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文学

2013年9月17日 (火)

山之口貘・沖縄に思いをよせ

 

故郷・沖縄に思いをよせた詩

 

 那覇市に生まれ、上京して詩人として活動してきた山之口貘は、故郷の沖縄をテーマにした詩がたくさんある。沖縄のなつかしい風景や思い出をテーマとした詩もあるが、沖縄戦で様変わりした故郷に思いを寄せたいくつもの詩は胸をうつ。

「不沈母艦沖縄」

 

 「守礼の門のない沖縄 崇元寺のない沖縄 がじまるの木のない沖縄 梯梧の花の咲かない沖縄 那覇の港に山原船のない沖縄 在京30年のぼくのなかの沖縄とは まるで違った沖縄だという」
 
「まもなく戦禍の惨劇から立ち上り 傷だらけの肉体を引きずって どうやら沖縄が生きのびたところは 不沈母艦沖縄だ いま80万のみじめな生命達が 甲板の片隅に追いつめられていて 鉄やコンクリートの上では 米を作るてだてもなく 死を与えろと叫んでいるのだ」

 沖縄を占領した米軍によって、父祖伝来の宝の土地は強奪された。「不沈母艦」の「甲板の片隅」に追いつめられ県民。戦後沖縄の姿を見事に描き出している。「死を与えろと叫んでいる」というのも、生きる糧である土地を奪われては生きていけない。その血を吐くような叫びがここにある。

「島」

「おねすとじょん(ミサイル)だの みさいるだのが そこに寄って 宙に口を向けているのだ 極東に不安のつづいている限りを そうしているのだ とその飼い主は云うのだが 島はそれでどこもかしこも 金網の塀で区切られているのだ 人は鼻づらを金網にこすり 右に避けては 左に避け 金網に沿うて行っては 金網に沿うて帰るのだ」

 ここにも、島は金網で囲われ、住民は「金網に沿うて行き、帰る」しかない現実をえぐっている。ミサイルが宙に口を向け「極東に不安のつづいている限り」居座るというのは、現代もそのままあてはまる。「北朝鮮の脅威」や尖閣諸島をめぐり「中国の脅威」をあおり、米軍基地も海兵隊もオスプレイも沖縄に必要だと叫ぶ。「飼い主」も「飼い犬」も口をそろえて叫んでいるのではないか。

 

「沖縄よどこへ行く」

 

「蛇皮線の島 泡盛の島 詩の島 踊りの島 唐手の島 パパイヤにバナナに 九年母(クニブ)などの生る島 蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島 仏桑花や梯梧の真紅の花々の 焔のように燃えさかる島 いま こうして郷愁に誘われるまま 途方に暮れては また一行づつ この詩を綴るこのぼくを生んだ島 いまでは琉球とはその名ばかりのように むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく 島には島とおなじくらいの 舗装道路が這っているという その舗装道路を歩いて 琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」 

 詩はこのあと、かつて中国に服属し薩摩に支配された琉球が、廃藩置県により琉球王国が廃され、「日本の道」に踏み出した歴史を振り返る。
 
「おかげでぼくみたいなものまでも 生活の隅々まで日本語になり めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり怒ったりするにも 人生のすべてを日本語で生きて来たのだが 戦争なんてつまらぬことなど 日本の国はしたものだ」

 

「それにしても 蛇皮線の島 泡盛の島 沖縄よ 傷はひどく深いときいているのだが 元気になって帰って来ることだ 蛇皮線を忘れずに 泡盛を忘れずに 日本語の 日本に帰ってくることなのだ」

 日本に組み込まれた沖縄が伝統ある民俗・文化も言語も「昔の姿」を失ってきた。その沖縄は戦争と異民族の支配下によって「傷はひどく深い」。沖縄はどこへ向かうのか憂う。深い傷を負った故郷への痛切な思いと祖国復帰を願う心情にあふれている。

「弾を浴びた島」

「島の土を踏んだとたんに ガンジューイ(お元気か)とあいさつしたところ はいおかげさまで元気ですとか言って 島の人は日本語で来たのだ 郷愁はいささか戸惑いしてしまって ウチナーグチマディン ムルイクニ サッタルバスイ(沖縄方言までもすべて戦争でやられたのか) 島の人は苦笑したのだが 沖縄語は上手ですねと来たのだ」

 貘さんの詩は、共通語で書かれている。だが、ウチナーグチとそこに込められたウチナーンチュの肝心(チムグクル)をとても大切にしているのだろう。
 
 砲弾ですべてが破壊された故郷。「方言までやられたのか」という表現には、すっかり変わってしまった故郷への戸惑いとわびしさが感じられる。

 

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   高田渡が歌う「鮪と鰯」

「島からの風」

 

「そんなわけでいまとなっては 生きていることが不思議なのだと 島からの客はそう言って 戦争当時の身の上の話を結んだ ところで島はこのごろ そんなふうなのだときくと どんなふうもなにも 異民族の軍政下にある島なのだ 息を喘いでいることに変りはないのだが とにかく物資は島に溢れていて 贅沢品でも日常の必需品でも 輸入品でもないものはないのであって 花や林檎やうなぎまでが 飛行機を乗り廻し 空から来るのだと言う 客はそこでポケットに手を入れたのだが これはしかし沖縄の産だと たばこを一箱ぽんと寄越した」

 ここにも、異民族の支配下での沖縄の暮らしの様相が描かれている。

「基地日本」
 「ある国はいかにも 現実的だ 歯舞・色丹を日本に 返してもよいとは云うものの  つかんだその手はなかなか離さないのだ」
 
「ある国はまた もっと現実的なのだ 奄美大島を返しては来たのだが 要らなくなって返したまでのこと つかんだままの沖縄については プライス勧告(※)を仕掛けたりするなどが 現実的ではないとは云えないのだ 踏みにじられた 日本」
 
「あちらにもこちらにも 吹き出す吹出物 舶来の 基地それなのだ」
 
(※米軍基地の軍用地料を一括払いにして土地を接収するもの)

 

 沖縄だけでなく、吹き出物のような米軍基地が各地におかれた「基地日本」。要らなくなった奄美諸島は返しても、「つかんだままの沖縄」は絶対手放さない。そればかりか、軍用地料の一括払いで土地接収を企むアメリカに、異議の一つも言えない。「踏みにじられた日本」を鋭く風刺している。
 
 

 このブログで紹介した貘さんの詩は、戦争と原水爆、基地問題などなんか政治のテーマばかりになってしまった。これは、貘さんがこういう詩ばかり作っているということではないので、誤解のないように。貘さんの詩作のなかでは、大河のなかの一支流にすぎない。

  貘さんの詩は、難渋な言葉や観念の遊びのような表現とは無縁だ。平易な言葉で、なにか飄々としてユーモアがある。思わずニヤッと笑ってしまう。それでいて人生と社会の真実を深くすくいとっている。
「貧乏が人間を形態して僕になっている」と歌うように、貧しい日々の暮らしの現実にしっかり立ちながら、「地球の頂点」に立って眺めて、その時代と世相を風刺する。

  そんな作品群のなかで、戦争や原水爆にかかわる詩は、特異なものではなく、貘さんの詩作の重要な一分野を成していると思う。フォークシンガーの佐渡山豊、高田渡らが、その詩を歌にしているように、人々の共感を呼んだのだろう。沖縄県民だけでなく、民衆に愛され続ける詩人だと思う。

2013年9月16日 (月)

原水爆を食うバク

 

 原水爆をテーマとした詩

 

 山之口貘の詩集に『鮪に鰯』がある。1964年12月に刊行された。この詩集には、原爆、水爆をテーマにした詩作が数多くある。詩集の表題からして、それがテーマである。

 

 

「鮪に鰯」

 

「鮪の刺身を食いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った」「死んでもよければ勝手に食えと ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ」
 
「亭主も女房も互いに鮪なのであって 地球の上はみんな鮪なのだ 鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅かされて 腹立ちまぎれに現代を生きているいのだ」

 

 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の第五福竜丸をはじめ多数の漁船が死の灰を浴びるなど被災した。漁獲したマグロは放射能に汚染され、ガイガー計数器を当てると「ガーガー」と異常な音を響かせた。「マグロ汚染ショック」は日本中を騒がせた。季節風にのって放射能を含んだ雲は日本列島に到着し、放射能雨を降らせた。ビキニ事件は、国民の恐怖のどん底に突き落とした。

 貘さんにも計り知れない影響を与えたことだろう。

「死んでもよければ勝手に食え」「鮪は原爆を憎み…腹立ちまぎれに現代を生きている」。獏さんらしい表現で、心底からの憤りが込められているようだ。

 

「雲の下」

「ストロンチウムだ ちょっと待ったと ぼくは顔などしかめて言うのだが ストロンチウムがなんですかと 女房が睨み返して言うわけなのだ 時にはまたセシウムが光っているみたいで ちょっと待ったと 顔をしかめないではいられないのだが セシウムだってなんだって 食わずにはいられるもんですか 女房が腹を立ててみせるのだ かくして食欲は待ったなしなのか 女房に叱られては 眼をつむり カタカナまじりの現代を食っているのだ」

 

 ここにも、これまでなじみのなかった「カタカナ語」のストロンチウム、セシウムに脅かされる日々の暮らしが描かれている。汚染に食卓や健康がおびえかされる不安。だが、生きていくため、不安を感じながらも、完全に逃れることはできない現実がある。貧しい暮らしのなかで、「カタカナ語」が忍び寄っていても食べざるを得ない現実がある。

 これを読むと、60年近い前の事件というだけではなく、福島の原発災害による現実とも重なってくる。大地も海も地下水まで汚染された。震災から2年半たっても、福島はじめ関東首都圏からも多数の住民が避難を余儀なくされている。食料や住環境への不安もある。そのもとでも、人々は大地に根を張り、懸命に生きて働き、暮らしていかざるを得ない。「カタカナまじりの現代を食って」「腹たちまぎれに生きている」現実は今もあるからだ。
 
 

 

 「羊」

「食うや食わずの 荒れた生活をしているうちに 人相までも変って来たのだそうで ぼくの顔は原子爆弾か 水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが」
 
「地球の上には  死んでも食いたくないものがあって それがぼくの顔みたいな 原子爆弾だの水素爆弾なのだ」。そんななかで、羊は「紙など食って やさしい眼をして 地球の上を生きているのだ」

 「死んでも食いたくない」原爆や水爆。貘さんが現代に生きていれば、そのなかにきっと「原発」も加えたのだろう。

 

 

「貘」という詩は、代表的な作品である。

「悪夢はバクに食わせろと むかしも云われているが 夢を食って生きている動物として バクの名は世界に有名なのだ」で始まる。

 「ところがその夜ぼくは夢を見た 飢えた大きなバクがのっそりあらわれて この世に悪夢があったとばかりに 原子爆弾をぺろっと食ってしまった 水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと ぱっと地球が明るくなったのだ」で終わる。

 ビキニ事件への不安と怒りがきっかけとなり、日本と世界で、「原水爆をなくせ」「核実験を禁止せよ」という原水爆禁止の声と運動が大きく巻き起こった。
 
 いま「悪夢」の最たるものと言えば原爆、水爆だった。「ぺろっと食べるバク」がいれば、すべての核兵器を食べてなくしてほしい、という貘さんの願いが込められている。なくせば地球と人類の未来が明るくなる。この願いは、21世紀の人類にとっても、切実な願望である。

 ユーチューブに、佐渡山豊、高田渡らが歌う「貘」がアップされていたので紹介する。

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「雲の上」

「たった一つの地球なのに いろいろな文明がひしめき合い 寄ってたかって血染めにしては つまらぬ灰などをふりまいているのだが 自然の意志に逆ってまでも 自滅を企てるのが文明なのか なにしろ数ある国なので もしも一つの地球に異議があるならば 国の数でもなくする仕組みの はだかみたいな普通の思想を発明し あめりかでもなければ それん(ソ連)でもない にっぽんでもなければどこでもなくて どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」 

 かつての米ソ対立の冷戦時代、核兵器やミサイルの軍備拡張の競争により、地球破滅の瀬戸際を歩いていた愚かさを痛烈に風刺する。ソ連が崩壊し、米ソ対立が終わっても、地球上の戦火はやまない。新たな戦争、テロや民族紛争が続く。
 
「どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」という「普通の思想」は実現しない。その思想は、いまだ人々の頭の中にしか存在しない。

2013年9月14日 (土)

山之口貘の詩碑を再訪する

山之口貘の詩碑が那覇市内の与儀公園にある。公演のど真ん中にある。すぐ近くでよく三線の練習をサークル仲間のおじいらとやった。貘さんの詩碑であることは知っていたが、詩集を読んだので改めて訪ねた。Img_3350 詩碑は40年近く前に建てられているが、見過ごす人も多いので、詩碑の案内標注が建てられている。
 詩碑が建立された経過と山之口貘の人と作品を紹介する案内板も碑の前に建てられた。

Img_3354 案内文は次のように紹介している。


 1975年7月、貘の13回忌に合わせ、山之口貘歌碑建立期成会(代表宮里栄輝)により建てられて詩碑。碑文には、1935年に発表された「座布団」が刻まれている。

 

 

 Img_3353


 山之口貘は、本名を山口重三郎といい、父重珍、母カマドの三男(四男三女の第五子)として1903年9月11日、那覇市東町(当時)に生まれた。沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)在学中から新聞などに詩を投稿。その後、山城正忠、国吉真哲等とともに「琉球歌人連盟」の結成に参加し、この頃から「山之口貘」のペンネームを使用した。1925年2度目の上京を果たし、職を転々としながらも文学者佐藤春夫や金子光晴等の支援を受け詩を発表した。

 
 処女詩集『思辨の苑』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年)、太平洋戦争後には、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表した(第二回高村光太郎賞受賞)。1958年11月、34年振りに帰郷し、親族・友人等の歓迎を受け、2カ月近く滞在した。

 

 Img_3352
          詩碑には「座布団」が刻まれている

1963年7月19日、胃ガンのため死去、享年59歳。千葉県松戸市の八柱霊園に葬られた。死後4冊目の詩集『鮪に鰯』(1964年)が発表され、金子光晴はその本の中で、「貘さんは第一級の詩人でその詩は従って第一級の詩である」と称賛した。

 未発表作品を含む直筆元号約7500点余りは、遺族により沖縄県立図書館へ寄贈され、2010年11月「山之口貘文庫」として開設された。Img_3351


2013年9月13日 (金)

詩人・山之口貘の「紙の上」

山之口貘「紙の上」

 

 

 

 沖縄を代表する詩人、山之口貘(1903年9月11日―1963年7月19日)の生誕110年の今年、さまざまな企画がある。9月7日には、琉球新報社主催「貘さんありがとう」も催しがあった。

 

 すでに死後半世紀がたつ。「人々の心に生き続ける貘」「平易な言葉で地球を呼吸した詩人」(「琉球新報」10日付)と評され、愛されている。

 

 この催しでは、フォークシンガーの佐渡山豊が、貘の詩「紙の上」をギターを弾きながら歌った。これまで、ほとんど貘の詩を読んでいなかったので、改めてかれの全集の第1巻「詩集」を読んでみた。佐渡山が歌った「紙の上」を紹介する。

 

 

 紙の上

 

戦争が起きあがると

 

 飛び立つ鳥のやうに

 

 日の丸の翅(ハネ)をおしひろげそこからみんな飛び立つた

 

 

 

 一匹の詩人が紙の上にゐて
 
 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 発育不全の短い足 へこんだ腹 持ち上がらないでつかい頭

 

 さえづる兵器の群れをながめては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐるが

 

 いつになつたら「戦争」が言へるのか

 

 不便な肉体

 

 どもる思想

 

 まるで砂漠にゐるやうだ

 

 インクに乾いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

 

 その一匹の大きな舌足らず

 

 だだ

 

 だだ と叫んでは

 

 飛び立つ兵器の群れをうちながめ

 

 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる。

 

 この詩は、1940年12月20日、刊行された『山之口詩集』の中の一篇である。日本が軍国一色に染め上げられ、戦争へこぞってなびいて行く時代である。「飛び立つ兵器の群れをうちながめ」ながら、「だだ、だだ」と叫び、あがらう詩人の精神が感じられる。

 

 佐渡山豊が旋律をつけた歌が、ユーチューブにあったので、アップしておきたい。

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