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史跡

2013年12月22日 (日)

浦添歴史の道、史跡が多い

史の道、史跡が多い 

 

「歴史の道」は、さすが浦添が古都であり、首里城からも近いだけに、由緒ある史跡が多い。でも案内板で紹介されている史跡でも、まだ実際に見たことがない場所もいくつかある。とりあえず、「歴史の道 中頭方西海道」の案内板にそって、写真と説明がある史跡を紹介しておきたい。Img_4163

「中頭方西海道」は、琉球王朝時代に、首里王府からの令達などのために使われた宿道。首里城を起点に平良、大名を通り、浦添市の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至る。北の恩納、国頭方面につなぐ主要道路だった。

 

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   伊祖の高御墓(イソノタカウハカ)

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英祖王は、天孫氏の末裔とされる伊祖城の恵祖世の主の子であり、舜天王統の義本王から禅譲を受けて英祖王統を築いた。13世紀から14世紀にかけ5代90年にわたる王統だった。

この墓は、英祖王の父、「恵祖世の王」(エソヨノヌシ)の墓と伝えられる。崖下につくられた古い形式の墓。県指定有形文化財(建造物)。

 英祖王は、浦添ようどれに葬られている。

 

 

 

 

 

 浦添御殿(ウラソエウドゥン)の墓

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沢岻(タクシ)には、第二尚氏の第14代国王、尚穆(ショウボク)の子・朝央(チョウオウ)を元祖とする浦添間切総地頭を務めてきた浦添御殿(王家の分家)の墓がある。

尚穆王、尚温王の摂政を務めた朝央を葬るために造られた。浦添御殿の歴代の墓になっているという。

造営は18世紀と推定され、亀甲墓としては市内最大級を誇る。市指定文化財(史跡)

墓は沖縄戦で大きな被害を受け、修復をしていた。

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ここは以前、沢岻を散策したとき、まだ工事中だった。2012年に往時の姿がよみがえったそうだ。

 

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当山の石畳道

首里から普天間宮への参拝道。宜野湾間切が新設された頃(1671年)に整備されたと考えられている。市指定文化財(史跡)。こちらにも立派な石橋があるようだが、まだ残念ながら見ていない。そのうち行く機会があるだろう。

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2013年12月21日 (土)

浦添歴史の道、猛攻受けた仲間高台・前田高地

猛攻を受けた仲間高台・前田高地

浦添城跡といえば、仲間高台、前田高地と連なる丘陵になっていて、沖縄戦で激戦の地となったことで知られる。日本軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。

2008年に、シルバー人材センターの観光ガイド講習を受けた際、戦跡めぐりで案内していただいたことがある。
「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊された」との説明があった。


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仲間・前田の集落は、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死した。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(上写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。

 
 残念ながら入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難した人も多数が犠牲になった。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあったという。

 

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この高地の北側の断崖に為朝岩(上写真、米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つ。高地でも一番高い。四方が見渡せるので軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍は、ここから米軍の動きを監視した。米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたという。

前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出た。「前田高地平和之碑」(下写真)がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てた。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。

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 碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究者で2012年亡くなった外間守善さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」(外間著『前田高地』)と証言している。

沖縄戦の戦跡については、このブログで「沖縄戦・激戦の地を歩く」をアップしてあるので、関心のある方はそちらも見ていただきたい。

2013年12月18日 (水)

浦添歴史の道、浦添城跡と浦添ようどれ

浦添城跡と浦添ようどれ

 経塚から歴史の道を進むと、「浦添城跡」「浦添ようどれ」に着く。城跡は初期琉球王国の歴史・文化を理解するうえで重要なグスクとして国の史跡に指定されているが、未調査の部分が多く、現在も発掘が進められている。

 1609年に薩摩が琉球に侵攻したときに、城殿は焼き払われたいまは一部城壁が復元整備されている。

 城跡の北側の階段を下りていくと浦添ようどれがある。初期琉球王国中山王陵である。これも「玉陵の光と影」で紹介した。ただ、浦添の歴史の道といえば、最大の見どころなので、あらためてふれておきたい。

浦添ようどれは今回行ったのではない。もう数年前である。

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                歴史も道案内の説明板から

サンゴ礁の岩穴を利用して造られた立派な陵墓である。墓は東西に二つある。西側は英祖王、東側は尚寧王の墳墓である。英祖王は、僧禅鑑の琉球渡来を契機に極楽寺を建立、のちに寺のそばに墓を造ったと伝えられる。英祖王はここに葬られた。極楽陵とも称された。

 「ようどれ」は夕凪の意味だが、「無風・静寂といった原義から転じて、墓地の別名になったともいわれる」(『沖縄県の歴史散歩』)。

 周辺調査が終わり、踏査結果をもとに2005年に修復された。

 ようどれ館も併設されている。精密に複製再現された墓室内部も疑似体験できる部屋もある。

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 薩摩侵攻時の国王、尚寧が浦添ようどれに葬られたことは、「玉陵の光と影」で詳しく紹介した。第二尚氏の国王たちは、首里城近くの玉陵(タマウドゥン)に葬られている中で、敗戦の恥辱を味わった尚寧王は、あえてこの地に眠ることを望んだと伝えられる。

 

 尚寧王は、亡くなる前に、病気が重くなったので「ようどれ」を修復させた。死去の前月建てられた「ようどれのひもん」には次のような文がある。

 

 「尚寧王が浦添から首里に、照り上がってお出でになったので、浦添のようどれは、英祖王の御墓である故にといって、御考えになって、強く、きれいに造営なされて、祖父の大ちよもいがなし、親がなしを、このお墓にお供申し上げて、あとあとは、尚寧王さまも、御出になさるだろう。そうなってはじめて、千代万代の末までも、御名は残るであろうと、御考え召されて、この碑は御建てなされたのでる(後略)」(新屋敷幸繁著『新講沖縄一千年史上』、和訳文)。

 

 新屋敷氏は「祖父父君の遺骨もこの墓に移して、自分も共にこの墓に納まって、永遠の平和に眠ろうとした心事も悲痛である」とのべている。

 

「ようどれの碑文にはその間の事情は注意深く避けられているが、行間に敗軍の将、尚寧の心境を読みとることができよう」(『沖縄県の歴史散歩』)。

沖縄戦で戦災を受けたけれど、1953年に修復された。県民の多くがまだ生活の再建に追われていた時期に、ようどれを修復したのは、それだけ由緒ある重要な史跡だったからだろう。

2013年12月17日 (火)

浦添歴史の道、近くにある玉城朝薫の墓

 近くにある玉城朝薫の墓

歴史の道に入っていないが、経塚の隣、前田には玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の墓がある。ユネスコの無形文化遺産に登録された伝統芸能の組踊(くみうどぅい)の創始者である。すでにブログにはアップしてあるが、経塚付近の大事な史跡なので、ついでに紹介しておく。004_2



 墓があるのは前田トンネルの上。階段を上るとすぐ墓が見えた。山の斜面を利用した石造りの墓だ。
 辺土名家の墓とも書かれている。朝薫は、玉城間切(現在の町村にあたる)の総地頭職を務めた家柄の辺土名家の10代目に当たるという。朝薫は、首里王府で、芸能を担当する踊奉行(うどぅいぶぎょう)に任命され、中国から国王の任命のために訪れる冊封使(さっぽうし)を歓待する組踊を初めて創作した。011


 朝薫が創作した「二童敵討」「執心鐘入」など5つの演目は「朝薫の5番」と呼ばれ、いまでも最もよく上演される組踊だ。朝薫は、薩摩や江戸にも上り、将軍の前でも芸能を披露したことがあった。大和の芸能にも精通し、能など大和の芸能の要素も取り入れながら、琉球独自の歌三線と台詞、踊りの総合楽劇・組踊を創り上げた。
 墓はちょうどトンネルの真上にある。朝薫の墓は、以前は那覇市にあると思われていたが、実は1984年、道路計画で調査をして墓を発見し、朝薫生誕300年事業でこれが朝薫の墓であることを確認したという。墓の発見で、道路は山を崩さずに、トンネルを貫くことにしたという。
 戦争で、墓は破壊された。2005年に60年ぶりに復元された。1933年にこの墓を撮影した写真があり、それを参考にして復元したという。

2013年12月16日 (月)

浦添歴史の道、龍巻

龍巻(ルーマシ)

「歴史の道」には、入っていないが、スーパー「サンエー経塚シティー」のそばに「龍巻」の石碑があった。龍巻を「ルーマシ」という。井泉があったそうだ。説明板から紹介する。

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 その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て掘ったところ、水がこんこんと湧き出たと

ころから龍巻井(ルーマシガー)と呼ぶようになっそれからこの場所は龍巻(ルーマシ)といわれ、豊富な水資源に恵まれ、稲作が多く営まれた。

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いまは、井泉の痕跡も見当たらない。ただそばの小高い丘の上に、松の木がそびえている。なんか昔の風景をしのばせる。

 

2013年12月14日 (土)

浦添歴史の道、安波茶橋

石積みの安波茶橋

  

「歴史の道」でもっとも見たいと思っていのは、安波茶(アハチャ)の石橋である。写真で見たけれど、石積みのアーチ橋が見事である。Img_4176

 

 このあたりは、起伏の多い地域である。小湾川が流れる。現在、通行する整備された道路の川にかかる橋は大きく、とても高い地点にある。でも、琉球王府の時代、橋を架けるのには、川端のもっとも低い場所が適地となっただろう。安波茶橋は、浦添工業高校のそばで、長い階段を下りて行った場所にあった。

 

石橋は、現場を見るまでは一つの橋と思い込んでいたが、実際は二つの石橋からなっている。小湾川に架かるのが南橋。こちらが大きく、いわば本橋だろう。その北側に、アブチ川に架かる北橋がある。川というより、小さな谷である。

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すぐそばにある説明板から紹介する。

 

 安波茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。

 橋の下流側には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられ赤皿ガーがあります。Img_4186

 安波茶橋の上流は、小川のせせらぎのようで、水が流れている。でも、下流側は、滝つぼのような淵になって、満々と水をたたえている。だから、架橋が「難工事」だったことは想像できる。

 

石橋の前後は、石畳道である。かなれ大きな石を敷き詰めてあり、こちらも見事である。

 

Img_4185 琉球王朝時代に、首里王府からの令達などのために使われた宿道の一つ中頭方西海道の一部に当たる。首里城を起点に平良、大名を通り、浦添市の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至るルート。北の恩納、国頭方面につなぐ主要道路だった。

 

 安波茶の石畳道を整備する事業が5カ年かけて行われ、2006年度で完了した。丘の上から谷の安波茶への向かう昔の「公事道」が復元され、地域住民の通行路としても利用されている。

 

 安波茶橋から経塚方面に向かう坂道は、かつては石畳道が残っていた。一部を地中に残す形で保存したそうだ。古い石畳道の説明板があった。「今も地中に眠る石畳道」と書かれており、この場所の地下約1・5メートルには発掘された石畳道が保存されているそうだ。でも、いまは説明の写真でしか見ることができない。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月13日 (金)

浦添歴史の道、「いちゃりば兄弟」石碑


「いちゃりば兄弟」の石碑

 

 浦添市の「歴史の道」の「経塚の碑」のそばに「いちゃりば兄弟(チョウーデー)」の石碑があった。

「いちゃりば兄弟」とは、「一度出会えば兄弟」という意味だ。ウチナーンチュの心意気を示した素敵な言葉である。でも、なぜここに碑があるのか?と不思議に思った。

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 石碑の建立の由来が裏面に刻まれていた。ただ、碑文の文字が小さいうえに、黒ずんできてとても読みにくい。建立の趣旨だけは理解できた。

経塚の集落は、昔からあったのではないという。碑文によると、1944年に、この周辺の安波茶(アハチャ)、前田、沢岻(タクシ)の一部を割いてつくられた新しい部落である。新しい部落の名称を「経塚(キョウヅカ)」としたのは、「経塚の碑」の解説文にあるように、このあたりは、妖怪を鎮めるためお経を埋めたという伝承がある。そこから集落の名称としたようだ。

 新しい集落であるために、住民が一致団結して住みよい地域づくりを進めていこうという思いを込めてこの「いちゃりば兄弟」の石碑が建てられた。

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「いちゃりば兄弟」の言葉は、そのあとに続いて「何(ヌー)隔て(フィダティ)のあが」と合わせてよく使われる。「一度出会えば兄弟だ。なんの隔てがあろうか」という意味である。

 この文言が使われた有名な民謡に「兄弟小節」がある。この曲を作曲した前川昭朝さんが、沖縄戦のあと、国際通りでばったりと友人と出会い、お互いに無事で生きて出会えた喜びを歌った名曲である。その歌碑が与那原町東浜にあることは、すでにブログで紹介した。

この言葉は、もともとは、伝統芸能「組踊」の「大川敵討」の一節だとのことである。

経塚の人々も、この碑のように同じ地域で日々の暮らしをともにする者として「兄弟(チョウデー)」同然の関係で生きているのだろう。

浦添歴史の道、「経塚の碑」

浦添歴史の道を歩く

 

浦添の「経塚の碑」

 浦添市経塚(キョウヅカ)には、用事があり月に一度は訪れている。浦添といえば、琉球が統一される前、中山国の英祖王や察度王らが居城とした浦添グスクがある。14世紀に首里城が建設されるまで、中山の中心だった古都である。古都と首里城を結ぶ幹線路にあたるのが、経塚である。首里から浦添にかけて由緒ある史跡がたくさんある。「歴史の道」の表示がされている。

今回、少し時間があったので、「歴史の道」のごく一部を散策した。

 琉球王府の時代、王府のある首里を起点に島内各地を結ぶ宿道(主要道)がつくられていた。首里から本島中部の中頭方面に向かう「中頭方西海道」は、浦添市のこの経塚から安波茶を通り、北に向かう。

 「歴史の道」の始まりの地点にあるのが「経塚の碑」である。案内板には、経塚の由来が記されている。Img_4170


昔、このあたりは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。16世紀の初め、高野山で修業した日秀上人がお経(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑を建て、妖怪を鎮めたと伝えられています。  

 その後、地震の時に「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えるとおさまると信じられるようになりました。

 お経を埋めた塚を経塚(キョウヅカ)といい、この地域の名前の由来となっています。経塚の碑は旧暦10月1日のウマチーヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。Img_4171

 日秀上人と言えば、和歌山県の那智を船で出て、沖縄の金武に漂着した。住民が洞窟に住む大蛇に困っていたのを退治して、金武観音堂を建てた。その名は、首里の尚真王にも知られて、尚真王の仏教の師となり、護国寺を建てるなど、仏教を広めたとも伝えられる。

 

 なお、護国寺は、日本僧の頼重が護国寺を建て、それがつぶれたあとに、柴山が大安禅寺を建て、そのあとにまた日秀が護国寺を建てた、と考えられるそうだ(『訳注 琉球国旧記』原田禹雄氏の注)

 追記

 ブログを読んだアルテの仲間、玉那覇さんが「チョーチカ」にまつわる体験を話してくれた。

「子どものころ、おばあさんが、地震があると『チョーチカ、チョーチカ』を叫んでいたんですよ。なぜ『チョーチカ、チョーチカ』というのか、その時はわからなかった。でも後になって、経塚(チョウーチカ)の伝承があることを知って、ようやくその訳が分かったんですよ」

 「では、チョウーチカとは、この経塚あたりの人が知っていただけではなく、他のところの人たちにも知られていたんですか?」と尋ねると、「そうそう、全県的に知られていましたよ。でも、若い人たちはもう知らないし、使わない。おばあちゃんくらいの年代の人しか使わないでしょうね」とのことだった。

2013年12月10日 (火)

玉陵をめぐる光と影、その4

薩摩に侵略された悲運の尚寧

玉陵に入れられていないもう一人の国王が第二尚氏の7代目、尚寧王である。

4代目の尚清の後、5代目尚元王、6代目の尚永王が継いだ。尚永王は、30歳で早世した。実子がなかった。そこで迎えられたのが、かつて廃嫡した尚維衡の曾孫にあたる尚寧だった。

 この、尚真以後の尚清王の系統を「首里尚家」と呼び、尚維衡の系統をその本拠地が浦添だったことから、「浦添尚家」とも呼ばれる。本来、尚維衡は正妃の子で長男だったから、浦添尚家の系統が嫡流(本家)である。尚清は側室の子で5男なので、首里尚家の方が庶流(分家)である。

尚寧は第7代国王となったが、不幸なことに1609年、薩摩藩が琉球に侵攻し、降伏にいたった。薩摩には絶対に背かないことを誓約されられた。尚寧は、死後、玉陵には葬られず、「浦添ようどれ」に葬られた。

「浦添ようどれ」は、浦添グスクの北側崖下にある。中山王だった英祖王が1261年に極楽寺を建立し、後に寺のそばに墓をつくったと伝えられる。いわゆる「ようどれ」である。極楽陵とも称された。尚寧王が1620年に改修した。

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                   浦添ようどれ

西側に英祖王、東側に尚寧王が葬られている。「ようどれ」とは、夕凪のこと。同時に極楽を意味するともいわれる。

 玉陵から排除された国王・王子たちが、尚宣威とその血を引く尚維衡(有資格者から排除)、その曾孫の尚寧というのは、一つの血でつながっている。偶然ではない気がする。

ただし、首里尚家と浦添尚家は対立、対抗していたのではない。5代目、尚元王の正妃は、尚維衡の孫にあたる「梅岳」(真和志聞得大君)であり、6代目の尚永の母である。尚寧は尚永王の長女を正妃に迎えている。

このような近親結婚を重ね、「嫡流と庶流が混然一体となっていく」(与並岳生著『新琉球王統史6』)のである。

 それに、追放されたはずの尚維衡の遺骨は、後に尚清王のもとで、玉陵に移葬された。これは、碑文で厳しく定めた有資格者の書き付けに背くことだ。「天を仰ぎ、地に伏して祟るべし」と記しながら、堂々と踏み破っている。

 ただし、いまなお尚宣威と尚寧は葬られていない。尚寧はなぜ玉陵に葬られていないのだろうか。

『沖縄県の歴史散歩』は、「慶長の役で島津氏に敗れた尚寧王は、王陵に葬られるのを遠慮してようどれに葬るよう遺言したからだという」との伝説を紹介している。ただ、それは「俗説」だと退ける人もいる。

歴史研究者の新城俊昭氏は「一説によれば、尚寧は『島津の侵入をまねいたのはすべて私の徳のなさによるものであり、玉陵に入る資格はない。私の柩は故郷の浦添の地に葬るように』という遺言を残したという」という説を紹介しながら、「実際には尚寧の出身地である浦添にもどっただけのことであったという説もある」とのべている(『琉球・沖縄史』)
 
 尚寧王は、死のひと月前に遺命を残していたという。「王の病重く、八月に重臣に命じて、浦添の極楽山陵を造営させた」と『中山世譜』に記述がある(与並岳生著『新琉球王統史6』)。

                           

 

「ただ『王陵の碑文』にしたがったのです」と与並氏は解釈している。自分の生まれた浦添の地に戻ったということでもある。浦添はいわば故郷であり、永遠の眠りにつくのにふさわしいと考えたのだろうか。

それにしても、玉陵が建造された時代から100年ほども後世の国王だから、碑文の書き付けはもう関係ないはずだ。それに、曾祖父の尚維衡が有資格者から当初、除外されていたとしても、すでに碑文を破って移葬されているので、なおのこと碑文にこだわる必要はないように思う。

新城氏は「琉球王国はじまって以来の国難に遭遇した尚寧の心情には、複雑な思いがあったに違いない」(同書)とのべている。

本来なら、国王は玉陵に入るのが当然である。それをあえて浦添ようどれに葬ることを選択した心情を思う時、薩摩侵攻のことは無関係だとはどうしても思えない。それが素人としての感想である。

 

2013年12月 6日 (金)

玉陵をめぐる光と影、その3

長男なのに追放された尚維衡

玉陵の碑文は、奇妙なことに尚真王の長男・尚維衡(ショウイコウ)と次男・尚朝栄の名もない。なぜなのか。朝栄は玉陵が建造される前に亡くなっていた。問題は尚維衡である。玉陵のリーフレットでも「王位室内に勢力の対立があり、廃されたと見られています」とある。

尚真の正妃は、退位に追い込んだ尚宣威の娘だった。正妃が長男の浦添朝満を生んだ。後の尚維衡である。尚真の後を継ぐのは、本来なら彼だ。しかし、尚維衡は尚真によって追放され、16歳で浦添城に隠遁した。尚真王の側室、華后(カコウ)の子である5男の尚清が王位に就いた。5男が王位に継ぐのは、異例中の異例といえるだろう。

尚維衡の追放には、あやしげな策略があったという話が伝えられている。

側室の華后(カコウ)が蜂をわざと自分の胸に入れて、大声で叫んだ。尚維衡が駆け寄り、胸元の蜂を取ろうとすると、「王子が私の胸に手を入れ、乳房に触れた」と騒ぎ立てた。これによって、尚維衡は王位継承の地位を奪われた。

尚真王の長男でありながら、「彼の生母が尚宣威の娘であるというだけの理由」で退けられ(山里永吉著『沖縄史の発掘』)、一生を浦添グスクに隠遁したまま終わった。Img_4022


             玉陵


「世子尚維衡を廃したのも、この母(オギヤカ)と寵姫思戸金(尚清の生母。ウミトガニ、号は華后)の合作」だろうと山里永吉氏は推測している(同氏著『沖縄史の発掘』)。

ただ、尚清はすんなり即位できたわけではない。

尚真の死後、群臣が尚清の即位を議定したが、尚清は、本来の世子は浦添王子(尚維衡)であり、その罪は虚名と認め、「兄を超えて、王位に就くことは、天理の容れざるところである。浦添王子こそ、王位に就けるべきである」と辞退した。しかし、尚維衡も固く辞退し、やむなく尚清が即位したと王府の史書『中山世鑑』にも記されている(和訳は与並岳生著『新琉球王統史6』による)。

この不自然な世子交代は、中国の明朝も疑念を持ち、国王認証の冊封の要請に応えなかった。そのため、正統な後継ぎであることを証明する「結状」に三司官をはじめ主要な役人が血判を押して冊封を要請した。中国はようやく国王の冊封使を送った。これ以降、中国への冊封の要請には「結状」を添えることが慣例となった。

尚維衡が亡くなった時、浦添の極楽寺に葬られた。「しかし、尚清王は、『追慕の情に堪え』ず、後に、尚維衡の長女の峰間聞得大君(ミネマキコエオオキミ)とともに、首里山川の西玉陵に移葬しました」(与並岳生著『新琉球王統史6』)。

注・与並氏はこのように記述されているが、野村朝正さんからコメントが「玉陵の西室が正しい」との指摘がありました。私も尚維衡が移葬されたのは「玉陵の西室」と考えます。

玉陵への埋葬を拒絶する呪いの言葉まで記した書付をあっさりと破ったのである。よほど尚清として、長男が母親の虚名で追放され、自分が王位についたことへの後ろめたさがあったのか。兄に対する「追慕の情」が深かったのだろうか。

 

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