募者から選ばれた。みんな熱演して、当時の学校や子どもたちと住民の暮らしぶり、そして墜落による悲劇がリアルに描かれていた。

 子役がたくさん出演していることもあってか、観客も子どもが多く、親やおばあちゃんに連れられて来ていた。平和の尊さ、基地があるため繰り返される悲劇の理不尽さが、子どもたちの心にも、深く印象づけられたではないだろうか。


 民謡を愛好するものとして、感心したのは、島唄が効果的に使われていたことだ。

 主人公の良太は、子どもの時から歌三線をたしなむ。映画は、大人になった良太を演じる長塚京三の「屋嘉節(ヤカブシ)」で始まり、最後はコンサートで演奏する「平和の願い」で終わる。

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 「屋嘉節」は、金武町屋嘉にあった捕虜収容所で作られた歌だ。「故郷の沖縄が戦場になり、世の中のみんなが涙を流した」と歌いだす。代表的な平和の島唄である。

 「平和の願い」は「沖縄という島はいったいいつまで戦の世が続くのか、やすやすと暮らせるのはいつのことか」と歌いだす。復帰前の1969年ごろ作られた曲。ベトナムの戦場と沖縄が直結していた時代だ。平和の願いと、復帰によって基地のない平和な沖縄が実現することへの期待が込められた歌である。

 驚いたのは、長塚京三が、みずから三線を弾いて、自分で歌っていたことだ。いっしょに映画を見たツレは、「別の人が歌っているのではないか」と感じたようだが、プロ歌手の歌ではない。映画のために、三線と島唄を習って、これだけ弾けて歌えるとしたら、すごい役者だと感じ入った。

 映画全体でも、音楽と芸能が大事な役割を担っていた。戦後うちひしがれていた人々を、小那覇舞天(オナハブーテン)が「石川数え唄」を歌い、歌と笑いで励ます場面が描かれていた。ピースフルコンサートの開催も、沖縄では古くから苦しいときも、音楽、芸能を力にして乗り越えてきたことを想起して計画したものだった。
 他にも「汗水節」「テンヨー節」「唐船どーい」など島唄が使われていた。
 沖縄だけでなく、全国の多くの人にみてほしい映画である。

 
 

2012年11月 4日 (日)

芸大祭でガムランを聴く

 文化の日の3日、沖縄県立芸術大学の芸大祭に出かけた。インドネシアの有名なガムラン音楽を聴くためである。ツレの友人の芸大生Kさんが、出演するからだ。

015  ガムランとは、「たたく」という言葉からきていて、すべて打楽器で演奏する。ガムランは、ジャワとバリ島が有名だが、今夕はバリ島のガムランだった。

045  お鍋のような「レヨン」(上)。鉄琴のような「ガンサ」(下)。これらはハンマーや棒でたたく。でも、それぞれ音色が少しずつ変わり、メロディを奏でる。主に青銅でつくられる。音が美しいから。

044 ドラムのような太鼓は膝の上に置いて手でたたく(一番上の写真にある)。亀(?)の上に載せたものもある。他に大きな銅鑼(ドラ)も大小とある。なにか楽器紹介になってしまった

020_2   演奏が始まると、これまでテレビなどで見聞きしたガムランは、ゆったりした心地よい音楽のイメージがあるが、少し違う。早いテンポでリズミカルに打ち鳴らす。独特のリズムで次第にアップテンポで激しくなる。スゴイ迫力で、自然に拍子をとりたくなる。014_2  音楽だけ奏でているように書いていたが、最初からバリの踊りが登場した。衣装もカラフルでとても美しい。

008  身体をくねらせながらの独特の舞いだが、手指の表現がものすごく繊細で、見事。音楽とピッタリと合っている。

006  写真は、ツレの友人のKさん。なんかクレオパトラを思わせるようなメイク。目は瞬きもしないで、キッと前を見つめている。
 驚くのは、踊り手は次には楽器を演奏する。楽器も交代でこなす。それに、楽譜はない! みんな暗記して演奏するという。でも、どんなに激しいリズムになっても、呼吸はピッタリ合っていて、乱れがない。

024 次はソロで踊る。 踊りも、琉球舞踊のようなゆったりしたものではない。優雅ではあるが、動きは早い。指先をかすかにふるわせたりするのは、ナマで見ないと味わえない。032

 最後は、男女2人が登場して、絡み合う踊りだった。バリの踊りはこれまでも、世界でたくさんの人々が魅了されたのが、よくわかる。

037  ガムランといっても、ジャワとバリでは違うらしい。ジャワはゆったりと流れるような優雅な響きに特色がある。宮廷の音楽として発達したからだという。バリ島は、きらびやかな音とリズムに特徴があり、より庶民的だという。

034  琉球でも王府で発達した古典音楽と踊りは、優雅でゆったりしている。庶民の間で好まれた民謡と踊りは、早いテンポの軽快な曲と踊りが多い。なにか共通するものがある。

 県立芸大のガムランは、ジャワとバリの両方のアンサンブルがあり、精力的な活動を続けて、日本の大学でも有名だという。とくに、バリのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と言われる梅田英春准教授の指導の下で意欲的な活動が行われているとのこと。

 芸大の卒業生も入っているようだが、それにしても素晴らしい演奏と踊りだ。練習は厳しいという話は聞いていたが、だからこそ、その成果が出ている。沖縄にいて、バリ島の雰囲気を味わえた。

 Kさんなんか、1年生なのに、ジャワとバリの両方に出演して、踊りも演奏もこなしていた。短い間によくこれだけのことができるものだと、驚いた。それだけ、練習をしたということだろう。042 芸大祭でも、ガムランは最大の目玉になっているとか。たくさん駆け付けていた。このガムランを見るために県外から来る人もいる。東京出身のKさんのおばあちゃんと友だちも駆け付け、まん前で見ていた。それだけの価値のある音楽と踊りだった。

2012年10月30日 (火)

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を観る

 宮古島の神歌と古謡を追ったドキュメンタリ-映画「スケッチ。オブ・ミャーク」を桜坂劇場で観た。宮古島諸島は、古くから御嶽(ウタキ)での神事で歌われる神歌や古謡がたくさん残っている。

121030_213201  90歳前後のおばあさんたちが、三線など伴奏はなしで、数々の歌を歌う。宮古民謡とて、知られた曲もあるが大半は、もっと古くから口承で歌い継がれた神歌、古謡である。宮古島に11月に旅する予定だが、これらの神歌などは、行っても見ることはできない。

 厳しい離島の自然と人頭税という悪税に圧迫される暮らしのなかで、五穀豊穣や豊年、船の航行の安全など、神への祈りをささげる歌が多い。

 「歌うことは、神とひとつになること。生きる願いは声となり、神へ届く」というチラシの言葉がピッタリとくる。そこには、原初的な人間の姿を思い起こさせてくれる。

 幾世紀も伝えられてきた神歌と古謡は、継承する人がだんだんいなくなり、継承する場もなくなってきて、絶滅の危機にあるという。だからこそ、この映画も製作された。貴重な映像である。

 おばあ、おじいに交じって、小学生の男の子が見事な歌三線を披露したのには驚いた。東京で「宮古島の神歌と古謡」を披露する舞台で、宮古島の名曲「なりやまあやぐ」を歌っている最中に、歌詞が出てこなくなり、悔し涙を流す。「休みを取ろうか」と声をかけられても、「イヤ、歌う」と言って、次に早弾きの「鳩間節」を歌い切ったのには、二度ビックリである。たくましい。未来の宮古民謡の唄者がここにいる。

 久保田麻琴さんが原案・監修して、大西功一さんが監督・撮影などして製作された。その努力に感謝したい気持である。 

2012年8月19日 (日)

上演禁止された組踊「手水の縁」

 平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」が、琉球王府時代だけでなく、明治になっても上演禁止にされていたことは、これまでも書いた。でも、いつどのように禁止措置がされ、いつ許可になったのか、具体的な経過はよくわからないままだった。『沖縄県史6 文化2』の巻に経過が書かれていたので、紹介したい。

 この作品は、国家反逆の罪で処刑された朝敏の作品であることと、結婚は親が決める封建秩序を乗り越え、自由な恋愛を成就させる組踊のため、権力者から問題視されたと伝えられる。
 「封建社会の中で遂げられぬ恋に終始する民衆の間では、それ故になおさら愛誦され人気があった。しかし、山戸と玉津の忍びの後の場で伝統の様式からひどく逸脱し男女jの濡れ場を強調したという理由で明治の末期に上演を禁止した。その後大正7年3月に後任の高橋署長が赴任すると世論の要求を受け入れ、署長直々の観賞もあって問題なしととして上演が許可された。各座とも競って上演をし観客の要望に応えた。新聞社もその粋なはからいに讃辞を呈し、改めて『手水の縁』の文学的な価値を説いて啓蒙した」

003   組踊の一場面。「手水の縁」ではない(「沖縄テレビ」の画面から)

 「手水の縁=昨日上場許可さる」(大正7年3月16日「琉球新報」)
 「那覇前署長時代一部の不見識極まる警官連に依りて久しく上場禁止となり居たる平敷屋朝敏作組踊『手水の縁』は昨日高橋署長に依りて許可されたり」

 「高橋署長の感想」(大正7年3月29日「琉球新報」)
 「私の素人評ですが何うも中々いい芝居です。最初筋書きで見た時は如何だろうかと怪しんで居りましたが、板に掛けて見ると少しも風俗紊乱の所はなく、殊にあの美文学的な台詞を流暢に語る所は聞いてゐてもいい心持がします。一番よかった所は何と云っても山戸が真玉津の所へ忍んで行く所で門外での横笛はその場を緊張せしめて一種の凄みさえ伝へてゐました。その場の音楽も実に何とも言へぬものです⋯⋯

 前任者が是れを許可しなかったと云うのも仄聞するところによると7,8年前に演った時は甚だ改悪して如何はしい点もあったと云ふ事でした」

 前任者とは、那覇署の坂本警部だろうと思われるそうだ。
 歌劇も世論と警察側の糾弾にあい、廃止に追い詰められていった。

 坂本警部の談話が「琉球新報」大正6年4月11日に掲載されている。
 「本県の歌劇は見物をして悪感を抱だかしむる、卑猥極まるものが多い。それで警察の方でも風俗を乱す虞れのあるものは全然之を許さず」

 しかし「坂本警部は余程の硬骨漢」だったらしく、潮会の芝居を上演直前に禁止した。「その偏向ぶりに世間の顰蹙(ヒンシュク)をかっている」とのこと。
 高橋署長といえども、真面目に「手水の縁」を観賞すれば、「風俗を乱す」などいう非難は的外れであることが分かるだろう。なかなか愉快な感想である。

2012年8月10日 (金)

民衆に愛される沖縄歌劇、お望み次第で上演とは

お望み次第の劇上演とは

芝居では、珊瑚座と真楽座が競い合い、活発な活動を続けていた。驚くのは、芝居の演目を、観客のリクエストに応えて上演するという興行をしていたことである。演歌など歌手がリクエストに応えて歌うのならわかるが、芝居までそんな器用なことができるとは、さすが沖縄芝居である。

大野氏によれば、昭和15年(1941)4月11日付の「沖縄日報」に、珊瑚座の旧3月興行の広告が出ている。「お望み次第どの劇でも上演 お待ち兼ねの三月超特別昼夜二回興行」。
 この広告に出ている演目は全部で184ある。それを「お望み次第どの劇でも上演」するという。同じ日の新聞に真楽座の旧三月興行の広告が出ていて、こちらは89項目ある。やはり「左記名番組の中からお申込みのお芝居を毎夜取替上演」となっている。当時の劇団は、これだけの演目をいつでも上演出来るように、役者たちは日頃、精進して準備していたというだろうか。

珊瑚座の184項目の内訳は、歌劇が86、時代劇が56、舞踊劇25、現代劇11、喜劇6となっている。この時期でも歌劇が圧倒的に多く、芝居の主流を占めていたことがわかる。

聞くところによると、沖縄芝居では、入った観客の反応を見て、座長が急きょ予定の演目を変えて、上演することもあった。役者の方も、演目の変更にもいつでも対応できるようにしておかなければならない。それくらい出来なければ、一人前の役者といえないだろう。なかなか大変な苦労である。

まあ、「お望み次第」でリクエストに応えて上演することもやっていたのなら、演目の変更など朝飯前なのだろう。台本を書かないで芝居を演じるというやり方をしていたことが、逆にこういう臨機応変な上演を可能にしたのかもしれない。

戦争で消された歌劇

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      首里城も沖縄戦で第32軍司令部が置かれ、廃墟と化した

昭和16年(1941)12月には、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した。戦争中の芝居事情はどうだったのか。

その翌17年1月には、真楽座から出された再興行願いに対して、那覇署は「演劇は全て標準語を使用すること、歌劇は全廃すること、但し標準語演劇は1日1題以上上演すればよい」という条件をつけて許可したと大阪朝日沖縄版が伝えている。

やはり、歌劇は全廃とされている。日本が、侵略の戦争にひた走り軍事一色に染め上げられるなかでは、歌劇の灯も消されたのだ。沖縄芝居、歌劇も平和であってこそ楽しめるのだ。

 県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その後は、米軍による占領統治という異民族支配のもとで、県民は苦難の道を歩んだ。

 終戦の直後、沖縄芝居、歌劇がどのように演じられのか。沖縄戦で打ちひしがれた県民の心の癒し、楽しみとなったのかについては、すでにブログに「戦後沖縄芝居事情」としてアップしているのでそちらをみてほしい。 

 「民衆の愛される沖縄歌劇」と題したが、オリジナルの研究はまったくない。大野道雄氏、矢野輝雄氏、真栄田勝朗氏、大城學氏の著作から、勝手につまみ食いさせていただいた。ご容赦願いたい。

        2012年8月10日    文責・沢村昭洋         

2012年8月 8日 (水)

民衆に愛される沖縄歌劇、歌劇への偏見と規制

主流になった歌劇が廃止に

 明治43年(1910)の歌劇「泊阿嘉」の大成功によって、沖縄の芝居のなかで、歌劇の占める位置が高くなった。大野氏によれば、新聞で見られる限り、明治44年に上演された歌劇と思われる演目数は59を数えた。明治42年、43年と方言せりふ劇の年間上演数は60を越えて最盛期だったけれど、44年になると歌劇の方が多くなり、歌劇主流の時代がはじまった。

歌劇全盛時代を迎えていた大正6年(1917)、人気の歌劇を全廃するという事態が起きた。4月11,12日付の「琉球新報」によると「帽子職工が仕事しながら其の折々の芝居で演っている歌劇の文句を唱ふのは好いとしても甚だしきは小学校の子供でさえ其の口真似をしたりして歌劇の悪影響は甚だ恐る可きものであった」ので「一時的に歌劇全廃を唱へたる事」があった。子どもまで、歌劇の口真似をするとは、絶大な人気があったことをうかがわえる。

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     歌劇「奥山の牡丹」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

 大城氏は「歌劇が男女の恋愛をテーマにし(た)うえに俗受けをねらいすぎたために、道義的に世論と警察の糾弾にあい、劇団の自主的廃止の形をとった」とのべている。

 世俗的な恋愛物が「卑猥極まる、風紀を乱す」という根深い固定観念がまだ支配していたのだろう。 

 廃止となる以前にも、すでに規制があり、「警察の方でも風俗を乱す虞れがあるものは全然之を許さず従来も出願数の4割位は不許可になって居た」ともいう。

「沖縄の『近代化』を本土への同化と考えた一部知識人、それに同調した新聞、そして権力を握って演劇の内容にまで踏み込んだ警察が三位一体となって、劇場側を自主的歌劇全廃に追い込んだのでした」と大野氏はのべている。

このような古い倫理観や「近代化」を志向する立場から、庶民に愛される歌劇を卑下して排撃する姿勢は、言語のうえで共通語を第一として、方言の追放に走った歴史を想起させるものがある。

 「しかし、大衆にもっとも人気のあった歌劇がそんなに簡単に廃止できるはずではなく、その禁止もあまり長くは続かなかったようである」(矢野氏著作)
 歌劇の看板ではなく舞踊劇の名目で逃げたり、臨監席に警官がいる時は、役者が歌わず、地謡に歌わせる方法を考え出したそうである。

結局、廃止も長くは続かず、翌年には禁止が解かれ、大正8年(1919)の辻遊郭の大火事の後は完全に復活した。

沖縄歌劇にたいする非難は、昔のことだけではない。先に引用した『琉球芝居物語』を書いた真栄田勝朗氏も「歌劇の悪影響」を次のように力説している。

「この歌劇こそ実に演劇の向上を阻害し堕落に導いたくせものである。叡智と良心を持ち合せない彼らは無知のアフィー(青年)アン小(田舎娘)達の好みに迎合し、悪どい恋愛ものを次々に自作自演して、演劇水準を下落させただけでなく、社会風教をも毒するに至った」

沖縄演劇を愛する人が、これほどまでに歌劇を口汚く指弾するのには、ちょっと抵抗がある。「伊江島ハンドー小」をはじめ名作歌劇を見る限りでは、こうした非難はまったく当てはまらない。
 庶民の風俗、恋愛などを題材にした歌劇には、この孤島苦とよばれた琉球弧の島々で生きる人々の生きざま、愛と哀しみ、苦しみと喜び、人生のドラマが凝縮して映し出されている。それだけに、観客の心をゆさぶり、ともに笑い、涙し、感動をおぼえるのだろう。
 とくに人気のある恋愛物を古めかしい倫理観で抑圧しようとしても、到底無理である。組踊でも恋愛物の傑作「手水の縁」が、長く上演禁止になった時期があった。そんな企てはいまでは笑い話のたぐいである。それと同様のことではないだろうか。

日本の各地を見回しても、沖縄ほど独自の題材と伝統芸能を駆使して、たくさんの歌劇を創造した地方は、ほかにはないだろう。名作歌劇は、いまやもう古典として価値をもつ歌劇となっている。歌劇は魅力と価値をもつ立派な沖縄芸能であると思う。

海外のオペラも、恋愛をテーマとした人気のある演目が多い。イタリアオペラを「俗物大衆文化」と言い切る人もいる。オペラを高尚な音楽のように接するのではなく、人間ドラマを満載した「俗物大衆文化」と思って見る方が親しみやすく、かつ楽しめる。

オペラと沖縄歌劇は、異なる芸能ではあるが、歌舞劇としては共通する点もある。沖縄歌劇は、芸能の島」ならではの芸能であり、誇りある民衆の文化である。

『沖縄県史6』は、「明治30年代より顕著に台頭した大正期に最盛を極めた歌劇は沖縄演劇の一大傑作である」「一種のミュージカルな方法で筋を運ぶスタイルの演劇は日本の演劇の中でもユニークであり今後大いにその可能性や評価については検討されねばならないものである」と評価している。008

    沖縄は「芸能の島」。みんな歌と踊りが大好きだ(第28回チャリティー芸能祭から)               

すでにのべたように、歌劇にはさまざまな規制があったが、歌劇だけでなく沖縄県では、演劇に対して早くから規制が加えられてきた。

明治25年(1892)の演芸場取締規則は、芸人鑑札や劇場に警察官の監臨席をつくることが義務づけられ、多くの芸題が変更、禁止されたりした。

昭和4年(1929)の興行場及興行取締規則では、①勧善懲悪の趣旨に背戻するもの②嫌悪卑猥又は惨酷に渉るもの③犯罪の手段方法を誘致助成する虞あるもの④濫に時事を諷し又は政談に紛はしきものと認むるもの、などが掲げられていた。これでは、大抵のことは警察の判断で自由に処置できる。

規制が厳しくなるなかでも、沖縄芝居、歌劇は盛んに上演がされてきた。

   

        

2012年8月 7日 (火)

民衆に愛される沖縄歌劇、芝居をささえた女性客

白眼視された女性の芝居見物

 沖縄の芝居は、女性観客に支えられてきたとよくいわれる。ただ、はじめから女性客が多かったわけではない。明治36年(1903)頃には、男性客が女性客よりも多く、劇場の主役が男性であったという。

 もちろん、女性が芝居に関心を持たなかったわけではない。当時、芝居は風紀を乱すものとして蔑視されていた。特に女性が芝居を見ることは非難されていたからだ。

明治32,33年ごろには、沖縄各地で芝居見物禁止の規則なるものがつくられて、罰金を取られたりしていた。

大野氏は、その一例として、明治32年(1899)10月21日の「琉球新報」の記事をあげている。

「芝居見物禁止の規約」として、与那原村で芝居を興行したさい、村民らが嫌悪し「一同申合せの上見物禁止の規約を結ひたる」、芝居見物を放任すると「小女處女等か身を誤り風俗紊乱の媒介」となるとして、芝居を見物するものは金三円の科料を徴収すると協議一決し、取り締まりのため、毎日毎晩見張りをしたという。

 このように芝居見物、とくに女性の芝居見物は白眼視されていた。それに当時の女性は自分の自由になる財布を持っていなかった。

そんななかでも例外は漁業の町、糸満の女性観客だった。男が漁業で獲ってきた魚を女性が売りさばき、糸満の女性は経済的に自立していた。この経済的自立が演劇興行を支えたそうだ。

 次第に女客の方が男性より多くなっていった。明治43年(1910)2月22日付「琉球新報」によると、首里寒水川の春日座では「⋯⋯9分通りの大入りである其の内7分通りは婦人で他の2分は男子であった」。

 同年6月には、沖縄座の「浜千鳥」(歌劇「泊阿嘉」)の記事で「十中八九分(通)りは婦女子が占めて居た」となる。明治40年ころから歌劇の上演が次第に多くなってくるのにつれて、女性客が多くなってきたことがうかがえる。

    015          現代の国立劇場おきなわも女性客が多い

歌劇ささえた「帽子くまー」

歌劇の上演に女性客が多くなった一つの背景として、注目されるのは、アダン葉帽子編みの帽子女工の姿が目立つようになったことである。これは、アダンの葉を使って編んだ夏物の帽子のこと。俗にパナマ帽と呼ばれていた。

「大正時代の観客は、辻の遊女たちや、帽子あみの女工、町屋の主婦たち」であり、「芝居小屋は女たちのただ一つの解放された世界であった」(矢野氏著作)

『沖縄芝居とその周辺』によれば、明治35年(1902)片山徳次郎がアダン葉の帽子製造法を開発し、1904年に特許を得てから、アダン葉帽子の製造は急速に発達していった。那覇市に製帽と原料漂泊の工場を建てて以来沖縄県の特産品になり、西欧にも輸出していた。
 生産額は、はじめはわずか5~6万円に過ぎなかったが、明治41年(1908)には28万7700円余に激増し、44年(1911)には、55万7160円に達した。これは砂糖、泡盛に次ぐ生産額となり「本県唯一の世界的商品」といわれるほどになった。
 大正元年(1912)には、アダン葉帽子製造工場が那覇に20あった。「琉球新報」によれば、当時の職工数は5~6000人を数え、自分の家で家事の余暇に賃仕事をする人を含めると優に3万人はいたという。

「比較的多くの資金と労力を要せず屋内にありて1日優に30銭以上の労銀を得るにより老若男女の区別なく滔々(とうとう)として帽子職工たらんとする趨勢を示せり」(大正2年2月1日「琉球新報」)という具合だった。

地方にも作業場があり、当時は自給自足の生活のなかで、このアダン葉帽子の製造は、一週間に一度現金収入が得られる貴重な手段だったという。女性にとって、現金収入は生活費だけでなく、芝居見物などに行くことも可能にした。

「娯楽場と云う一種定まった場所の殆どない本県で、芝居丈は兎も角沖縄の一大娯楽場となっている⋯⋯帽子女工も女学生も小学生も全てか口吟む歌は一度芝居で歌った歌である」(「琉球新報」)という状況になった。

「誕生したばかりの琉球歌劇はこうした帽子くまあ(帽子編み女性)に支えられたわけで、その意味で間違いなく、沖縄近代の産物だと言えると思うんです」(大野氏著作)。

アダン葉帽子の製造のピークは大正1~2年だった。原料を主として野生のアダンにたよっていたことから次第に原料が枯渇してしまった。

 民謡に「帽子くまー」という男女掛け合いの曲がある。

「♪女 頭小(グヮ)やちゅくてぃ ぬちさぐや知らん かなし思里に習いぶさぬ サー習いぶさぬ」

(帽子の組み始めの部分を作って 編み方は知らない 愛しい彼に習いたい)

「♪男 天止みてぃ呉(クイ)らば わが妻(トゥジ)になゆみ 女 組み上ぎてぃ呉てぃん 妻やならん 男 サーにんぐる小どぅ すんなあ」

(男 帽子の上の天のところをとめてあげれば 私の妻になってくれるかな 女 組み上げても妻にはならないわよ 男 サー 愛人になってくれるかい?)

 こんな掛け合いで歌は進み、帽子を編み上げる作業が歌われるが、途中は省略する。

「♪男 帽子組まー 哀り 女 組まんしが知ゆみ 勘定前になりば さら夜明かち サー さら夜明かち」

(男 帽子組み工は哀れだよ 女 作らない人はその苦労が分らないでしょう 納期の前になれば 徹夜して サー徹夜して)

 この民謡では「私の妻になってくれ」と歌っているが、私のツレが、戦前に帽子くまーをしていたおばあさんに話を聞いたことがある。その人の体験によると、作業場で男と女の恋愛話のようなことはまったくなかったとのことだった。実際には、作業に追われてそんな余裕もなかったのだろう。

2012年8月 6日 (月)

民衆に愛される沖縄歌劇、人気集めた三大歌劇

人気を集めた三大歌劇の世界 

初期にはまだ「踊り」といわれていた沖縄歌劇が、明治の後期には「歌劇」という言葉が使われるようになる。だがしばらくは「歌劇」と「踊り」の両方が使われる混在時代が続いた。「歌劇」という呼び方が定着したのは、大正3年(1914)ごろからだという。

歌劇が発展してくる中で、空前の大当りとなる名作歌劇が生まれる。明治43年(1910)に初演された「泊阿嘉(トゥマイアカ)」である。女性に圧倒的な人気を集めた。この「泊阿嘉」とその後の「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小(グヮ)」を合わせて、沖縄の三大歌劇と呼ばれた。これに「薬師堂」を加えて四大歌劇ともいう。

    Photo   歌劇「薬師堂」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

       

その「泊阿嘉」は、阿嘉家の嫡男、樽金(タルガ二)が旧暦3月3日の「浜下り(ハマウリ)」(女の浜遊び)の日に、思鶴(ウミチル)を見掛けて一目ぼれするが、樽金は伊平屋島に出される。帰ってみると彼女は病気で死に、樽金もその後を追う。そんな悲劇である。

歌劇「泊阿嘉」には、民謡、古典合わせて16曲が使われている。歌劇で使われる曲は、既存の曲を使い、その旋律に新しく歌詞をのせて歌う、つまり替え歌で歌うというやり方である。喜びや悲しい場面など、それぞれの場面にふさわしい曲が演奏される。歌三線がはいることによって、通常の台詞だけの芝居以上に、ドラマを盛り上げる。

大正3年(1914年)に初演され、人気を集めた歌劇が、伊良波尹吉(イラハインキチ)の「奥山の牡丹」である。

「奥山の牡丹」は、士族の息子・三郎と身分の低い家庭の娘チラーの悲恋物語である。子どもを生みながら三郎の立身出世のため身を引くチラー。その20年後、母を尋ねてきた息子の山戸に対して、またも立身出世の妨げになるとチラーは身を投げる。女性の自己犠牲の姿が際立つ内容である。

「奥山の牡丹」には、18曲が使われており、古典曲が多くなっている。

こうした歌劇がなぜ人気を集めたのか。池宮正治氏は、次のように指摘している。
「封建的な身分制がとり払われたはずの明治=近代は、⋯⋯女は夫や子供、あるいは夫の家族のために、まさに自己犠牲的に生きることを、社会通念上要求されていたのだ⋯⋯歌劇の女性たちの運命は他人事とは思えなかったはずである。⋯⋯『泊阿嘉』や『奥山の牡丹』を見て、熱狂的に自らの運命に泣いたのである。この意味で私は、明治社会から疎外された女性の悲哀が、歌劇を生み出したのだと考えている」(「『泊阿嘉』評判記」、大野氏著作から)。

 同じ悲恋物でありながら、前の2作とは異なる女性像が登場する歌劇が「伊江島ハンドー小」である。最初は、方言せりふ劇だったが、大正13年(1924)に歌劇として初演された。

この歌劇は、伊江島の青年加那が国頭村辺土名(ヘントナ)で難破して助けられ、そこでハンドー小と深い仲になるが、島に妻がいる加那は伊江島に帰る。加那に思いを寄せるハンドー小は、船頭主に頼み島に渡るが、加那は心変わりをしていた。絶望した彼女は城山に登り自分の黒髪で首をくくる。その後、加那は病に臥し、亡霊が現れ、実家の島村屋は家族全員が死んで、島村屋は滅びる。

      

003

             歌劇の舞台となった伊江島

古典、民謡のべ23曲が使われていて、歌劇のなかでも曲数の多い芝居の一つである。「明治43年には、『泊阿嘉』の運命に従うだけの悲恋に涙し、大正3年には『奥山の牡丹』のあくなき自己犠牲を貫く姿に同情の涙を流した女性客は、大正13年の『伊江島ハンドー小』に至って勧善懲悪劇ながら不実と無情に自ら断罪を下す主体的な女性の側に立って拍手と喝采を送ったのです。そこに歌劇が生みだした新しい女性像とともに、歌劇を支えた女性観客の意識の変化をも見ることが出来ましょう」。

大野氏は、観客の女性の意識の変容をこのように分析している。

「恋愛の自由」への夢託す歌劇

 昭和9年(1934)ころ初演された親泊興照作の歌劇に「中城情話」がある。これまでの歌劇から、さらに一歩踏み出した女性像が見える。

 この歌劇は、首里から里之子(サトヌシ、王府の若い役人の職名)が村に遊びに来た。村一番の美人ウサ小(グヮー)は許嫁のアフィ小がいたが里之子に恋する。アフィ小は、ウサ小を惑わせる里之子にうちかかる。許嫁がいた事情を知った里之子は去るが、ウサ小の思いは募るばかり。アフィ小を振り捨てて里之子のもとに走る。

      Photo_4     歌劇「中城情話」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

 私的には、首里から来た里之子が村の娘と恋仲になり、村の許嫁を捨てていくというストーリーは、あまり好感が持てなかった。でも、自由な恋愛への願望という立場から見れば、違った見方ができる。

 かつての封建社会の沖縄では、親の決めた許嫁は絶対であり、他の村の者との結婚も通常はありえなかった。しかも、相手は身分の違う首里の士族とあれば、かなわない恋だった。しかし、そういうしがらみを振り捨てて、自分の意思を貫いて愛する人のもとへ走るというのは、それまでにない新しい女性像である。そこには、時代の進歩の反映があるのだろう。

大野氏は次のようにのべている。「『泊阿嘉』にしろ『奥山の牡丹』にしろ、これまでの歌劇の恋愛は、封建社会の桎梏にはばまれて実る事はありませんでした。純粋な愛がかなわないところに悲劇が生まれ、身につまされた女性観客の同情と涙がそそがれたのでした。ところが、『中城情話』は違います。里之子とウサ小の身分を越えた恋は一応実るのです。悲劇は二人の恋の行方にではなく、捨てられてアフィ小、許嫁の身の上に起こるのです。

⋯⋯ウサ小とアフィ小の関係は、封建時代の村落共同体のなかでつくられたものです。⋯⋯明治以前から引き続く共同体の桎梏から自由でありたい、恋愛の自由がほしいという女性の夢が、ウサ小に託されたのだと思えるのです」

     

       

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