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歴史

2013年11月 8日 (金)

カツオ節の源流はモルディブ?、その2

 

琉球でカツオ節を作っていたのか

 

このモルディブ源流説には、異論、反論もあるようだ。ネット「ウィキペディア」によれば、魚を乾燥させて固くした食品は世界各地にある。日本では、5世紀には干しカツオが作られていたとみられる。ただ、現在のカツオ節とはかなれ異なる。飛鳥時代には干しカツオが献納品として指定されていた。現在のカツオ節に比較的近いものが出現するのは室町時代だとのことだ。

 

モルディブから琉球にカツオ節の製法が伝わったとしても、なぜか琉球には王府時代、カツオ漁業もカツオ節の製造もなかった。それは、琉球王府の時代、農業重視の政策がとられて、漁業は抑えられ、漁師がいたのは、糸満など一部地域に限られていたことがある。それについては、「大漁唄のない沖縄の不思議」をブログでもアップしてある。
 

カツオ節だけでなく、魚を乾燥させて干物とする習慣が沖縄にはない。いまでも、沖縄産の魚の干物はない。スーパーで売られている干物は、鹿児島はじめ県外産である。たぶん、島国で海に囲まれていて、海から遠い山国のような地方はない。山の多い山原(ヤンバル)も、周囲は海である。だから、魚の干物、塩漬け、醤油漬けなど保存食はほとんどない。あるとすれば、「スク」という小魚の塩漬けくらいだ。 

Photo                  『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ節


 

カツオ漁業とカツオ節の沖縄での始まりは、明治後期のことである。 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。座間味村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことである。だから、琉球王府の時代は、漁業としてのカツオ漁やカツオ節製造はやっていなかったというになる。

 現在、沖縄はカツオ節をたくさん消費する県となっている。他県と比べても消費量は結構多いほうだと思う。

 

ひとつ興味深いのは、王府時代に琉球貢船によって中国へ持ち運ばれた物品のリスト(乾隆34年、1769年)のなかに、「佳蘇魚175觔(キン)」とあることだ。カツオのことである。これは、鮮魚ではなく、カツオ節ではないだろうか。
 
 琉球から中国に持ち運ぶ物品のなかでは、海産物が重要な比重を占めていた。なかでも、「海帯菜」(昆布)、「鮑魚」(干しアワビ)、「魚翅」(フカヒレ)が突出して多い。佳蘇魚は極め少ない。昆布も沖縄にはなくて、北海道産など大和から持ち込まれた。この佳蘇魚も、薩摩・トカラ方面から持ち込まれたのだろう。

 

まあ私的には、べつにカツオ節の源流について究明する気はない。カツオが獲れた国、地方で、それぞれカツオ節の製法を考えて、カツオ節を製造するようになったことも大いにありうることだ。
 
 まあカツオと黒潮は切っても切れない縁があることだけは確かだ。

 

 

 

2013年11月 7日 (木)

カツオ節の源流はモルディブ?、その1

カツオ節の源流はモルディブ?

 

 カツオ漁とカツオ節にかかわる話を何回か書いた。そのつながりで、カツオ節の源流についての興味深い話に出会ったので紹介する。

 琉球新報と南日本新聞、高知新聞の黒潮流域三社の合同企画による『われら黒潮民族』がもう20年余前に連載されて出版されていた。それを読んでいると、インド洋のモルディブでは、カツオを使ったヒキマス(荒節)、ワローマス(生節)が作られて食べられており、調味料としても使われているという。

 

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                  『われら黒潮民族』から、黒潮の流れ  

 カツオ節があるのは日本とモルディブだけ
「過去、現在を通してかつお節を作り、その食習が広範に普及している国は、日本とモルディブ以外にない」という。これは、東京の食文化研究家の宮下章さんの著書『鰹節・上巻』からの引用である。モルディブと日本のカツオ節の製法の交流があったという記録、伝承はいっさいないにもかかわらず、「明治年間には、すでに両国の荒節製造までの基本工程が同じだったことが明らかにされている」と宮下さんは説いているそうだ。

 宮下さんは、「日本のかつお節は独自に創案されたのではなく、南方諸国との交流のなかで出現した」と指摘している。

 紀州や土佐でカツオ節が作られるようになったのは16世紀後半。それよりも前に、ブログですでに紹介したけれど、トカラ列島の臥蛇(ガジャ)島で作られていた。種子島の領主だった種子島家の「種子島家譜」に、1513年に臥蛇島から「かつおぶし5れん」などの貢ぎ物があったと記されている。

 一方、モルディブではそれよりはるか前、1343年には、すでにカツオ節が出現。マラッカなどに輸出している。マラッカのほか、インドネシア、ジャワ、中国などにも送っていたという。

Img010
              『われら黒潮民族』から。モルディブのカツオ漁

 マラッカまで輸出されていたとなれば、思い当たるのは琉球の役割である。

15世紀の琉球は大交易時代である。中国、東南アジア、朝鮮、日本など各国と交易し、中継貿易で繁栄していた。

当時のマラッカは、東西交易の拠点。琉球王国も1460年ごろから1511年まで交易使船を派遣して、南方の珍品を輸入していた(「歴代宝案」)。

そこで、カツオ節を輸入したり、その製法が伝わったかもしれない。そして、15世紀には、トカラ列島から琉球に買い付けのために船が来ていたといわれる。モルディブのカツオ節とその製法が、マラッカから琉球を通してトカラ列島、臥蛇島に伝わったかどうかは、推測の域を出ない。でも、「ありえない」とも言えない。十分に考えられることではないだろうか。
 
 

宮下さんは「日本のかつお節のルーツはモルディブかも」と推測しているそうだ。

以上は『黒潮民族』からの引用に少し、勝手にコメントを入れたものである。同書は、最後に次のようにのべている。

「南方の物産を求めてアジアの海に船を繰り出して、食文化交流の橋渡し役をつとめた琉球人の活躍が見逃せない」
 
 「モルディブよりかつお節の出現が遅かった日本。しかし、カビ付けなどの技法を開発して、モルディブの完成品・荒節(ヒキマス)をしのぐ製品をつくりだした」

2013年11月 2日 (土)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その4

琉球に来た中国の測量官

「琉球国之図」企画展に関心を持ったのは、いくつか理由がある。まずは伊能忠敬の日本図を東京に在住した際に見たことがあったこと。沖縄に移住して「琉球国之図」も原寸大複製を見た記憶があるからだ。個人的なことだが、若かりし公務員時代に、もっとも簡単なコンパス測量で、山河を歩き測量して、図面を作成したこともある。コンパス測量は、羅針盤と距離を測るロープをもって測量するのだから、琉球王府時代の「針竿測量」とあまり変わらないだろう。

 関心をもったのは、それだけでなく、琉球の測量術が中国から伝えられたと推測されることがある。7年ほど前、沖縄大学で琉球と中国の交流史の講義を聴講したさい、金城正篤先生が「1719年に琉球に来た冊封使一行のなかには、測量官が乗船していた」と話されたことが、とても印象強く記憶に残っていた。

 その時は、この測量士が琉球に来たことの意義がよくわからなかった。改めて、当時の大学ノートをめくってみると、次のような記述があった。

 「この使節団には、量視日影八品官の平安という人物と、Fengsengge豊盛額という監生が…皇帝の特命によって随行していた」という。「かれらが観測した琉球の緯度、経度およびそれによって計算される福州からの距離も、ここに記載されている」(夫馬進編『使琉球録改題及び研究』、岩井茂樹「徐葆光撰『中山伝信録』改題」)。

 当時の清国の康熙帝は、「西洋伝来の新知識にはふかい関心を寄せていた」(同書)そうだ。康熙帝は、康熙47年(1708)より、フランス人宣教師らの協力による全国的な測量をおこなわせた。「イエズス会宣教師の伝えた測地法による全国の測量、および地図作製が、内廷の事業として推進された」。そして「その成果が、康熙57年(1718)の『皇輿全覧図』を生んだわけである」(同書)。

Img_3690                    文章とは関係ない。秋の洛陽

             

 やはりフランス流の測量術が中国に伝えられ、さらに1719年の冊封使来琉の際、随行してきた平安らによって琉球にも伝わったことは確かなようだ。

 琉球のような小さな島国で、日本の伊能忠敬よりも半世紀以上も前に、フランス式の最先端の測量術を学び、沖縄島から離島まで詳細な測量をして、精密な地図を作製していたことは驚くべきことだ。
 琉球は、歴史の発展段階が、日本より数百年遅れているとよく言われる。でも、この測量にしても、前にブログでも紹介した高嶺徳明による全身麻酔の手術や「安里鳥人」による世界初の飛行機で飛行したなど、日本よりはるかに早い。サツマイモや紬の織物なども琉球から日本に伝わった。
 南海の小さな島国である琉球は、700年以上前から中国はじめ東アジアの各国との平和的な交流、交易を通じて、各国のかけ橋となる「万国津梁(バンコクシンリョウ)」の役割を果たしてきた。そのもとで、中国、ヨーロッパなど海外の新しい知識、技術、情報がいち早く伝わってきた側面がある。

「琉球国之図」も、そんな歴史の一断面を物語っているのではないだろうか。

2013年11月 1日 (金)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その3

誤差小さく高精度の地図

 「琉球国之図」は今から217年前、1796年に作られたもので、琉球王家が所蔵していた。現在の地図と比べても。誤差が小さく高精度の地図で、当時の世界最先端のフランス測量術を応用して製作されていたことが明らかになってきた。

 この地図の実物は、巻物仕立てで、縦47㌢、横85・3㌢の小さな図面に、13万分の1縮尺で沖縄島と周辺離島が正確に描かれている。久米島や伊是名島など沖縄島から遠く離れた島については、一枚の図に収めるために距離を縮めて配置されている。

 地図に書き込まれた地域情報も詳細で、200年前の沖縄各地の地理情報を知る上でも第一級の史料だ。Photo_2


 現在の市町村の前身である間切(マギリ)・島や杣山(ソマヤマ、共同利用の山林)別に色分けされている。河川・滝・道路・海岸の岩礁・塩田・港なども図示され、番所・村・城跡・聖地・御嶽(ウタキ)・寺社・火立所(のろし台)などは記号で示されている。

 現在の地図にはない海岸の岩礁まで、詳細に描いてその名称まで注記している。図の余白には、朱書きで、各間切・島の外周の長さ、馬場の長さ、首里城から各地の番所までの距離、那覇湊から各島までの距離などが記されている。

 以上は、ほとんどは「琉球新報」の記事を勝手に抜書きしたあらましである。

 

2013年10月30日 (水)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その2

「間切島針図」を完成させる

琉球の測量術が飛躍的な発達をとげた背景に何があったのだろうか。
 
まず思い浮かぶ人物が、1719年に冊封(サッポウ)使節の徐葆光(ジョホコウ)と一緒に来琉した中国の測量官・平安だ。平安はこれまで、琉球の緯度・経度を測量したことしか知られていなかった。

 ところが、平安は、琉球に来る2年前に、康熙帝(コウキテイ)の命令でフランス人測量師と一緒に中国全土を測量して「皇輿全覧図(コウヨゼンランズ)」という近代地図を作製した測量官だったことが判明した。

 平安は、月食観測で緯度・経度を測量するために、琉球で1719年7月15日(旧暦)の未明に月食が起きることを予測して琉球に来たのであった。

 その翌月には、首里王府が、平安らの天文観測の詳細や道具の仕掛けについて調査するよう久米村方(中国から渡来した人々が住む。技術や外交など技能を持っていた)に命じている。
 
 つまり、平安から最先端の測量技術を入手するよう担当役人に指示していたのだ。
 

 これを指揮していたのが、福州で風水地理を学んだ蔡温(サイオン)だったと思われる。蔡温は、平安の来琉から16年後の羽地大川の改修工事で針竿測量を初めて実施し、そして2年後の1737年から始まった乾隆検地では、沖縄諸島に設置した約1万基の

印部石ネットワークによる測量を実施したのである。

 そして現在の市町村の基本図に相当する高精度の「間切島針図(マギリシマハリズ)」が完成した。

Photo

               伊能忠敬の日本図

 「間切島針図」を1枚にまとまると「琉球国之図」ができあがるが、実際に「琉球国之図」が作製されたのは46年後の1796年であった。

 作製したのは、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)だった。

                           

 

 これを見ると、基本図が出来上がってから、琉球の全体図が作製されるまで半世紀近くがたっている。ということは、高原筑登之親雲上は、最初の測量にはたずさわっていないということなのか。その点は、全国を測量して回り、日本図を作製を行った伊能忠敬とは違いがある。ただ、伊能も完成は見ずに亡くなり、弟子と幕府天文方の役人が仕上げた。

2013年10月29日 (火)

伊能忠敬より早い琉球国の測量、その1

伊能忠敬より早い琉球国の測量

                           

 

 最先端のフランス流の測量術で

日本全土の測量を行ったことで有名なのは伊能忠敬だ。だが、伊能の日本図が完成した1821年より25年も前、1796年に琉球国では、沖縄島と周辺離島を測量して「琉球国之図」を完成させていたというから驚く。

 原寸大複製と拡大図が那覇市の県立武道館で11月6日から展示される。それを前に「琉球新報」10月21,22日付で、沖縄県立博物館・美術館長の安里進氏の「『琉球国之図』を読む、最先端をいく琉球の測量術」が掲載された。琉球王府の時代に、伊能より早く優れた測量術があり、地図を完成していたことは聞いていたが、改めて詳細を知ることができた。この論文と展示会案内の記事から、紹介しておきたい。

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伊能が1800年に全国測量を開始する63年前、1737年に「琉球国之図」の測量事業(乾隆検地)が着手された。王府の役人が測量担当チームを組み、大勢の住民を動員して、1750年までに、今の市町村基本図に相当する「間切島針図(マギリシマハリズ)」を作製した。

1796年には、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)が、各「間切島針図」を縮小接合して、1枚の「琉球国之図」に仕上げた。

伊能をはじめ日本の測量術はオランダ流だったのに対し、琉球の乾隆検地はフランス流だった。これは、「針竿(ハリサオ)測量」と呼ばれるもので、「針」(羅針盤)を用いた測量だが、大量に設置した印部石(シルビイシ、測量図根点)のネットワークを骨格にして測量したところに特徴がある。近代測量の三角網による測量と同じ原理だ。

 フランスでは、1733年から測量が実行されたが、琉球でもほぼ同じ時期(1737~1750年)の乾隆検地から実施していた。これが日本に導入されたのは、明治以後だった。

 では、どうして琉球で三角網による針竿測量をフランスと同時期に国土測量に応用できたのだろうか。30年前の18世紀初頭まで、琉球の測量術は十字法という低レベルの測量術だった。この間、何があって、琉球の測量術は飛躍的な発達をとげたのだろうか。

 

2013年10月25日 (金)

カツオ漁の町・本部町、その3

鰹節製造にかかわった高知人

 私の個人的な関心で、驚いたのはカツオ節の製造に高知人がかかわっていることだ。『本部町史』は次のようにのべている。

 漁獲場と鰹節製造場所の距離の遠近は原料の鮮度に、鮮度の良否は製品の品質に重大な影響を与える。幸い本部村の鰹漁船の漁場は遠くても伊平屋島、与論島付近で、近いところは恩納から伊江島付近であり、原料としては申し分がなかった。

 原料の鮮度が高いにもかかわらず、製品技術の拙劣、製造人の不足、製造設備の不完全、資本の欠乏などが指摘されていた。Photo_4

         カツオを持つ女性(画・屋嘉比尚武氏、『本部町史』から) 


             

 本部の鰹節は産出区域が狭小であるにもかかわらず、明治43年(1910年)ごろまでは製品の形状が揃わなかった。製品の評価を高め、販路を広げる上から形状を斉一にすることが必要であった。

 その点を改善するため明治43年9月ごろ、高知県から製造技術者を招いて煮熟時の選択、器具の改善などが行われた。

鰹節の品質の向上を図るとともに、沖縄産鰹節の銘柄化の確立を目的として、先進地の高知県から製造教師を八名雇入れ、本部村にも武田俵太郎が派遣された。慶良間島に派遣された田中峰次郎とともに武田は最良の成績の評価を得ている。このことについて木村八十八は、

 元来大阪市中に於ける節の価格中最も貴重なるは土佐節にして薩摩節是に次ぐ、而して日向節は土佐節の劣等なるものなり故に本県鰹節の改良を唱へんか土佐節による最も捷径(ショウケイ、目的を達する早道)なりとす。依て左の方法により鰹節製造教師を雇入れ県下に産出する節の改良に従事す。

1、鰹節製造家にして熟練なる者を高知県土佐国より雇入れたる。

2、鰹釣教師と同様の個所に配布し殆んど本県下全部より産出せらるる鰹節は一時に土佐型に改良せんとす。

(沖縄県水産一班・木村八十八、大正元年11月 行政史17巻)と述べている。

 明治43年から製造手とともにカツオ釣技術の向上を図るため、宮崎県から8人の漁撈手を雇入れた。
 
 漁撈手の派遣については、少なくとも大正10年まで、製造手については大正14年まで、毎年実施されてきたようである。

 大正10年にもなると、製造手については、高知県人のみではなく、沖縄県人の名もみられる。

 

沖縄の本部町と高知は、遠く離れていて、これまであまり縁があるとは思わなかった。ただ、カツオ漁が盛んなことでは、共通点があると思っていた。今回、本部のカツオ漁の歴史を学び、直接、カツオ節の製造で、高知人が技術の指導にきていたことは初めて知った。これも黒潮が結ぶ縁というのだろう。

 

 

2013年10月24日 (木)

カツオ漁の町・本部町、その2

 


本部町では、
大正3年(1914)ごろから再びカツオ漁業が盛んになり、大正6年には最高潮に達した。カツオ漁船数が明治44年に17隻まで減少していたが、大正5年34隻に漸増して、同6年にはこれまで最高の36隻に増加した。

 もっとも、一般庶民には、カツオの頭や、身をおろしたあとの中骨がせいぜいの馳走で、腹肉(ハラゴウ)は高級品、カツオ節など手が届くものではなかった。成型の際にでる削りがら(ヒジガラー)もなかなか買えなかったようだ。

 明治44年ごろの本部・渡久地(トグチ)あたりの漁村の風情がしのばれる記録がある。「鰹の本場なる当地昨今の忙しさは、実に目が廻る程なり。農作物の不作や砂糖の不景気に反し鰹の収穫の驚くべき程なり」(明治・大正新聞集成―本部町史資料編1)

 水産技師だった木村八十八氏が県内の漁村を回った報告によると、本部町は国頭村で最も漁業が盛んなところで、専業者も多かったけれど、その中には漁業が発達していた糸満から移住した者が多かったそうである。

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          カツオ漁船(『本部町史』から)

カツオはいま、マグロなどに比べると値段が安く、買い求めやすい大衆魚として食べられている。カツオ節は、沖縄では出汁用に、とてもたくさん使われる。市場に行けば、いまもカツオ節専門店があり、繁盛している。でも、明治後期ころには、庶民にとって腹肉やカツオ節は手が届かなかったとは、隔世の感がある。

 沖縄は昭和初期の恐慌で「そてつ地獄」といわれるように、県経済はどん底に陥れられた。そんななかで、本部のカツオ漁業は大正13年をピークに昭和戦前期に激減した。鰹節の単価も大正12年kg当たり2・80円をピークに昭和13年には同0・85円と3分の1以下の激安となっていった。

 県経済の不況及び県内カツオ漁業の不振から、シンガポール、フィリピン、特に当時は我が国の委任統治領であった内南洋諸島への出稼ぎカツオ漁業へ、県民の多くが進出していった。本部からも多くの人が南洋漁業へ進出した。

 沖縄戦の前触れともなった昭和19年10月10日の空襲の前後、本部では鰹節製造が盛んだった。日本軍の各部隊が連日、鰹節を受け取りきて供出に応じたので、民間に売り出す余裕はほとんどなかったという。

 当時、本部に何隻の鰹船があったか不明であるが、そのほとんど全部が、時折偵察に襲来したコンソリデッドB24や潜水艦、または10・10空襲に現れたグラマンやカーチスに銃撃され、破壊され、沈没した。

10・10空襲のさい、魚を船に積んで渡久地港に帰る途中、グラマンの猛爆撃に見舞われ、乗組員2人死亡し、重傷を負った人もいる。別の鰹船で命を失った人もいる。多くの漁師が傷を負い、命を落としたという。10・10空襲では、渡久地港の港湾施設など空襲を受けた。

2013年10月23日 (水)

カツオ漁業の町・本部町、その1

カツオ漁業の町・本部町

 

沖縄のカツオ漁といえば、北部の本部(モトブ)町が有名である。漁業が盛んな本部だが、なかでも沖縄本島唯一のカツオ漁の町として発展してきた。「町の魚がカツオ」。カツオの初水揚げにあわせて、「鯉のぼり」ならぬ「カツオのぼり」が町の渡久地(トグチ)港の大空を泳ぐ。

『本部町史 通史編』を読んでいると、カツオ漁の歴史が書かれていた。興味があったので、ここからかいつまんで紹介する。

 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県(18年が最初)や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。Photo         カツオ漁が盛んな本部・渡久地(トグチ)港(『本部町史』から)


 

 座間味(ザマミ)村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことで、それが沖縄県におけるカツオ漁業の始まりであった。

 本部町におけるカツオ漁業の始まりについては、沖縄県の水産技師だった木村八十八氏が次のように述べている。


 本部町においては明治36、7年のころ、宮崎県より入漁したのを始めとし、その入漁者のために莫大な漁利をあげていることから、時の郡長・喜入休氏、警察署長・川辺政行氏は盛んに奨励したけれど、村民の感触痴鈍にして容易に発達せず、明治37年村吏員及び有志者の出資により1隻を求め漁業に着手したけれども、釣獲法の技術拙劣なるにより一時失敗に帰したため一旦挫折した。明治40年において宮崎県よりの入漁者その他の大漁があってにわかに発展し、明治41年には漁船29隻にのぼり、産額4万7750円を出すに至った((木村八十八沖縄県水産一斑大正元年11月、沖縄県農林水産行政史第17巻、原文を意訳した)。

 本部間切(マギリ、いまの町村)において、1903年(明治36)11月に漁業組合が設立された。明治38年には、国頭(クニガミ)郡の本部、大宜味(オオギミ)、国頭間切で漁船を購入して漁猟、鰹節製造に着手し、次第に盛況に向かっていった。明治40年代における本部村のカツオ漁業は著しく盛んな時期であった。カツオ漁船の数は漸増して32隻(明治42年)に達し、漁獲数量および生産額は急激に増加した。

明治38年には既に、「渡久地の名物は、鰹料理なりとして県下に誇れる所なり」(明治・大正新聞集成―本部町史資料編1)とあるように、本部の鰹料理は県下に名を馳せていた。 

しかし、明治43~44年には10隻も減り、19隻となって浮き沈みが激しく、安定していないこともまた事実であった。

2013年10月17日 (木)

県外から学んだ沖縄のカツオ漁

県外から学んだ沖縄のカツオ漁

トカラ列島でカツオ漁が盛んで、年貢がカツオ節だったことを書いてついでに、沖縄の事情に少しふれておきたい。沖縄では琉球王府時代は、漁業としてのカツオ漁はなかった。廃藩置県後の1885年(明治18)、鹿児島県の業者が慶良間諸島で試漁したのが始まりだ。それ以降、1894―6年に宮崎県の漁民、1898年に鹿児島県人の宮田善右衛門の船、田中長太郎の船で入漁し、座間味間切(マギリ、いまの町村)阿嘉村に根拠地をすえて始業した。いい成績をあげたのを見て、島民はこれを機会に、4―5人の漁民を便乗させ、漁船の運用ならびに釣獲(チョウカク)方法の伝習を受けた。


 
 その後も宮崎県の漁船から技術を学び、静岡県の漁船が国頭地方に漂着したのを全島民で買い求め、カツオ漁を始めた。これが、沖縄におけるカツオ釣漁業のはじめと言われている。これはまた、カツオ節製造業の始まりとなった。1906年には、9組合16隻のカツオ船をつくり、全島あげてカツオ漁業に従事することになった。

1905年には、国頭郡の大宜味・国頭・本部・羽地において、間切有志組合を設け、カツオ節製造が始められた。その後さらにカツオ漁は盛んになり、大正後期にカツオ節業は最盛期となった。カツオ節は沖縄では砂糖に次ぐ重要な製品となっていた。

以上は『沖縄の歴史第2巻近代編』(沖縄教育出版)から紹介した。132_2
           糸満の漁港の風景

れをみればわかるように、沖縄でのカツオ漁の歴史は古くない。近代になってからである。年貢にカツオ節ということもない。カツオ漁だけでなく、琉球王府の時代は、農業が重視され、漁業を専業とするものはおおむね糸満漁民などに限られていたという事情もある。
 
 「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途(ミチ)はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。本島島尻地方兼城間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」。1888年(明治21)に沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告でも、こういう実情にあった(同書)。

同じ南西諸島の島々であっても、その置かれた自然の条件や社会的歴史的な条件によって大きな違いがあることがわかる。

なお、沖縄の漁業事情について関心のある方は、このブログで「大漁唄がない沖縄の不思議」をアップしてあるので、ご覧ください。

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