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2011年4月 7日 (木)

小禄の拝所巡りのおまけ

 那覇市小禄(オロク)の拝所で、まだ見残していたところや、見に行っても分からないところがあり、もう一度見に行った。それだけ、小禄には、いろんな由緒ある拝所があるということである。011
 一番見たかったのは、小禄里之子火ぬ神(サトゥヌシヒヌカン)である。地図で見ると分かりやすいはずである。通りから小道を少し入ったところで、おじいがいたので「小禄里之子火ぬ神はどちらですか」と尋ねた。「火ぬ神? この先にもあるけれど、まっすぐにはいけないから、この上の道を回っていかなければいけないよ」と言う。と言う間に、先に立って歩き出した。このあたり石畳の道が残る。
 「あそこに010 いるおじさんに聞いてみようね」。近くなので顔見知りのようだ。「○○さん、火ぬ神はどこにあるねー」と聞いてくれた。「火ぬ神なら、この下にもあるよ」と指差してくれた。駐車場の一角にある。二人のおじいらにお礼を言って見に行った。
 そこにあったのは「田原ヒヌカン」だった。字小禄の隣が田原(タバル)地区なので、田原の火ぬ神だ。
 先ほど教えてくれたおじさんが「この辺り、字小禄と田原の境になり、ここにあるのは田原ヒヌカンですよ」と言う。知らない火ぬ神を見たことはよかったが、これは探していた火ぬ神とは違う。
 火ぬ神とは、台所(かまど)の神様である。人間にとって、火はとっても大事なものだ。人間が火をおこせるようになったことは、人類の歴史上、画期的なことだった。沖縄では、どの家にも火ぬ神を祀ってある。家庭の見守ってくれる神である。それだけでなく、各集落には、火ぬ神があった。小禄はなんかとくに多いように感じる。012
 

 もう一度、出発点に立ち帰り、地図を手にして目を凝らしていると、民家への入り口のように見えた道が、なんか拝所に入る通路のような感じがする。歩いて入っていくと、立派な屋敷の前に、拝所が見えてきた。
 「あっ、これだこれだ」。ようやく探していた火ぬ神が見つかった。それが一番上にのせた写真である。
  立派な赤瓦の拝所である。小禄で見てきた火ぬ神の中でも、ぬきんでている。田原ヒヌカンと比べても、まったく異なる造り方である。その内部を見ると、右のようになる。
 なぜこんなに立派なのか?

014  それは、名前にあるように「小禄里之子火ぬ神」とは、小禄間切(いまの町村)を治めた地頭の火ぬ神だからだ。別名「地頭火ぬ神」と呼んだ。
 ついでに、ここの屋敷のブーゲンビリアがとてもきれいに咲き、火ぬ神を彩っていた。013  なんか今年は、どこのブーゲンビリアも勢いがよい。近くの漫湖公園のブーゲンビリアがここ数年、勢いがなかったが、ことしは、勢いがすごく、色鮮やかである。001_2_2

 もう一か所、前回来た時に、探しても地元の人に聞いても、分からなかったヒージャー(樋川)を偶然見つけることができた。「浜下り」で瀬長島に行った時、小禄を通ったので、もう一度、探してみようと、地図にある場所に車で行った。すると、道路わきにあるではないか。
 もう少し、大きいヒージャーだろうと、山の方ばかりに目をやっていたので、見逃した。分かってみれば、馬鹿みたいである。
 ヒーザーガー跡(後原ヒージャー小)という。
小禄の村ガー(共同井戸)の一つ。いまは樋から水は出ていない。でも最近までけっこう水が出ていたという。残念である。
 樋の横に小さな拝所がある。井戸(カー)、ヒージャーには、必ず拝所がある。

003_2_3  
 おまけ。拝所ではないが、小禄ノ嶽に行った時、山の上に御嶽があるが、その下の方の周辺には、お墓がたくさんあった。なかでも、亀甲墓が立派だった。4月に入り、沖縄では、先祖を供養する清明祭(シーミー)のシーズンである。お墓の掃除をしたあと、おもに土日曜日に、親族や門中(ムンチュウ、父系の血縁集団)が集まり、お墓の前で重箱料理などお供えして供養する。そして、みんなで料理を食べる。雰囲気的には、ピクニックのような感じである。こんな大きなお墓なら、門中も大きい集団だろう。007  門中を表すものがあった。このお墓とは無関係である。1952年になにか整備をした記念のようだ。「大里門中」の字が見える。

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