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歴史

2018年4月14日 (土)

北山王国をめぐる興亡、その9

 北山監守一族の世替り

  第一尚氏時代の北山監守は、初代護佐丸、二代尚忠、三代具志頭王子までの52年の間、北山地方を統治した。第一尚氏の尚徳王を追放し、金丸がクーデターで王位についた際、今帰仁城はどうなったのか。『琉球王国の真実』は、次のように記している。
 今帰仁城では具志頭按司が北山監守(代官)として「今北山」を守っていたが、金丸による“世替り”で一族は方々に逃げ隠れた。具志頭按司と長男の若按司は具志頭間切新城村に逃げて、屋号仲村渠(ナカンダカリ、仲村姓)の養子になり仲村渠門中(ムンチュー)の祖になった。
 次男岡春(ウカハル)の子孫は今帰仁城から諸志村に移り住み、屋号原屋(ハラヤー)の祖になった。  瀬底島に逃げた一族は内城を築き、大底(ウフスク)門中と称した。
 伊江島に逃げた一族は東江上(アガリーウィ)の屋号石橋の祖になった。 『古琉球三山由来記集』は、「尚徳王が亡んだ時に、今帰仁城もともに破れ、その子孫は各所に離散しました。この子孫だと称する旧家が、小禄間切、豊見城間切、摩文仁間切。東風平間切、羽地間切、宜野湾間切等にあります」とのべている。
 第二尚氏の始祖となった尚円王は、重臣のなかから北山監守を選任し、輪番にこれにあたらせた。三代目の尚真王は、北山監守は重要な守護職として、三男尚昭威を任じ、北山地方の統治を強化した。尚真王は、地方の按司たちを首里に集居させ、武器を取り上げ、中央集権を強めたが、北山だけは、今帰仁城にいて監守していた。七代監守の際、今帰       仁城から首里に引き上げ、その後は首里に居住して監守の役をつとめた。

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                  今帰仁城跡

  「元は今帰仁」

  「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んでことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン」(元は今帰仁)というようになったが、「仲今帰仁城主」や「後今帰仁城主」も元をただせば浦添城の英祖王の子孫でさらに大元は大里天孫氏や玉城アマミキヨの先祖に結びつく。結局、「ナキジンヌムートゥヤ・タマグスク」(今帰仁の元は玉城)なのである。

 以上が北山の今帰仁城をめぐる興亡の伝承のあらましである。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』は実際には三山全体の歴史について、詳細な伝承を集め、体系的に記している。
 北山関係だけ抄録すると、系図の説明をしているようで、面白みに欠ける。ただ、これまでよく知らなかった北山の歴史、それも古い時代からの「先北山」「仲北山」「後北山」さらには「今北山」という王統の交代に応じた時代区分がされているので、理解しやすい。
 それにしても、北山の支配をめぐる攻防だけを見ても、戦国史をみるような激しさである。今帰仁城主が交代するたびに、前の城主と一族、家臣らは北部から中南部に落ち延びた。本島各地に今帰仁から逃れた人たちの子孫が住み、たくさんの伝承が残されていることは、もっともである。
 逆に、南山では、幾度もの争いと南山滅亡によって、勝連半島や周辺離島、さらには久米島、先島、朝鮮半島にまで逃げ延びたという伝承がある。
 いうまでもなく、記述はあくまで言い伝えられてきたことであり、そこには脚色された物語もある。伝承といっても同じ事柄でいくつもあって、どれが真実に近いのかもよくわからないこともある。
 ただ、史実が詳細に分からない以上、伝承を調べることは、史実に接近する糸口になるだろう。また、伝承はかつて、つわものたちが争った時代と歴史への想像をかきたててくれる。そこには、歴史のロマンがある。
 各地を歩いていると、今帰仁から逃れた話や今帰仁にかかわる人物の墓所もある。今帰仁に向かって祈願する今帰仁遙拝所がある。伝承は、たんなる言い伝えにすぎないとしても、各地の北山の興亡にかかわる史跡は、物言わないけれどたしかな歴史の重みを感じさせてくれる。そんな史跡などに出会った時、北山をめぐる攻防の伝承と歴史を思い起こしたい。これまでとは、また違った目で見ることができるだろう。

   終わり     文責・沢村昭洋

 

北山王国をめぐる興亡、その8

 護佐丸と伊覇按司系統の発展

 伊覇(イハ)按司初代の長男は伊覇按司二代目を継ぎ、次男の山田按司は、読谷山村に山田城を築いた。山田按司の次男・護佐丸(ゴサマル)は父の跡を継いで読谷山按司になった。座喜味城を築いた後に中城に移り、中城按司になった。護佐丸は1416年の北山攻めの時は26歳の青年将校だった。1429年の南山進攻には41歳になっていて中山軍の大将として全軍を指揮した。
 1439年に尚巴志の死去により、護佐丸は第一尚氏王統の一番の功労者として娘婿の尚泰久王にも遠慮しない目付け役的存在になったのである。また護佐丸は、北山滅亡時に北山太子を山田城で匿い、南山滅亡後には南山王の甥の国吉之比屋を家来にしたりする勝手な行動に、異を唱える重臣も多かったことが推察される。

 1453年頃、阿麻和利(アマワリ)が10代目勝連按司になると、中城按司・護佐丸と互いに牽制し合う状況になった。  1454年、婿の越来按司が尚巴志王統6代目として王位に就き尚泰久となってからは、もはや護佐丸の天下のごとくであった。  阿麻和利は「護佐丸は中城を増強し、城内の鍛冶屋で武器を増産して、首里城を攻める準備をしている」と、尚泰久王に讒言した。
 1458年、尚泰久王は阿麻和利に護佐丸討伐の許可を与え、王府軍は中城を攻めた。月見の宴の最中に攻め上がってき来たので、不意を衝かれた護佐丸は、多勢に無勢で、むなしく自刃したという。  長男と次男の消息は不明である。護佐丸は自害する時、三男の盛親(幼名は亀寿)はまだ赤子なので殺すに忍ばれず、国吉之比屋に頼んで乳母と共に東の崖から帯を命綱にして逃した。真栄里村の乳母の実家で匿ってもらって育てていたという。
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                     護佐丸父祖の墓
 後に、尚巴志王統を倒して即位した尚円王は「護佐丸の遺児が健在なら名乗り出るように」という御触れを出したので、国吉之比屋が13歳の盛親を伴なって首里城に出頭した。盛親は叔父の安里大親のもとで養育を受け、成人して豊見城間切総地頭となり豊見城親方と称した。盛親は毛氏始祖となり、豊見城毛氏は首里王府で出世を重ね子孫も繁盛して、その数は5万人ともいわれる。 伊覇按司初代の次男・山田按司の長男、伊寿留(イズルン)按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだあとに百姓になり、伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号・伊寿留安里の祖になった。
 三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み、金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親(アサトゥウフウヤ)と名乗った人物である。
              Img_1478                護佐丸の墓  
 護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万とも5万ともいわれている。  伊覇按司二代目は、尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地に城主として配置した。安慶名(アギナ)大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司六代目・玉城按司・高嶺按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。
 伊覇按司の四男、安慶名大川按司の三男(系図では四男)、喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。

北山王国をめぐる興亡、その7

 北山を攻めた尚巴志

 『琉球王国の真実』に戻る。
 1416年に尚巴志は北山を攻めるため進軍し、読谷山では読谷山按司をはじめ浦添按司・越来按司・伊覇按司などのおよそ二千の軍勢が合流した。一方、運天の寒手那(カディナ)港には、国頭按司や名護按司・羽地按司等の軍船と700余の兵士が集結していた。
 国頭按司と名護按司・羽地按司が先鋒を務め、総大将の尚巴志は北の平郎門から、副大将の読谷山按司護佐丸は南の志慶真門から攻め込んだ。  今帰仁城の守りは堅固で、3日間の戦闘で中山連合軍の戦死者は500人を越えた。尚巴志は作戦を変え、今帰仁城の侍大将の本部平良(モトブテーラー、太原とも書く)に賄賂を贈り、北山の不利を説き中山軍に寝返らせることに成功した。志慶真門から密かに護佐丸軍が忍び込み、建物に火をつけたので場内は大混乱になり、北山兵は敗走した。 「後北山」攀安知(ハンアジ)には、5名の王子がいたと伝えられる。

 15歳ほどの長男北山太子(仲宗根王子)は戦死したといわれているが、実は護佐丸の手配により北山太子と乳母の2人を密かに船で渡名喜島(トナキジマ)へ逃した。1年待たずに護佐丸の使いが迎えに来て、島尻方面で妻を娶って暮らしたと伝えられる。八重瀬町富盛には北山太子の長男の後裔がいるという。  攀安知王の次男の志慶真王子は、姉と王の弟・湧川大主に守られて南山領内に逃れた。王子の母は、南山王他留毎の姉で、和睦のために北山王攀安知に嫁いでいた。
 072                  今帰仁城跡

 1429年に(尚巴志に攻められ)南山が滅んだ。20歳前後になっていた志慶真王子と湧川子(湧川大主の長男)は、南山軍に加わり中山軍と戦ったが与座山中で戦死した。  志慶真王子の子孫は百次(ムンナン)門中(百次姓)で、湧川大主の子孫は名嘉・湧川門中(湧川姓)として、糸満市潮平を中心に子孫が広がっている。 攀安知王の幼い三男外間子(フカマシ)と四男喜屋武久子(チャンクシ)の2人は母とともに捕虜となり、佐敷間切津波古で百姓として生涯を終えた。
 五男虎寿金(トウラジュガニ)は、落城後に生まれたので、母親とともに南風原間切兼城村の内嶺按司の捕虜となった。後に、尚円王の引き立てで兼城按司の養子となった。  攀安知の頭役平敷大主(ヘシキウフヌシ)は勝連半島に逃げて、現在のうるま市平敷屋集落を創った。
 1416年、「後北山」の攀安知王を亡ぼした中山王尚巴志は、護佐丸を今帰仁城に6年間駐留させ、北山監守として戦後の北山を監視させた。護佐丸は「今北山」初代として北部沖縄の統治を任され、遠く奄美大島までその管理下に置いた。
 『今帰仁村史』は次のとおり記している。 彼(護佐丸)が北山城に駐とんしてからは、後北山系の与論島や沖永良部島をはじめ、遠く鬼(喜)界島や大島なども服従させた。そして、これらの島々から住民を徴用して座喜味城構築の人夫として使役させた。こういうことも北山城にあって、北山地方を監守したからできたのである。
 『琉球王国の真実』に戻る。
 尚巴志は北山地方を治めるのに、「仲北山系」の人材を登用した。まず自らは伊覇按司の娘を娶り、生まれた子は成長して越来王子(後の尚泰久王)や伊覇按司三代目(養子)になった。
 1421年、尚思紹王が亡くなったのに伴い、尚巴志が中山王となり、次男具志頭王子尚忠が二代目北山監守になった。同時に、護佐丸は読谷山に戻り、座喜味城を築き読谷山按司と称した。尚巴志が亡くなると、北山監守の尚忠が王に即位し、弟の具志頭按司が三代目北山監守となった。

北山王国をめぐる興亡、その6

 攀安知による強権政治  

 「後北山」では、1390年頃、怕尼芝(ハニジ)王が死んだので、世子伊江王子播(ハン)が王位に就いた。怕尼芝は羽地の当て字で兼次の北部なまり語で、播とは金の北部なまり語である。
 それから数年して伊江播王は高齢になったので、1396年に東大里按司を迎え、王位を譲り伊江島に隠居した。東大里按司は南山の保栄茂(ビン)城生まれだったので珉(ビン)王と称していたが、まもなく病気のため急死した。そのとき、伊江播王の妾・伊江播加奈志(花のモーシー)の王子攀安知(ハンアジ)が珉王の王子を退け、王位を奪った。攀安知は武勇に優れ、前王の家臣の意見も聞かず独断専行の政策を敷いた。攀安知は「ハンアンチ」と読んでいるが、本来は「播王の王子」のことなので、「播按司」(ハンアンジ)と書いた方が良いと思う。
 『今帰仁村史』は、「珉は二代目の怕尼芝の長男であったと思われる」とのべ、あくまで、怕尼芝の血統であるという立場をとっている。 『古琉球三山由来記集』は、珉王の治世を次にのようにのべている。
 「父怕尼芝王の薨去されたのちは、父君の志を受け継いで善政を施し、道徳を行ない、治績をあげたと推測されます。怕尼芝王から、この珉王時代は、国内は太平無事でした」  『琉球王国の真実』に戻る。

 珉王の長男の千代松若按司(13歳)と一族は島尻に逃れ、具志頭間切新城村に落ち着いた。叔父の佐敷按司に救いを求めたとの言い伝えも残っている。
 今帰仁城の攀安知王は双子の兄で、弟の湧川大主ともども武勇に優れ、領内の各按司を武力で制圧し強権政治を行っていた。南山とも政略結婚で姻戚を結び中山を挟み撃ちにする計画であったといわれ、南山王の長男の豊見城按司(後の他魯毎王)の嫁として湧川大主(新里屋)の妹を輿入れさせていた。他魯毎(タルミー)は北山の婿になったので、渾名(アダナ)で今帰仁按司とも呼ばれた。逆に北山王は、南山他魯毎王の姉を妃として今帰仁城に迎えていた。
 攀安知の恐怖政治に恐れを抱いた北山各按司は、次第に攀安知と距離を置くようになった。「仲北山」系の国頭按司・名護按司・羽地按司は中山の尚巴志に使者を送り、攀安知を成敗するように嘆願した。
 (後北山でも、後継者をめぐり内紛があった。珉王が急死すると、王子を退けて、攀安知が王位を奪ったという。珉王が、伊江播王の子どもではなく、南山生まれの東大里按司であるとすれば、伊江播王の妾の子とはいえ、長男にあたる王子であり、武勇に優れた攀安知にとって、珉王の王子が王位を継ぐことは我慢ならないことだったのだろう。しかし、その強権をふりかざした恐怖政治が、身を亡ぼすことにつながっていく)

068                 今帰仁城跡

 『今帰仁村史』は、攀安知について次のようにのべている。
 彼は、資性はなはだ剛毅にして、武勇は絶倫であった。常に中山国を討って天下をにぎろうとの野望をいだいていたが、武力をたのんで善政をしかなかったため、一族の名護、羽地、国頭など、近隣の諸按司からきらわれ、読谷山按司護佐丸もまた、北山をつけねらっていた。

 護佐丸について、『今帰仁村史』は次のように書いている。
 読谷山按司は読谷山城(山田城)にあって、機会あらば、中北山の仇敵である後北山の怕尼芝を討たんものと、その準備をすすめていた。  ところが、後北山はますます強大になるばかりで、どうすることもできなかった。そうしているうち、読谷山按司には後つぎがなかったので、兄弟の伊波按司の二男を迎え入れて跡(ママ)つぎにし、二代目の読谷山按司とした。この二代目の子に生まれたのが護佐丸兄弟である。
 護佐丸も父祖伝来のかたきである後北山をねらって、その時節到来を待った…そのころ、佐敷城の尚思紹、尚巴志父子が中山王武寧を討って、いきおい甚ださかんで、また人望が厚かった。これを知った中北山系の人たちは、首里城に尚思紹父子をたずね、事の次第をのべて、その助勢を願った。
 (後北山の怕尼芝から明国に朝貢を始めた。怕尼芝王は7回、珉王は1回、攀安知王は11回、明に使者を派遣した=『グスク文化を考える』の名嘉正八郎著「今帰仁城跡の考察」から)

北山王国をめぐる興亡、その5

 落ち延びた今帰仁按司とその子孫

 年老いた丘春は敗走し、かつて幼少のとき世話になった大北地方の読谷山(ユンタンザ)間切に逆戻りし、渡具知(トグチ)村の比謝川河口近くの鷹見崖(タカミーバンタ)の岩山に泊城を築いて再起を待った。泊城は篭城(クマイグスク、隠れ城)とも呼ばれた。対岸の魚見崖の岩山の中腹の洞窟に、今帰仁から移した父祖の墓を造った。その洞窟は、イリタケーサーガマと呼ばれている。墓の入り口は北の今帰仁城を向いていて、「仲今帰仁按司祖先之墓」と刻まれた石碑が建てられている。
 タカミーバンタの岩山には、丘春とその妃真玉津(マタマツ)および臣下の墓があり、墓の入り口は東方川向かいの仲昔今帰仁按司祖先之墓を向いている。  今帰仁按司丘春には仲宗根若按司のほかにも名護按司・大宜味按司・先代大湾按司・先代山田按司の4名の息子がいて、「仲北山」落城後は方々に散って再起を待っていた。「仲北山」旧臣たちとも連絡を取り合っていた。

 今帰仁按司の婿である津喜武多(チキンタ)按司は、西原間切古波津(クハチ)村に城を築いた。隣の幸地城の熱田之子(アツタヌシー)は、「仲北山」の落武者が自分の領地近くに城を構えたことを、快く思っていなかった。熱田之子は、義本王6代目の子孫であるといわれる。津喜武多按司を訪れ、名刀を見せてほしいと頼み、出してきて渡したとたん、いきなり切り殺した。
 娘婿を殺された丘春は、仇を討つため手勢を連れて幸地城に向かった。熱田之子は、間違って殺(アヤ)めたと謝罪した。丘春は歓待されて、夜道を帰る途中、闇討ちにされ、全員殺された。
 丘春の息子4人の中には戦死した仲宗根若按司の他に、初代山田按司と初代大湾按司もいたが、彼らはこの時に幸地軍に殺されたともいわれている。丘春や息子たちの死は秘密にされ、墓も隠され初代山田按司と初代大湾按司は唐旅(「あの世」)に行ったと伝えられていたのを、中国へ行ったという伝承に変わったようである。 (中国に渡るのは危険なことから、唐旅はあの世に行く代名詞となっていた)。
 その後、父を殺された丘春の4名の子の孫たちは、力をあわせて熱田之子を討ち取ったといわれる。  1374年、戦で深手を負った「仲北山」城主仲宗根若按司は、いったん本部間切具志堅村に隠れていた。具志堅村から名護間切屋部(ヤブ)村まで来たところで息を引き取った。
 父の遺体を葬ったあと、八男の今帰仁子は美里(ンザトゥ)間切伊覇(イハ)村に逃げた。嘉手苅(カディカル)村はずれのガマ(鍾乳洞)に隠れていた。美里大主に認められて婿となり、伊覇(伊波とも書く)城を築き初代伊覇按司となった。伊覇按司と妃・真鶴金の間には三男一女が生まれた。 Photo_3

                 伊敷賢著『琉球王国の真実』から
    
 伊覇按司初代の長男は、伊覇按司二代目を継ぎ、次男山田按司は読谷山間切読谷山村(後に山田村になった)に山田城を築き、三男の大湾按司は読谷山間切大湾村に大城を築いた。「仲北山」の再興を誓い合っていた。
 伊覇按司の娘・真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、越来王子、後の尚泰久王を生んだ。  次男の山田按司は、長男・伊寿留(イズルン)按司、次男・読谷山按司護佐丸(ゴサマル)盛春、三男・大城掟親雲上清信を生んだ。
 『古琉球三山由来記集』は、山田按司について次のように記している。  「伝えいう。一世山田按司は、仲今帰仁仲宗根若按司の子すなわち今帰仁の子にして、母は当今の美里間切伊波村の女なり、云々。  かつ、この山田按司は一男一女を生む。長男は山田按司と称すが早死す。長女は真亜度金(マアトガニ)と称す。山田按司は長男若按司が早死したので伊覇按司の子を婿養子とし、跡を継がす。これ二世山田按司なり。二世山田按司の子二子あり。山田按司、越来按司これなり。三世山田按司の子四人あり。長男伊寿留按司、次男中城按司護佐丸、三男山田按司、長女乙樽金(ウトゥタルガニ)これなり」

 (ここで、琉球の歴史上名高い、護佐丸が登場する。護佐丸の祖父、伊覇按司は「仲北山」で今帰仁城主だった仲宗根若按司の息子であり、その父は丘春となる。つまり、護佐丸は、英祖王系の今帰仁城主だった丘春の子孫となる。尚巴志が北山を攻めたとき、護佐丸にとって、同じ英祖王系でありながら、羽地按司によって今帰仁城を奪われた先祖の積年の恨みをはらす機会となった。
 系図のなかで、『古琉球…』は、一世山田按司の長男は早死したので、伊覇按司から婿養子をもらい跡を継がせたとなっている。伝承によって当然、異同はある。)

北山王国をめぐる興亡、その4

 羽地按司が奪い取る

 丘春が今帰仁城を奪還して34年後の1374年、「仲北山」では丘春が隠居して、今帰仁城主を息子の仲宗根若按司に譲ったとたんに、従兄弟の羽地按司が名乗り出て、「我が父は英祖王次男湧川王子の長男湧川按司であり、本来、今帰仁城主は自分が継ぐべきである」と主張し、戦乱の末に今帰仁城を奪い取った。「後北山」時代となる。
 羽地按司は、察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた。北山王怕尼芝(ハニジ)と称し、1383年、明国の冊封(サッポウ)を受けた。当時、察度王の承諾がなければ明国に進貢できなかったと考えられる。

 湧川按司は湧川王子の長男だが、本部大主が北山城を攻略した時、親泊村から湧川村に逃げてきたのである。次男の今帰仁按司・丘春が北山城を奪還したので、今帰仁城主になれず湧川村の屋号新里を継がされていたので、家出して羽地に親川グスクを築き田畑を開拓して勢力を広げた。開拓した田畑は羽地ターブクァ(田園)と呼ばれた。
 (これまで義本王系と英祖王系の争いだったが、今度は同じ英祖王の系統の中での支配者争いである。羽地按司というと羽地出身の者のように思いがちだ。でも、これによると、湧川王子の長男・湧川按司の息子であり、本来、今帰仁城主は次男の今帰仁按司の息子である丘春が継いだのがおかしい。自分が継ぐべきだったと主張して争った。戦乱の上、城を奪取したという。この丘春の子孫たちが、この後また北山攻めに向かうことになる。

 冊封とは、中国皇帝に朝貢して皇帝から国王として認証を受けることをいう) 『今帰仁村史』は、怕尼芝(ハニジ)について次のようにのべている。
 伯尼芝は、羽地按司として川上部落の親城から親川の羽地城に移り、羽地間切を統治し、地の利にめぐまれて豊富な産物を得たので、勘手納港を貿易地として海外との貿易もさかんにしていたであろう。そして莫大な富による大勢力があって、そのいきおいをもって中北山を追い出したであろうことが考えられる。

2               今帰仁城跡の火ヌ神

 『村史』は、怕尼芝が北山王となったのは1322年とする。「彼が追い出した中北山の今帰仁世の主とは、いとこ同志の間柄であった。怕尼芝は分家から出て、その本家を乗取ったのである。これは一族内における一種のお家騒動ともいうべく、また、親族同志の権力争いでもあった」。
 後北山は、1322年から1416年に尚巴志に亡ぼされるまで94年間とする。王代は三代と四代の二説があるが、初代の怕尼芝王の在位年数が69年とあまりにも長すぎるので、初代と二代珉王との間にさらに一代あったのではないか。初代怕尼芝が亡くなった跡目を継いだ羽地按司が、同じく怕尼芝を名乗ったと推測している。
 『琉球王国の真実』は、羽地按司が今帰仁城を奪ったのはもっと後の時代とする。「察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた」とする。また、後北山時代を三代ではなく四代としている。『村史』と同じである。

北山王国をめぐる興亡、その3

 本部大主が城を乗っ取る

 1322年、本部大主が策をめぐらし、侍大将の湧川按司を国頭の山賊の成敗に行かせて、その留守中に城を乗っ取ったのである。幼い千代松金は乳母に抱かれて、父の従兄弟の北谷大主(チャタンウフヌシ)のいる北谷城下の砂辺村に身を隠した後、名前を丘春(ウカハル)に変えて殿内屋(トゥンチャー)で育てられた。
 (湧川王子の息子)仲今帰仁按司の弟も、今帰仁城主の子孫なので、今帰仁子(ナチジンシー)と呼ばれ、兄が本部大主に滅ぼされた時、真和志(マージ)間切に逃げた。  今帰仁子には3名の男子がいて、長男・今帰仁子は真和志間切識名(シチナ)村に住み、屋号今帰仁の祖になり、次男は同じ識名村の屋号花城(ハナグスク)の祖になり、3男安座名子(アザナシー)は東風平(コチンダ)間切に今帰仁村(後に外間村に変わる)を創設し、屋号安座名(神里姓)の祖になった。

 仲今帰仁城主の弟である喜舎場主(キシャバシュー)は、本部大主に攻め滅ぼされた時、古宇利(コーリ)島経由で久志間切平良(テーラ)村に逃げた。数年して勝連間切比嘉(ヒジャ)村(浜比嘉島か)に渡り、島の娘と男子を生み、その子孫が比嘉村の屋号平良や屋号新屋(ミーヤ)である。  数年して喜舎場主は比嘉村を離れ、中城間切和名(ワナ)村に渡り、さらに喜舎場村に移り住んで落ち着いたという。 仲今帰仁城主の末子の志慶真樽金(シキマタルガニ)は久志経由で高離島に逃げ、島の北東の岬に泊城を築いた。泊城は隠れ城とも呼ばれ、川端イッパーと名を変え、北隣の伊計城のアタエ城主と反目していた。北風が強い日にアタエ城主は伊計城から上空に灰を撒き散らしたので、泊城の兵隊は目が開けられない状態になって川端イッパーは敗れた。平安座島に逃げ、その子は先川端按司と称し、孫は川端按司と称した。
 (英祖王系の湧川王子が亡くなると、家来になっていた義本王系の本部大主が、今帰仁城を奪い返したということである)
057                 今帰仁城跡
 本部大主の乗っ取りと滅亡について、『古琉球三山由来記集』は次のような伝承も紹介している。  本部大主が「謀反を企て夜中に1600人の兵をひきいて今帰仁城を攻めて火を放したり。そのとき今帰仁城主は、焼死されたり。妻子は畑中より逃げ出て近道を分け出て、北谷間切砂辺村の殿内屋という家内の下女となる。子は氏名を隠して丘春と称し、砂辺村の殿内屋の下男となり、馬の草刈をなしいたり。荏苒(ジンゼン、なすことなく歳月が過ぎる意味)の中に大宜味間切に旧臣の集り居るを聞きつけて、夜中に大宜味間切に行き、集る軍兵2300人をひきいて羽地間切寒汀那(カンテナ)の浜に進み至り、そこにおいて本部大主と大いに戦ってついて本部大主を殺し、旧城を取り返して城内に入り、城主となるを得たり。その後、北山は大いに治まる」 四散していった本部大主の一族 18年後の1340年に、本部大主(ムトゥブウフヌシ)が亡くなり、今帰仁城主の後継者争いに乗じて、大宜味(オオギミ)城で湧川按司をはじめ旧臣たちが今帰仁城奪還の旗揚げをしたので、丘春は旧臣たちとともに今帰仁城を奪い返した。

 (いったん城を奪い返した義本王系の本部大主も、亡くなると再び、英祖王系の丘春ら旧臣たちが、また城を奪い取った。そのため、義本王系の一族は、本島の南部をはじめ各地に逃げ延びていった)  本部大主の一族は四散していった。  本部大主の長男は先代・健堅(ケンケン)大主で、敗戦後は国頭間切(マギリ)安田(アダ)村に逃げ隠れた。次男に運天(ウンテン)大主がいる。三男の東名(アガリナ)大主は、姉の息子二人を連れて、平安座島を経由して大里間切の上与那原(イーヨナバル)村に移り住んだ。

 東名大主と謝名大主(ジャナウフヌシ)の息子兄弟は、平安座島を経て上与那原村に来た。東名大主の子孫は、与那原に住み、屋号新里の祖となった。姉の息子2人のうち打ち1人は謝名大親と称し東大里按司(アジ)に仕え、屋号謝名(照屋姓)の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋(ティーラ)の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主(フルゲンウフシュ)は、大里間切(マギリ)古堅村照屋門中(ムンチュウ)の祖となった。
 与那原役場の前の広場に東名大主を祀った拝所があり、その東側下方に謝名門中元屋(ムートゥヤ)がある。周辺は小高い丘になっていて、与那原発祥の地で、明治時代まで上与那原村と称していた。東名大主の妻は初代の与那原ヌル(神女)になった。謝名門中は福地姓・新垣姓もあり、平安座島の屋号謝名や今帰仁城を7年おきに参拝しているという。

北山王国をめぐる興亡、その2

 「昔北山」のはじまり
 

  ここから話は北山に入る。伊敷賢著『琉球王国の真実』から紹介する。
  天孫氏25世の今帰仁王子が「御先北山」の山原(ヤンバル)地方を治めていた。源為朝が1165年に伊豆の大島から琉球に来て、運天港に上陸して間もなくガソー屋の娘(後の勢理客=ジッチャク=ヌル)との間に大舜(タイシュン)が生まれたという根強い伝説がある。
       Photo_2             伊敷賢著『琉球王国の真実』から

 大舜が長じて「御先北山」を攻め、今帰仁按司を亡ぼし、「先北山」初代として今帰仁城主となった。「先北山」のことを「古北山」とか「昔北山」という古老もいる(別表参照)。 『今帰仁村史』は、北山の時代区分が異なる。舜天王統の始まる前までを「前北山」(先北山)とし、1187年に「前北山」が終わったとする。それ以降、1322年、怕尼芝(ハニジ)に滅ぼされるまでの135年間を「中北山」(仲北山)時代としている。中北山が滅ぶ時期も異なっている。
 『村史』では、大舜は、舜天の兄にあたるという。天孫氏25紀に、その王統を亡ぼしたとされる権臣利勇を舜天が亡ぼして中山王になってから、今帰仁に住んでいた兄の大舜を助けて、今帰仁城の天孫氏を追い出して大舜を城主にしたと考えられる、という。また、もともと北山が天孫氏の支配下にあったのではなく、天孫氏は今帰仁から次第に中南部に広がったという見解である。

 今帰仁村歴史資料準備室編集の『なきじん研究1993vol3 今帰仁の歴史』では、特に文献に出てくる14世紀以後の今帰仁を次のように時代区分している。
①グスク時代(狭義)……山原各地にグスクが割拠していた時代(11,12世紀~13世紀末)
②山北王時代……怕尼芝・珉・攀安知が明国と交易をし隆盛をきわめた時代
③第一監守時代……尚忠、子弟(具志頭王子)が監守を勤めた時代(略)
 
 注・「先北山」「中北山」の時代は「グスク時代」として一括されている。 ここで「山北王時代」というのは、今帰仁城が築かれてそこを拠点として山原地域を統括していた時代をさしている。…山原で権力が集約され、今帰仁城を拠点として山原を支配していった時代である。対外的には、一国として交易を行い、「山北王」が文献に登場(『明実録』など)してくる時代でもある。
          056                     今帰仁城跡
 英祖王系統が支配者に

 『琉球王国の真実』に戻る。 大舜には男子がなかったので、舜天王統の2代目、舜馬王の子を「先南山」から養子に迎え、「先北山」二代目として今帰仁按司と称した。  今帰仁按司にも男子がなかったので、三代目は義本王(舜天王統の3代目中山王)三男の今帰仁王子が養子になった。4代目今帰仁若按司は「先南山」の養子になった。
 「先北山」二代目の時に義本王が退位したため、新しい中山王になった英祖は次男湧川王子を北山に送り込み、北山世之主と称し、「仲北山」初代とした。湧川王子は旧「先北山」系の本部大主(ムトゥブウフヌシ)と姻戚を結び、徐々に今帰仁地方を治めていった。本部大主の父は、義本王の庶子の本部大君である。

   (つまり、「先北山」では舜天王・義本王の系統が支配していたのに、義本王が英祖王にとって代わられ、北山も英祖王の系統で支配されることになった。ここから「仲北山」の時代に移る。同じような名前がたくさん出てくるので、頭が混乱する。それで、義本王や英祖王の系統として整理をすると理解がしやすいので、そのように説明する) 

 『今帰仁村史』は、義本王を押し出し王位について英祖は、舜天に滅ぼされた天孫氏の直系であり、「英祖によって元の天孫氏が復活されたのである。いわば、天孫氏系は、その仇を討って、元の王位の座におさまったのである」とのべている。  北山に送り込まれ「仲北山」初代となった英祖王の次男、湧川王子は、地元有力者の先代・湧川大主の嫁を娶り勢力を安定させていったが、「先北山」の家臣には服属しないものも多かった。湧川王子には、長男・湧川大主と次男・今帰仁按司がいたが、本部大主の婿となった今帰仁按司が「仲北山」2代目を継いだ。  本部大君の息子の本部大主は、祖父王(義本王)の失脚で英祖王次男・湧川王子の家来になっていて、娘は今帰仁按司の夫人になっていた。

 中年まで子がなかった今帰仁按司は、今帰仁で一番の美人・志慶真乙樽(シキマウトゥダル)を側室に迎え、ようやく男子が生まれ千代松金と名付けて大事に育てられた。 (志慶真乙樽は絶世の美女で、王のために尽くしたとして、伝説、民話がある。今帰仁城跡には、彼女のことを詠んだ琉歌の大きな歌碑がある)
 千代松金が1歳にならないうちに王は病気で亡くなった。死ぬ前に王は重臣を集め、跡継ぎは皆で協議して決めてほしいと遺言した。

北山王国をめぐる興亡、その1

  北山王国をめぐる興亡
 
 このテーマで2013年にアップしていたブログの記事が、いつの間にか画面が真っ黒になり読めない状態になっていて、ご迷惑をおかけしました。改めてここに再掲することにしました。ブログのデザインも変更して、今回はなんとか正常に表示されました。よろしくお願いします。

 伝承にみる北山の歴史

 琉球の「戦国時代」とも呼ばれる時代があった。沖縄本島では、各地に按司(アジ)と呼ばれる豪族のような支配者が勢力を争った。本島のなかで、北山、中山、南山という小国を形成した。
 15世紀の初め、尚巴志が中山を攻め、その後、北山、南山も制覇して琉球を統一した。中山が三山を統一したので、琉球国王は中山王と称していた。だから、王府の編纂した正史も、中山が軸となり描かれており、北山、南山の歴史はよく分からないことが多い。

 山原(ヤンバル)を統治していた北山の居城は、いまは世界遺産になっている今帰仁(ナキジン)城である。この城跡を見るたびに、北山は尚巴志に敗れる前には、どんな歴史があっただろうか、と思いが頭をよぎる。  それに加え、本島各地を歩くと、「今帰仁から流れてきた」という言い伝えとそれにかかわる史跡がいくつもある。今帰仁に向かい御願(ウガン)する遙拝所もある。しかも、尚巴志に敗れるより以前に、争いに敗れて落ち延びた伝承がある。
 しかし、通常の歴史書では、伝承は史実とは認められないので、北山が明国に朝貢し『明実録』にその記述がある「後北山」という時代以降の歴史を記した著書が多い。

054
 いったい今帰仁城をめぐり、北山ではどんな興亡があったのだろうか。まとまった著書を読んだことがない。もっと詳しく知りたいという思いがあった。そんなとき、たまたま読んだのが伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』である。
 著者が沖縄各地を歩いて、その土地に伝わる膨大な伝承を収集して、琉球三山時代の歴史を詳述している。北山、中山、南山それぞれに詳細に記述されているので、とても興味深い。
 先行する研究として、東江長太郎著『通俗琉球三山由来記』(1935年出版)とこれを編集した『古琉球三山由来記集』(1989年)がある。東江氏は明治期から沖縄の津々浦々をかけめぐって集めた野史、口碑、伝承をもとに、『通俗』はガリ版刷りで発行した。
 もちろん、学問としての歴史は、文字に書かれた史料、発掘された出土品など、裏付け資料がなければ史実とは認めない。しかし、琉球の古い時代の歴史は、文字に記されていないことが多い。あっても戦災で失われたものも数多い。それに、各地を歩くと、さまざまなお墓、拝所、史跡などがある。それぞれに古い時代を伝える伝承、野史、民話、歌謡などがたくさんある。それらは、当然史実とはいえないけれど、その中には、貴重な史実が含まれているだろう。
 著者は、正史といわれる歴史書だけ見ても本当の歴史はわからない、そればかりか「真実を歪曲し、為政者のために編集されている」ことがある。だから、「伝承がすべて真実の歴史を伝えている」と言うつもりはないが、「野史や口碑の中には真実に近い事跡が多く含まれていることは事実である」と強調している。
     Photo_2

            伊敷賢著『琉球王国の真実』から
 そんなことで、本書の中から、北山の歴史について、私流に興味のある部分を抽出してみた。著書を勝手に利用させていただいたが、私の個人的な読書ノートである。文章を抄録したり、文章のつながりなどのため、多少の手を入れたところもある。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。
 なお、『古琉球三山由来記集』『今帰仁村史』からも、折に触れ紹介させていただいた。ここまでは前置きである。  神話時代の天孫王統  北山に入る前に、琉球は神話時代の天孫氏の王統があり、その25世、思金松兼(ウミカニマチガニ)王天孫氏がいた。しかし、「徳おとろえて武威がふるわず」、権臣の利勇(リユウ)が君を殺し、みずから国君と称した。「このため四方騒乱し、兵乱が大いに起こって、按司、酋長は各々兵権によって雄を争うようになり、そのため人民は塗炭の苦しみを受けるようになりました」
 逆臣利勇を討ったのが、源為朝の子で、浦添按司だった尊敦(ソントン)、のちの舜天王である。(『古琉球三山由来記集』)。

2013年11月 8日 (金)

カツオ節の源流はモルディブ?、その2

 

琉球でカツオ節を作っていたのか

 

このモルディブ源流説には、異論、反論もあるようだ。ネット「ウィキペディア」によれば、魚を乾燥させて固くした食品は世界各地にある。日本では、5世紀には干しカツオが作られていたとみられる。ただ、現在のカツオ節とはかなれ異なる。飛鳥時代には干しカツオが献納品として指定されていた。現在のカツオ節に比較的近いものが出現するのは室町時代だとのことだ。

 

モルディブから琉球にカツオ節の製法が伝わったとしても、なぜか琉球には王府時代、カツオ漁業もカツオ節の製造もなかった。それは、琉球王府の時代、農業重視の政策がとられて、漁業は抑えられ、漁師がいたのは、糸満など一部地域に限られていたことがある。それについては、「大漁唄のない沖縄の不思議」をブログでもアップしてある。
 

カツオ節だけでなく、魚を乾燥させて干物とする習慣が沖縄にはない。いまでも、沖縄産の魚の干物はない。スーパーで売られている干物は、鹿児島はじめ県外産である。たぶん、島国で海に囲まれていて、海から遠い山国のような地方はない。山の多い山原(ヤンバル)も、周囲は海である。だから、魚の干物、塩漬け、醤油漬けなど保存食はほとんどない。あるとすれば、「スク」という小魚の塩漬けくらいだ。 

Photo                  『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ節


 

カツオ漁業とカツオ節の沖縄での始まりは、明治後期のことである。 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。座間味村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことである。だから、琉球王府の時代は、漁業としてのカツオ漁やカツオ節製造はやっていなかったというになる。

 現在、沖縄はカツオ節をたくさん消費する県となっている。他県と比べても消費量は結構多いほうだと思う。

 

ひとつ興味深いのは、王府時代に琉球貢船によって中国へ持ち運ばれた物品のリスト(乾隆34年、1769年)のなかに、「佳蘇魚175觔(キン)」とあることだ。カツオのことである。これは、鮮魚ではなく、カツオ節ではないだろうか。
 
 琉球から中国に持ち運ぶ物品のなかでは、海産物が重要な比重を占めていた。なかでも、「海帯菜」(昆布)、「鮑魚」(干しアワビ)、「魚翅」(フカヒレ)が突出して多い。佳蘇魚は極め少ない。昆布も沖縄にはなくて、北海道産など大和から持ち込まれた。この佳蘇魚も、薩摩・トカラ方面から持ち込まれたのだろう。

 

まあ私的には、べつにカツオ節の源流について究明する気はない。カツオが獲れた国、地方で、それぞれカツオ節の製法を考えて、カツオ節を製造するようになったことも大いにありうることだ。
 
 まあカツオと黒潮は切っても切れない縁があることだけは確かだ。

 

 

 

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