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民俗・文化

2014年1月11日 (土)

「瓦屋節」の歌碑、『壺屋焼が語る琉球外史』から

『壺屋焼が語る琉球外史』から 

 

沖縄における瓦の生産のはじまりと拡大について、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』にまとまった記述があるので、改めて紹介する。

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              首里王府よりの御拝領窯、壺屋の南窯(フェーヌカマ)

 瓦生産の開始と拡大

 瓦奉行と瓦窯の起源について、琉球王府によって編纂された尚敬1(1713)年の『琉球国由来記』に、琉球の瓦窯は唐人瓦工(帰化して渡嘉敷三良と称す)が来島(1579年以前、1450年説もある)し真玉橋村に開業した窯から始まったと記され、尚永王時代(1573~1588)の万暦年間(1573~1619)に小橋川親雲上を瓦奉行に任じたことが家譜にみえると述べている。また「汪氏照喜納屋(ママ、家)譜」に記された渡嘉敷の没年は万暦32(1604)年、「汪氏家譜」にみえる小橋川親雲上が瓦奉行職を授かったのは万暦7(1579、天正7)年であることからして、近世琉球では瓦生産が16世紀に開始され中葉にはその生産を管理する瓦奉行職が設置されていることが分かる。

しかしながら当時の瓦屋の普及はごく一部に限られ、王宮・社寺をさしおくとして一部富家・貴族の居宅に限られていた。この状況は1534年に尚清の冊封使として来琉した陳侃も、その著『使琉球録』の中に「富貴の家、僅かに瓦屋二、三軒あり」と記していることからもうかがえる。ちなみに瓦葺建物の普及は、17世紀末~18世紀初頭に瓦生産が飛躍的に拡大されるまで変わらなかった。

 やがて琉球における瓦生産は、尚貞王時代(1696~1709)になると単なる生産段階から多くの建物に積極的に利用された。つまり琉球王府は尚貞29(1697)年の『田舎方式』の令達によって、「番所や百姓の蔵はなるべく瓦葺きにせよ」という方針を打ち出したのである。

そして康熙9(1670)年の首里城正殿の瓦蓋再建を契機にして、尚貞13(1681)年には臨海寺並びに社宮、中山門(1681)、崇元寺並びに廟(1682)、尚貞17(1685)年には宮古島公蔵、尚貞19(1687)年には伊是名島玉陵、尚貞21(1689)年には西原間切内間東殿、尚貞26(1694)年には八重山御蔵並びに寺院、尚貞28(1696)年には八重山桃林社宮、尚貞29(1699とあるが1697)年には小禄間切仲瀬社宮、尚貞34(1702)年には久米島蔵元などの多くの公共建物が相次いで改瓦や瓦蓋に創建されたのであった(安里1991)。

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                 民家の赤瓦。庶民は昔、瓦葺きにできなかった

 

 瓦窯

 当時の窯は還元焔焼成であったので全ての瓦は「灰色瓦」であったが、その後現在と同じ酸化焔焼成に変わって「赤瓦」が登場する。赤瓦の出現年代は中国年号の「乾隆三年戊午六月十六日作」(1738)の刻銘瓦が、那覇市壺屋旧家の新垣栄三郎の屋根雄瓦で確認されていることから、おおよその時期が推定できる。またこの瓦は、知花窯、宝口窯、涌田窯の三窯が統合(1682)された56年後の壺屋の瓦窯で焼かれたものと考えられている(宮城1974)。

 この時期の瓦窯には、

 「涌田窯」は従来、壺屋統合(1682)前の琉球最大規模の陶器窯として知られている。が、近年の調査で「瓦磚類」が張一六らの来琉(1616)以前の万暦33(1605)年には生産されており、陶器窯としての盛業以前に瓦生産を行っていたことが判明した(池田2003b)

 「首里古地図」(1703~1707)に記載された「鳥堀瓦坊」、現在は「鳥堀古瓦窯跡」と呼称される瓦窯である。この瓦窯で焼かれた瓦は、首里城正殿をはじめとする首里の寺院に供給された。

 康熙33~雍正8(1694~1730)年の八重山の「名蔵神田原瓦窯」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、八重山御蔵や桃林寺に供給された。

 『琉球国由来記』(1713)に記載された「真玉橋瓦窯」がある。現在は「真玉橋瓦窯跡」(豊見城市字真玉橋)として呼称されている。詳細は不明である。

 尚温5(1799)年に涌田礎辺(ママ)原瓦屋に移動した「美栄地瓦屋」がある。この瓦窯で焼かれた瓦は、那覇の寺社などに供給された。(池田2003b)

注・文末の()内は引用文献。

ここで「瓦屋節」との関係で注目されるのは、涌田窯でも瓦が焼かれていたとの記述であること。このブログで「瓦屋節」で歌われた場所について、涌田窯は、瓦でなく陶器を焼いていたので、該当しないことから、国場の瓦屋原であると結論づけた。

しかし、涌田窯でも瓦生産がされていたという。けれどもこれは、朝鮮陶工の張献功

が琉球に来る前である。だから、「瓦屋節」で歌われた瓦焼き職人を張献功とする説は、やはり成り立たないことに変わりない。

もう一つ、気になるのは、『琉球国由来記』をもとに、瓦窯のあっ真玉橋窯を現在の豊見城市真玉橋としていることである。しかし、渡嘉敷三良が住んだのは国場村であり、真玉橋の東に窯を築いたというのが、ほぼ通説になっている。

『琉球国由来記』の「あやまりを校正し、欠落を補充し」たという『琉球国旧記』(訳注、1731年編纂)は次にように記している。

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          那覇市牧志にある「瓦屋節歌碑」

「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。

18世紀初頭に編纂された『球陽外史 遺老説傳』でも、同様に、国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いた、と記されている。
 
窯を築いたのが「真玉橋村」なら「豊見城間切」になり、「国場村」なら「真和志間切」となり、まったく異なる行政区となる。それに、豊見城の真玉橋では、女性が真南の故郷を眺めたという「瓦屋頂」と呼ばれる高い場所は見当たらない。

真玉橋にも瓦窯があったかもしれないが、少なくとも渡嘉敷三良によって瓦窯が築かれ、瓦が製造されたのは、今の豊見城市真玉橋ではなく、那覇市国場の瓦屋原と呼ばれた地域だろう。
 
瓦屋原と呼ばれるところは、国場でも古波蔵に近く、一番高い丘陵地である。目の前が真玉橋だ。この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。
 
私は、日頃歌うのは古い「瓦屋節」ではなく、民謡「瓦屋情話」であるが、この曲を歌う際は、国場から真玉橋、豊見城方面の情景が頭に浮かんでくるのである。

2014年1月10日 (金)

「瓦屋節」の歌碑、由来の地はどこか

   

「瓦屋節」の由来の地はどこか

 

 「瓦屋節」に歌われた悲恋物語の舞台はどこなのか。夫ある人妻を見染めて妻にしたのは誰なのか。すでに見たように、主に二つの説がある。
 一つは、国場で瓦を焼いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)。もう一つは、涌田村で陶器を焼いた張献功(チョウケンコウ)である。結論からいえば、悲歌の舞台は国場ではないか、と私は思う。

 

 その理由は簡単である。

 

 その1。「瓦屋節」と歌われる通り、窯があっても、陶器ではなく、瓦を焼いていたことが第一条件となる。涌田村では、張献功は瓦を焼いたのではない。

 

 瓦は、すでに16世紀に渡嘉敷三良によって製造が始まっていた。その数十年後に琉球に来た朝鮮陶工が伝えたのは、陶器であり、瓦ではない。歌の題名は「瓦屋」とされているし、故郷を眺めた場所も「瓦屋の頂」とされている。涌田村が舞台なら、もっと別の内容の琉歌となるはずである。

 

 その2。見染められた夫と子どものある女性は、豊見城の出身だと伝えられる。瓦屋の頂に登って真南の故郷を眺め、愛しい彼への思いを募らせたと歌われる。涌田村の窯があった場所は、現在の県庁所在地付近だという。調査によって平窯が発掘されている。でも、この辺りは平地である。豊見城の方面を眺めるような見晴らしのよい場所ではない。遠方を眺めるには、城岳方面にでも出かけなければならない。090_2



 それに比べて、国場は、瓦を焼く窯のあったという真玉橋の北東側は、高台になっている。国場川と漫湖が眼前に広がり、豊見城はその対岸にあたる。とても展望がよいので、瓦屋原と呼ばれた土地に立てば、この悲歌に歌われた情景が目に浮かぶ。

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                現在の真玉橋

 その3。国場には、いまも渡嘉敷家があり、子孫の方が住んでいる。「字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています」(墓の案内板)といわれる。国場には長い歴史が刻まれている。


 瓦屋原(カラヤーバル)と呼ばれる地があり、この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる

022国場にある渡嘉敷家

 これらから、「瓦屋節」の舞台は、国場だと結論付けたい。
ただ、三良も献功のどちらにも、異国から渡来してきただけに、似たようなエピソードがあった可能性が絶対にないとは言えない。

 

「瓦屋節」に歌われた夫、子供ある女性を見染めて、王府の命で妻にさせたということが、史実であるかどうかは定かではない。あくまで伝承の域を出ない。『琉球国旧記』『遺老説伝』など史料には、そこまでの詳細な記述はないからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年1月 6日 (月)

「瓦屋節」の歌碑、王府には瓦奉行がいた」

瓦奉行(カァラブジョオ)

 中国の瓦職人や朝鮮陶工が琉球に来て、王府には瓦・陶器を統括する役職が置かれた。各地に窯場がおかれ、瓦や陶器の生産が発展したそうだ。
 
 1682年には、かつて美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった製陶所を、現在「やちむん通り」で有名な那覇市壺屋の一カ所に移住させたと伝えられる。

 

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           壺屋の製陶所

『琉球国旧記』(訳注)には次のように記されている。

 

 「『汪氏家譜』によると、万暦年間(1573-1619)、尚永王の御時、汪氏小橋川親雲上(ペーチン)孝韶が瓦奉行に任ぜられ、瓦ならびに焼物などの項を総管した。中頃になって、焼物奉行(ヤチムンブジョオ)を分置した。現在は、また総管している《昔、壺屋(製陶所)は、美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった。康熙21年(1682)、壬戌、牧志村の一カ所(壺屋)に移住せしめた》。089
            掘り出された涌田の平窯

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これによると、当初は瓦奉行が瓦と焼物を含めて統括した。それを、焼物は別に焼物奉行を分置したというから、それだけ生産も増大したのだろう。

 

製陶所を壺屋にまとめたというが、まとめた製陶所の中には国場の瓦焼きは含まれていない。国場では瓦を焼いたということだろう。

 

王府に瓦奉行が置かれたということは、瓦の生産と使用は、王府が深く関わっていたことを意味する。

 

「琉球諸島において瓦が王権と強い結びつきを持っていた。そして様々な制度が定められ、王府主導による瓦の統制が行われた」
 
 「琉球王府が瓦に関する諸制度を整備し、生産と使用を統制していたことは明らかである…瓦を含めた窯業生産を王府が管理していたと推察される」「王府は生産だけでなく消費も統制していたことが知られる」
 
「琉球諸島では瓦の使用は権力者と関係の深い諸施設と宗教関係施設に限られており…瓦葺き建物は王権と関わる象徴的な性質を持ち続けてきたといえるのではないだろうか」(石井龍太著「瓦と琉球~王権、制度、思想、交渉~」)

 

首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、1670年瓦葺きになった。それにあたった安次嶺親雲上(ペーチン)は、渡嘉敷三良の4世だという。

 

首里城だけでなく、その後、社寺仏閣、貴族屋敷、士族屋敷、各間切番所(今の町村役場)に赤瓦が用いられた。庶民の瓦葺きは禁じられていたという。

 

王府時代は、「カラヤー」と呼ばれる専門家が瓦製造と瓦葺き作業を担っていたそうだ。カラヤーは重要な仕事だったということだろう。

 


                 

2014年1月 5日 (日)

「瓦屋節」の歌碑、朝鮮陶工が伝えた陶器製造

朝鮮陶工が伝えた陶器製造

 渡嘉敷三良の墓の近くに、もう一つ見逃せない墓がある。琉球での陶器製造の始まりと伝えられる朝鮮陶工・張献功(チョウケンコウ)の墓である。近くにあると教えてもらったが、探してもわからなかった。発掘調査をしている事務所に戻ってもう一度、墓の場所を尋ねた。渡嘉敷三良の墓を教えてくれた職員は、現場に出ていたが、戻ってきて教えてくれた。

三良の墓から数十メートルも離れていない。道路わきの木が茂ったところに、墓の入り口と小さな石碑が建っている。Photo


 ここには何も陶工のことを説明する表示はない。だが、少し離れたところに、この付近の史跡の案内板がある。それにはよると、陶器製造は、17世紀であり、瓦焼きの始まりよりも数十年ほど後のことになる。

朝鮮から陶工が連れてこられた経過と涌田村(現在の那覇市泉崎)で陶器づくりが始まったことを次のように記している。

 「琉球に帰化した朝鮮陶工張献功の墓。張献功は、もと一六(イチロク)といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から薩摩(現鹿児島県)へ連れてこられた陶工の一人。1616年琉球国側からの願いにより、一六・一官・三官の3人が琉球に渡り、国中に作陶技術を広めたという。その後一官・三官は薩摩に戻ったが、一六は懇請され琉球にとどまり、仲地麗伸(ナカチレイジン)と称し、涌田村(現那覇市泉崎)に家屋敷を下賜された。1638年7月12日死去(年齢不詳)」Img_4299

『琉球国旧記』(訳注)は、次のように記している。

「万暦44年(1616)丙辰、尚豊王が世子でおわした時、命を奉じて薩摩へ赴かれた。この時、世子は請うて、高麗人(の陶工)三名、一官・一六・三官をつれてお帰りになり、わが国の人に製陶法を教えさせた。数年たって、二人はともに鹿児島へ帰ったが、わが国の人は、まだ製陶を知らなかった。一六だけがわが国にとどまって、わが国の民に(製陶法を)伝授した。遂に◆髻(カタカシラ、文字がない)を結って、名を仲地(ナカジ)といい、今にその子孫は泉崎村に居住し、常に製陶業をいとなんでいる。造った甕器を人々は高麗焼とよんでいる」

 新屋敷幸繁氏は「沖縄の人がみな陶工を知るようになったのは、この張献功の功である、とたたえられている」と指摘している(『新講沖縄一千年史上』)。

沖縄の陶器の始まりに、朝鮮から来た陶工がいたことは聞いていたが、それが秀吉の朝鮮出兵が関係していたことは初めて知った。Img_4298

 豊臣秀吉による朝鮮への出兵・侵略のさい、各大名が多数の朝鮮人民を自分の領地に連れ帰った。その中に多くの陶工がいた。陶工を連れ帰った大名はなぜか九州の大名が多かった。朝鮮陶工たちは、その後の日本の陶磁器の発展に大きな貢献をした。
 
 薩摩に連行された陶工は、総計80名ほどにのぼる。薩摩では、藩の保護も薄く、土地の住民から襲われることもあった。「九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義久に連行された陶工たちであった」(中里紀元著「九州の朝鮮陶工たち」、「洋々閣ホームページ」から)といわれる。073
           壺屋にある南窯

 この中の3人が沖縄に連れてこられたわけである。

 お墓は、残念ながら石碑に刻まれた文字がほとんど判読できない。無理やり日本に連行され、沖縄にまで連れてこられた朝鮮陶工の功績を伝えるために、渡嘉敷三良と同じような説明板をぜひ設置してほしいと思った。

 「瓦屋節」に歌われた伝承について、朝鮮陶工の張献功が妻とした女性のことが歌われているという説がある。

 首里郊外を散歩していた張献功が美しい女性を見染め、ぜひとも妻にしたいと王府に願い出た。女性は人妻で子どもまでいたが、王府は陶器の製造技術を受け継ぐまで琉球にいてもらいたいので、彼女を夫や子どもと引き離して結婚させた。

 この説によれば、献功は涌田村で陶器を焼いていたので、瓦屋の頂に登って故郷を眺めたというのは、涌田村ということになる。そのように書いている人もいる。これについては、後から検討したい。

2013年12月30日 (月)

「瓦屋節」の歌碑、渡嘉敷三良の墓

渡嘉敷三良の墓

渡嘉敷三良(トカシキサンラー)の墓は、那覇市牧志の緑ヶ丘公園の一角にある。といっても、場所がわからないままだった。公園の未整備地区は、古い墓地になっている。ナイクブ古墓群発掘調査が行われている。作業をしている人に「渡嘉敷三良の墓はどちらですか」と尋ねたが「わからない。事務所があるからそちらで聞いてくれ」という。



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 パラダイス通りにある事務所を訪ねた。「このあたりの墓はずいぶん古いですね」と聞くと、「こちらは、300年くらい前から戦後もまだ使っていました」という。
 三良の墓の場所をすぐに教えてくれた。

 墓は緑ヶ丘公園の整備が済んだ地域の端にある。小山のような琉球石灰岩を掘り抜いて造られており、石積みの墓より古い形のものらしい。入り口に次のような説明文が設置されている。    Img_4293_2



              

「渡嘉敷三良は、16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人でした。永住して妻を迎え国場村に住み、その近くに窯を設けて瓦を焼きました。字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています。その技術は、子孫へと受け継がれ、四世の安次嶺親雲上(アシミネペーチン)は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜りました。

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 この墓は、1604年またはそれ以前につくられたと思われます。琉球石灰岩を掘り抜き、奥に遺骨を入れた甕などを安置する一段のタナ(棚)をけずり出してつくられています。このような構造は、アーチを主とした石積みによる墓室が登場する以前からの技法と考えられます。そのため、昔の技法をよく残すこの墓は、その変遷をたどる貴重な存在といえます」

 三良は妻を迎えて国場に住み、窯を造って瓦を焼いた、とのべている。

 『訳注 琉球国旧記』(1816年)は「瓦工」の項で次にように記している。

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「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。その子孫は、今もなお国場村におり、12月24日になると、謹んで祭品を供え、紙(銭)を焼いて、先祖を祭っている。これは、先祖からのしきたりである」

 それにしても、国場からは遠いこの牧志に墓があるのだろう? もしかして、当初この付近に住んでいて、国場に移って行ったのだろうか。まだ不明のままである。

2013年12月23日 (月)

瓦屋節の歌碑を訪ねる、その1

瓦屋節の歌碑

 

 国際通り裏にある歌碑

沖縄の瓦屋のはじまりにまつわる哀しい伝承をテーマとした「瓦屋節」の歌碑が那覇市牧志にある。すでにこのブログで、「瓦屋節」と「瓦屋情話」について紹介した際、瓦屋のあった場所は、那覇市国場であると書いた。Img_4287


 ところが、歌碑はまったく異なる場所にある。那覇のメインストリートとなっている国際通りのすぐ裏側である。沖映通りからパラダイス通りに入り、すぐ左手に草木が茂る林がある。緑ヶ丘公園の一角になる。古いお墓がある。

 訪ねたときは、古い墓を整理して公園を整備する計画があるそうで、茂った草木を刈り払ってくれていた。作業していた人に「歌碑を探していているんですが、どちらかご存知ですか」と尋ねると、「歌碑はこちらですよ」と指で差してくれた。小高い丘の頂になるところだった。Img_4290


 この場所は、昔は「牧志村照川原」と呼ばれていた。
 歌碑と説明の石碑があった。

「琉球の陶業発展の陰にまつはる物語に瓦屋節の悲歌と伝説がある。その由来は瓦を焼出した異邦人てある瓦陶匠の妻にせられたる女は夫のある人妻であった。王命に従って異人の妻になって行った女は瓦焼く丘に登り夫の住む村をながめて悲んだといふ女の情けを詠んだ歌が瓦屋節の悲歌となり伝説になって伝えられた。歌碑は史実と伝説を秘めたまま黙して真実を語らず瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地川原の丘の上に立っている」。

 この瓦陶匠は、16世紀に中国から渡ってきて琉球に住み着いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)である。

 この伝説をもとにした悲歌が「瓦屋節」である。

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「瓦屋頂登てぃ 真南向かてぃ見りば 島浦どぅ見ゆる 里や見らん」
 歌意は次の通り。
「瓦屋の頂きに登って 南に向かって見ると 故郷の村は見えるけれど 
 貴方の姿は見えない

 なぜ、この歌の歌碑がこの場所に建てられているのか、よくわからなかった。説明の碑を読むと「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地
川原の丘の上に立っている」とある。歌碑のある丘が、瓦屋のあった場所ではない。緑ヶ丘公園となっているこの付近は、いまも古い墓がたくさんある。
 

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瓦屋節に歌われた場所については、国場という説ともう一つ、別の涌田(現在の那覇市泉崎)だという説がある。この説明の碑によれば、どちらとも書かれていない。湧田説については、別途書きたい。

この丘に歌碑があるのは「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地」だから。渡嘉敷三良のお墓は、歌碑のあるところから、百数十メートルくらい北の緑ヶ丘公園の一角にある。お墓に近いから、歌碑が建立されたようだ。この墓については、次に紹介する。

2013年12月 2日 (月)

沖縄民謡に歌われた民具、ウズンビーラ

国場の伝統芸能に登場

那覇市国場の伝統芸能に農耕用具のヘラを使う「ウズンビーラ」がある。ウズンビーラとは、ヘラのこと。「ウズン」の意味は「埋もれた物をおこすことのオゾミか、あるいは、目を覚ます意のウジュムンからの転化かと考えられている」。またウジン(お膳)に例えてウジンビーラともいった。


  材質は木製であり、一本の木をくって作ったといい、マミク(和名クスノハカエデ)、コバテイシ、マキ(チャーギのことか)などの硬い木が用いられた。

 史料によると、真和志・南風原・大里・東風平・豊見城の五つの間切(まぎり・琉球王府時代から明治の中頃まで行政区画名称・現在の市町村)では、つとめてこのヘラを用いて深耕せよと、指導したようである。これらの地域はジャーガルという重粘土質の土壌であるため、王府は督励したが、作業は重労働で明治の頃からは使用されなくなり、今では博物館にねむるだけである。『国場誌』はこう記している。

 ただ、1955年発行の『真和志市誌』は「このウヅン・ビーラは今でも、この辺の農家に見受けることがあるが、この秤(原文ママ、ヒラのこと)で畔立した田は、鍬を用いた所よりも稲の分檗及び出穂等が共に揃って豊作になる」とあるそうだ(『国場誌』)。

                           

 

 踊りは、いわゆる農耕民俗舞踊で、ウズンビーラを片手に農作業の様子を芸能化している。

 今から500年前、西暦1500年代、当時の国王が農業振興を目的に国場・識名・上間・仲井真などの村人を集めて、田んぼを耕す競技をさせて、識名園の勧耕台(カンコウダイ、付近が一望にできる高台)からみたことに始まるという(『国場誌』)

 一口にヘラといっても、いろいろな形があるようだ。昔からの長方形の物から先が尖ったタイプもある。その幅も狭いものから広いものまでさまざまだ。
   ウズンビーラの写真は『国場誌』から。

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 昔は水田用によく使われたが、沖縄では、稲作はいまごく一部の地域でしか作っていない。ヘラは甘藷(芋)の苗の植え付け、草取り、収穫などに便利だという。沖縄は高温多湿で雑草がよく茂るので、草取りには欠かせないともいう。

 奄美諸島でも、甘藷掘りにフィラ(箆)を使うそうだ。

 

民謡に登場するヘラ

沖縄民謡でも、ヘラは登場する。

 人気のある沖縄芝居「丘の一本松」は、カンジャー屋(鍛冶屋)の親子が古金を打つ。「打ちゃる鍬箆(クェーヒーラー) 汗(アシ)はい水はい 打っちゃい 叩ちゃい」と歌う。「打つ鍬、ヒラ 汗水流して打ったり叩いたり」という意味である。

宮古島の人頭税廃止の喜びを歌った「漲水の声合(ハリミズノクイチャー)」は、「びら持だ金や押さだ うからでぃだらよ」と歌う。「今からはヘラや鍬を取る仕事もあまりしないで、島は楽になるだろう」。

面白いのは、沖縄テレビのローカル特撮番組「ハルサーエイカー」に「ヘラ」が登場することだ。ハルサーとは「畑を耕す人」、エイカーとは「一族」という意味。そのなかに「ノーグ・ヘラー」がいる。「農具のヘラの化身」である。「ノーグ・カマー」は「農具カマの化身」である。こういうところにも「ヘラ」が登場するとは意外だった。それだけ、ハルサーにとっては、身近な存在、なくてはならない存在だったということだろう。

2013年12月 1日 (日)

沖縄民謡に歌われた民具、ヘラ

ヒーラ(へら)


 沖縄に来て、郷里の高知県あたりでは見かけなかった農具に「ヒーラ(ひら)」がある。農作業を見たのではなく、伝統芸能の踊りで登場する。最初見たときに、これは見たことがない農具だ。なんだろうと不思議に思った。

ヘラとは、「片手に握って、芋づるの植えつけや除草に使う小農具」のことだ。平たい鉄の片方に柄を通すミゾを作り、そこへ叉木を差したものである。
 
 田畑を耕すのにも使った。

                                             

Photo

 

                『国場誌』から

 日本でよく見かけたのは鋤(スキ)である。長方形の刃床の部分に取手の柄がついている。ヘラに似ているが、異なるのは柄のつき方である。鋤は、刃床の直線上に柄がついている。ヘラは、刃床に直角に柄がついている。鋤の図は「goo辞典」から。
 
 鋤は、おもに手と足の力を利用して土を掘り起こす農具のことをいう。犂(スキ)があるが、これは馬や牛に引かせて田畑を耕す農具である。人力で土を掘り起こすのは重労働だが、牛馬で犂を引かせれば作業は楽にできる。

上江洲均氏は「牛耕用犂(スキ)は、沖縄諸島でも使われて来たが、鋤は入って来なかったものか、あるいは入ったが、その後永くは残らなかったものか、見ることはできない」という。沖縄の場合、ヘラがよく使われ「犂(スキ)または鋤(スキ)、あるいは鍬(クワ)の農耕文化ではなく、ヘラの文化といえよう」と指摘している(『沖縄の民具と生活』)。

 戦後も新造して使用された。戦後いつのころからか、柄まで一枚の鉄を曲げて作ったものが考案された。現在もこの系統のヘラが多数を占めている(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

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2013年11月30日 (土)

沖縄民謡に歌われた民具、ニクブク

ニクブク

「これって何?」。最初聞いたときに想像できなかったのが「ニクブク」。藁筵(ワラムシロ)のことだ。

沖縄では、昔は、家の座敷の下敷きにし、その上に茣蓙(ゴザ)を敷いた。庭に物干し用として敷いたり、何かの祝い事がある時は、庭に敷いた。冬の寒い夜、貧しい家庭では、これを寝具に使う場合もあった。ニクブクは、自作する家が多かったが、自作できない家では、他所からツクヤー(藁筵作り)を頼み入れ、寝泊まりさせて作らせる場合もあった。

 ムシロは、藁やイ草で編んだ敷物である。菰(コモ)ともいった。ネット「ウィキペディア」によると、ゴザはその代表的なものだという。

 私の育った高知では、ムシロとゴザはまったく異なる。ムシロは藁で編んだ厚くて粗い敷物のこと。ゴザはイ草で編んだ薄い敷物のことをいう。畳表に使われるのと同じ物。巻いて持ち運びもできる。たとえば運動会など野外行事の時、ゴザを敷いた。いまはブルーシートにすべて取って代わられた。


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         ニクブク。上江洲均著『沖縄の民具と生活』から

 「スウキカンナ」節では、「寝座敷用のムシロを買いませんか。あなたのムシロは縁の織り方がよくない。私のニクブクを買ってください」という。

 ニクブクが藁ムシロだとすれば、寝座敷ムシロとはどう違うのだろうか。アルテ三線仲間の玉那霸さんによると、「寝座敷ムシロとはゴザのことですよ」という。ニクブクは粗いムシロのことである。

玉那霸さんが興味ある話をしてくれた。それは、首里崎山町あたりは、泡盛の酒造所がいくつもあった。そこでは、麹を干すのにニクブクを使っていた。使ったニクブクをたくさん塀に掛けて干す光景をよく見かけたそうだ。
 
 

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 ニクブクを干すため、塀の先端が四角だと、雨が降って来た時、ニクブクを仕舞うのに塀に引っかかって手間取る。だから、塀の先端は三角にしてあり、素早く仕舞うことができたという。なるほど。沖縄は雨が降る時は、一秒を争って仕舞わないとずぶ濡れになるからだ。

 

崎山の酒造りは「三村踊り節」に歌われている。沖縄各地の物産などで共通する三つの村を歌った面白い曲である。5番の歌詞に酒造りが登場する。

 

「赤田、鳥堀、崎山と三村 三村ぬ二才達(ニセタ)が 揃とうて 酒たち話

 麹出来らしょ 元ぬかんじゅんど」

 

この三村は、首里城の周辺にあり、昔から泡盛造りが盛んだった。次のような意味になる。

 

「赤田、鳥堀、崎山の三つの村の青年たちが揃って酒造りの話をしている 

麹をうまくつくれよ うまくやらないともとがとれず損するぞ」 

 

先日、糸満市西崎にある比嘉酒造を見学する機会があった。泡盛資料館に、ニクブクの上に黒麹を広げて干している様子が再現されていた。「このようにしてニクブクが使われたのか」とよく理解できた(上写真)

 

それにしても、ニクブクという名称はあまりにムシロとはかけ離れていて、まだなじめない。「一説には『猫ぶく』、すなわち作り方が猫の爪を立てるしぐさにちなんだ名称だという」(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

 以上は、上江洲氏の著書を参考にさせていただき、私見をまじえながら紹介したものである。

2013年11月29日 (金)

沖縄民謡に歌われた民具、バーキ

 バーキ

 バーキとは、竹を編んだカゴのこと。もっとも庶民的なカゴだ。背の低いバーキは、運搬用具としての用途が多い。口径が開いているわりに背が低く安定しているので、女性が頭の上に載せて荷物を運ぶのに向いている。

編み目を粗くすれば、野菜や魚の運搬用であり、目を細かに編めば米入れ用と用途も広い。

「スウキカンナ節」では、「あなたのカゴはあまりに粗すぎるので、私の米を入れられるカゴを買いませんか」と歌われる。「越来間切の上地」あたりは、バーキの産地だったそうだ。

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      頭に載せたバーキ。上江洲均著『沖縄の民具と生活』から

バーキの語源はわからないが、「キ」は「箕」の文字を当てて考えることができるそうだ。

ソーキやバーキにしても竹製品。沖縄ではあまり竹を見ない。どのようにしていたのだろうか。上江洲氏によれば、竹は割りやすく編みやすい。沖縄では竹の利用は多かったと思われる。ただ、良質の竹に恵まれず、蓬莱竹が主に用いられてきた。

 昔は「バーキウヤー」と呼ばれるザル売りがいたという。バーキは、「各ムラともカッティー(専門)と呼ばれる人が作っていた。特に惣慶には専門の人がおり、注文に応じて作っていた。山竹でバーキを作った。耳が二つあるミミターチャー(タンカーミーミー)と四つ耳のミミユーチャーがある。それを農家でよく使っており、注文も多かった。籠職人の家庭の者が売り歩くこともあり、それがバーキウヤーである」(上江洲均著『沖縄の民具と生活』)。

 

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